つやだしのレモン

本や漫画の感想を書きちらすブログ。

バラエティ番組を見るのにも、リテラシーは必要である

 テレビのバラエティ番組を見るときにも、リテラシーが必要だという話。

 

◎バラエティ番組に対するとんちんかんな批判

 テレビのバラエティ番組に対して、「けしからん!」と怒っている人をけっこう目にする。中には真っ当な意見もあるけど、一部には「ん?」と首をひねらざるをえないようなものもある。

 そうした意見を見るたびに、バラエティ番組にもリテラシーが必要なのにと思う。バラエティの文法が分かっている人向けに作っている内容に対して、その文法を知らない人が怒っている。怒る人は自分が正しいと思っているから怒るし、テレビを作っている人とそのファンは、その怒りがとんちんかんであることを知っているから無視する。でもなぜか、そうしたとんちんかんな批判が大きくなって、番組の内容が変えられたり、番組そのものが潰れたりすることがある。

 例えば、バラエティ番組の「お約束」として、「嫌がる」というジェスチャーがある。バラエティ番組では、例えば過酷なロケが課されると、出演者は「嫌がる」というジェスチャーをする。これは本当に嫌がっているのではなく、「嫌がりながらやる」ほうが番組が面白くなるからそうしている。

 でも、そうしたジェスチャーを本気で捉えている人も結構いる。思い出すのは『ガキの使い』での「ベッキーへのタイキック」。

 このタイキックについてはいろいろな意見があって、例えば「暴力で痛がるさまを笑うことの低俗さ」を指摘する批判は、たしかに正当性があると思う。でも一方で、「本人がタイキックを嫌がっているのにやらせるのはおかしい」という意見がある。だが、「嫌がる」というのはあくまでバラエティ上のジェスチャーだし、「タイキックを受けさせている側が、逆に受けるハメになる」という構図も含めたバラエティの定番である。出演者も当然そうした背景を理解したうえで嫌がっているのだし、だから成立している。それなのに「出演者が可哀想」というのは、その出演者も傷つけている。

 お金を借りて返さない人に対して、「君は本当に信頼できる人だね」と皮肉を言ったとする。すごく鈍感な人は、それを皮肉と理解できずに、「褒めていただきありがとうございます」なんて言ったりする。言葉の裏の意味を理解できてないのだ。上の批判はいわばこうした無理解である。

 バラエティ番組とは一つのジャンルであり、だからバラエティのリテラシーがないというのは、そのジャンルのルールへの理解がないことに等しい。ルールを知らぬままに批判することは、双方にとって虚しさしかないし、乾いた笑いしか生まない。

 

◎「板尾が見てる!」

 昔の『ガキの使い』やっていた、「板尾が見てる!」という企画。番組レギュラーの5人がテレビの撮影をしていると、板尾創路がやってきて、いちゃもんをつけてくるというコントである。

 



 このコントに対して、あろうことか、「板尾はこんなとんでもない人間なのか」という苦情がテレビにあったという。

 『ガキの使い』を好きで見ている人なら、これがコントであることはすぐに分かる。また、この企画が初見であるという人でも、バラエティの文法を分かっているならばコントであることには気づくはず。

 だから、このコントが批判される点として、「板尾の押しが弱くて迫力がない」とか、「展開がワンパターンで面白みにかける」みたいなことが言われるならまだ分かる。でも、「板尾の人格に問題があるのではないか」というような批判をしてくるのには度肝を抜かれる。

 これはまあ極端な例ではあるが、バラエティのルールはある程度はあって、作っている側もファンもそれを理解した上で番組を楽しんでいる。

 これは他のジャンルで例えるならプロレスに近い。プロレスを楽しんでくれるのはエンタメとしてのプロレスの楽しみ方を知っている人であり、レスラーもそうした人に見てもらいたくてプロレスをしている。だから、「プロレスはヤラセじゃないか!」といってプロレスを叩くのが見当違いであり、その人はプロレスの楽しみ方を分かっていない人なのだ。楽しみ方を理解したうえで、それが自分には合わないと感じれば去ればよい。根っこの部分を理解せぬままに見当違いの批判をすることには何の意味もない。

 

◎深夜ラジオというコミュニティ

 リテラシーの必要性を強く感じた近年の事件に、「D.C.GARAGE」というラジオ番組の炎上がある。「アベンジャーズからファルコンを脱退させよう」というスペシャルウィークの企画が、主にアベンジャーズのファンたちから猛烈に批判され、番組内容の変更を余儀なくされたという事件である。

 ラジオを聞いているリスナーであれば、これはアベンジャーズに対するリスペクトがあったうえでの企画であり、「ファルコンを引退させる」なんて結末にはならないことが織り込み済みの内容である。だが、そうした背景を知らぬ人たちや、深夜ラジオのリテラシーを持たない人たちが、企画名を見て群がって次々に火を投げ入れたことで炎上した。

 深夜ラジオはいまや一部の限られたコミュニティ向けのニッチな娯楽である。テレビに比べればその対象ははるかに狭く、だから番組もそのニッチな層に向けて作られている。でも、そうしたコードを理解しない人々が、実際に音源を聞くこともないまま、単に字面を追いかけて焚き付けたことが、番組の内容を変えてしまった。中には「ファルコンは黒人であり、これは黒人差別だ」みたいな、脱力するような批判を口にする人もいた。

 

◎どうしてこういう状況になったのか?

 テレビが今よりも人気だったころは、「一般向けのバラエティ」と「バラエティ好き向けのバラエティ」とが棲み分けできていた。前者がゴールデンタイムのバラエティ番組だとすると、後者は11時以降の遅めの時間帯にひっそりやっている番組である。『ガキの使い』は明確に後者であり、だから、上に書いたような番組へのとんちんかんな批判も、「うるせえ!」と門前払いにできる余裕があった。

 でも今は、テレビもかつてほど求心力がないので、いろんなバラエティが「一般向け」を目指すようになっている。本当は「リテラシーがある人限定の番組」のはずなのに、一般の人にも見てもらわないと番組が成り立たないような状況になっている。そして、インターネットを通じて番組の情報を拡散し、なるべく多くの人に見てもらおうとするから、バラエティ番組のリテラシーのない人の目にもとまるようになり、「なんだこれは!」という見当違いの怒りにつながってしまう。『水曜日のダウンタウン』がその典型例である。

 

◎「分からない」ことは一つのコード

 以前、以下のような投稿を見た。「若者がバラエティを理解できない」という話だ。いわく、「バラエティで言われていることが分からないから、見ない」らしい。

 でも思うのは、「分からない」といのは一種のコードであるということだ。一般の人には「分からない」からこそ、一部の人のみが楽しめるコンテンツになり、作り手も安心してその人々に向けて番組を作れるようになる。「分からない」人に向けて番組は作られていないのだ。

 実際、上で名前を挙げた『ガキの使い』も、出演者や製作者が「分かる人にだけ分かればよい」というスタンスで番組を作っている。だから、素人のスタッフがろくな説明なしに番組に出演するし、1年越しの天丼を平気でやったりする(しかも毎年)。そんな『ガキの使い』は、23時台の番組にもかかわらず、かつては視聴率が20%を超えることもあった。それだけ、バラエティが好きな人がいた。

 だが、いまテレビは求心力を失い、以前ほどの視聴者がいなくなった。だから『ガキの使い』も、今では一般の人向けの企画をたまにするようになったし、大晦日には早めの時間帯でスペシャル企画をしている。

  

◎結局、何が言いたいのか?

 長々と書いたが、結局何が言いたいのかというと、バラエティ番組は一つのジャンルであり、批判するのであれば、そのジャンルに対してのリテラシーが必要であるということ。

 テレビやラジオは公共メディアであり、だから何を言ってもいいという意見もあるだろうが、テレビを見る、ラジオを聞くことは一つの選択であり、ジャンルに足を踏み入れることである。ならば、そのジャンルを土足で踏み荒らすことがないように、ある程度のリスペクトは必要である。

小説が好きな人向けの、漫画の傑作10選

 小説が好きな人向けの、オススメの漫画10選。Kindleで買えて、完結している作品を選出。

 「小説が好きな人向け」なので、アクションやバトルよりも、物語として完成度が高いものを選んだ。「短時間でざーっと読む」タイプの漫画ではなく、「腰を据えてじっくり読む」系の作品。

 

新井英樹ザ・ワールド・イズ・マイン』(全15巻)

 知る人ぞ知る傑作。あらゆる漫画の中でこれを超えるものはたぶんない。

 よく、新井英樹は「読む人を選ぶ」と言われる。たしかにそういう部分はある。絵にクセがあるし、話の導入が長くて序盤は分かりにくい。

 でも、100年先でも読まれているのは新井英樹の漫画だと思う。100年後の漫画の教科書に載っているのは新井英樹だと思う。

 『ザ・ワールド・イズ・マイン』はそんな新井英樹の代表作で、紙面にみなぎる緊張感、キャラクターの個性、抜群のセリフ回し、すべて驚異的。初読時は本当に衝撃だった。時間を忘れて読みふけっていた。

 何度か再読して気づくのは、それでも作品としての粗は結構あること。スケール広げすぎて整合性がとれてない箇所とか、いまいち意味が分からない場面があるにはある。でも、そうした粗すら魅力に感じられるような熱量がこの漫画にはある。

 新井英樹はこの他にも、『宮本から君へ』『愛しのアイリーン』『SUGAR』『RIN』『キーチ!!』『キーチVS』『SCATTER』など、作品はどれも独特でおもしろい。ただ、『キーチVS』以降の作品は、陰謀論めいたものが作品の核にあって、ちょっとついていけないという気持ちもある。

 

藤本タツキファイアパンチ』(全8巻)

  最近読んで驚いた漫画。シンプルな復讐の物語と思いきや、話はどんどん想定外のほうへ向かっていく。

 キャラの会話シーンが巧い。この人特有のユーモアみたいなものが漂っている。離している2人のセリフが微妙に噛み合わないままで会話が進んでいく感じ。

 巻が進むにつれて話がどんどん壮大になっていくけど、これくらいにぶっ飛んでいくほうがむしろいい。上に挙げた『ザ・ワールド・イズ・マイン』もそうだが、物語としては破綻をたくさん抱えているけど、作者が書きたい場面をたくさん詰め込みましたみたいな作品のほうが、読んでいて楽しい。別に完璧なものを読みたいとは思わないのだ。

 対照的に、この作者の2作目『チェンソーマン』は、『ファイアパンチ』と比べて物語としてのまとまりはあるけど、『ファイアパンチ』のようなぶっ飛び方はしないんだろうなという予感がある。お決まりの枠の中で器用に話を組み立てているような印象で、つまらなくはないんだけど、『ファイアパンチ』の作者じゃないと書けない漫画ではないんじゃないかと思ってしまう。今の時点で既刊は2巻のみなので、これから大きく変わるのかもしれないが。

 

楳図かずおわたしは真悟』(全16巻) 

  楳図かずおは、今でこそ赤白ボーダーを着てキテレツな邸宅に住むグワシのお爺さんと化しているが、漫画家としても数々の名作を残している。中でも『わたしは真悟』は宝石のような作品。

  作品を一言でいうなら、子どもの世界で起きる奇跡を描く「童話」。奇跡とは起こりえないことをがむしゃらに信じる力のことで、この漫画はそういう奇跡を起こした2人の物語である。

 まさに「Don't think, feel」という言葉がぴったりの漫画で、ストーリーを言葉で説明するのは難しい。あらすじを説明しても陳腐に感じるだけで、実際に漫画のコマの中で奇跡が起きていることを肌で感じてもらわないと、この話は伝わらない。

 この漫画を読んでいて思うのは、こうした他愛もない奇跡を、子どものときの自分も信じていたということと、そのようなひたむきに信じる気持ちが今の自分にはないということ。大人になるということがじんわり分かる漫画であり、だから切ない。

 

肥谷圭介鈴木大介ギャングース』(全16巻)

  「子どもの貧困」と「犯罪」をテーマとする社会派の漫画。だがエンタメとしても完成度は高く、漫画的表現も凝っている。

 貧困問題に詳しいルポライター鈴木大介が原案に関わっているので、犯罪行為の描写がリアル。特に、「オレオレ詐欺」の犯人グループのディティールは圧巻。犯罪に手を染めてしまう少年・青年たちに寄り添うような視線が優しい。なぜこのような詐欺がなくならないのかが理解できる。

 

山口貴由シグルイ』(全15巻)

  ジョジョでいう「凄み」で読者に迫っていくタイプの漫画。

 登場人物がみな個性的。独特なセリフ回しがキャラを引き立てている。この漫画特有の世界観というか、他の漫画家には出せないような雰囲気がある。

 物語に活かしきれていないキャラが何人か出てくるとか(ガマ剣士はなんなんだ)、後半に意図的な引き伸ばしがあるとか(12〜14巻のまったり感はなんだ)、ツッコミどころは結構ある。でもそういう瑕疵が気にならないくらいに、キャラも表現も魅力的。

 山口貴由の漫画は他に『覚悟のススメ』『エクゾスカル零』『衛府の七忍』などあるけど、その中でこの漫画の完成度は群を抜いている。クセの強い漫画家だと思うが、そのクセが、原作の南條範夫駿河城御前試合」と合っていたのだろう。

 

堀尾省太刻刻』(全8巻) 

刻刻(1) (モーニングコミックス)

刻刻(1) (モーニングコミックス)

 

  『HUNTER×HUNTER』のような、「独自のルールのもとでの心理戦、駆け引き」を描いている漫画。設定が緻密で、その緻密さがきちんと漫画の中で生かされている。

 話もおもしろいが、漫画的な表現力も抜群に高い作品で、ずっと「すげー」と思いながら読んでいた。この作者の次作『ゴールデンゴールド』もそうだが、ちょっとした描写にも気が配られていて、再読するたびに「これはそういうことだったのか」という小さな発見がある。詳しくは以下の記事を参照。

 

 ・手塚治虫きりひと讃歌』(全4巻)

きりひと讃歌 1

きりひと讃歌 1

 

 『火の鳥』とか『アドルフに告ぐ』はもう古典として定着した感があるので、あえて少しはずして『きりひと讃歌』を挙げておく。

 第1巻を読めば分かるように、この漫画は『白い巨塔』の影響をもろに受けている。ただもちろん模倣に終わっているわけはなく、手塚治虫流の味付けがなされている。

 『白い巨塔』が大学病院の封建制をテーマとするのに対し、『きりひと讃歌』はそこに「ケモノ化」の要素を加えて、エンタメとして読み応えのあるものにするとともに、「外見による差別」、今風にいえばルッキズムの問題を混ぜこんでいる。

 『白い巨塔』は今読むとやや単純すぎるというか、人間を勧善懲悪の枠に当てはめすぎて話が歪んでいるような印象を受ける(最後の手術のくだりは読んでいて笑ってしまった)。

 一方で『きりひと讃歌』は、いろんなパーソナリティをもつ人間が出てくるので飽きない。このあたりはさすが手塚治虫で、清濁あわせもつ人間の有り様を書くのがうまい。

 

岩明均寄生獣』(全10巻)

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

寄生獣(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 もはや古典。漫画好きでこれを読んでいない人はたぶんいない。でも好きなので挙げておきます。漫画として非常によくできている。

 よくできた漫画というのは、話にまとまりがあるがゆえに、読んでいる側が解釈する余地が少なく、だから一度読んだだけで満足してしまうものが多い。でも『寄生獣』は、よくできている漫画なのに、読者が自由に想像していいスペースを残してくれている。なので再読の楽しみがある。

 このあたりのさじ加減、岩明均は本当にうまい。画力、表現力、ストーリーテリング、すべての能力を兼ね備えている漫画家。岩明均の別の長編『七夕の国』も名作。いま連載中の『ヒストリエ』は完結しなさそう。
 

白土三平カムイ伝』 (全15巻)

  『カムイ伝』は大学紛争に関連づけて語られることが多いが、単純にエンタメ漫画として抜群に面白い。

 カムイ伝には「第一部」「第二部」「外伝」の3つがある。「第一部」と「第二部」が本筋の物語で、「外伝」はその補足というか、本筋とは関係のない部分でのカムイの活躍を描く。

 「第二部」と「外伝」も面白いのだが、やはり『カムイ伝』の一番の読みどころは「第一部」だと思う。単純に物語として完成度が高いし、何より登場人物がみな魅力的。

 これだけキャラクターが生き生きと動いている群像劇はなかなかない。カムイ、正助、草加竜之進、夢屋、苔丸、赤目、水無月右近、笹一角、橘一馬、横目、小六など、名前を見ただけでもその人物の生き方がありありとイメージできるくらいに、個々のキャラクターの個性が生きている。

 以前は嫌なキャラにしか見えなかった人物も、時が経って再読すると共感できたりする。例えば夢屋は、学生時代に読んだときは単なる嫌な奴だったが、今になって読むとその人としての魅力に気づくのだ。月並みな表現だが、この漫画はそのときの人の心を映す。枯れない泉のような漫画である。

 

黒田硫黄大日本天狗党絵詞』(全4巻)

  最後にちょっと渋めの漫画をチョイス。

 黒田硫黄は筆で漫画を書くという珍しい漫画家で、ページが全体的に黒い。ごちゃごちゃしてて読みづらいのだが、それがかえって味になっている。

 黒田硫黄は「ひょうひょうと生きる人」を書くのが好きらしく、漫画にそういう人ばっかり出てくる。けっこうたいへんそうな毎日を送ってそうなのに、その逆境を楽しんで生きているような人。新井英樹が書くような暑苦しい人は出てこない。みんなちょっと人生に冷めていて、明日コロっと死んでもいいやみたいな雰囲気を出している。

 黒田硫黄の漫画を読んでいると、フリーター的な生き方に思いが至る。一昔前は、フリーターというと「自由に生きる新しいライフスタイル」みたいな肯定的な捉えられ方をすることがあったらしい。でも現在は日本中どこでも「格差」が叫ばれて、フリーターはすぐに貧困に結びつけて語られてしまう。だから、黒田硫黄が書くようなフリーター的な人々の話をいま読むと、むずがゆいような、でも少し羨ましいような気持ちになる。

 そうした「ひょうひょうと生きる人」がいちばん活躍しているのがこの『大日本天狗党絵詞』。これは「だいにっぽんてんぐとうえことば」と読む。タイトルの通り、「天狗」が現代社会で人間に反旗をひるがえすという漫画。「天狗」といっても、鼻が長くて顔が赤くてゲタをはいているあの天狗ではなく、ふつうの人間の姿をしている。

 この天狗が、まさに「ひょうひょうと生きる人」なのだ。「天狗」なのに全然かっこよくない、むしろ社会の底辺でかすみを喰らうダメ人間という設定がおもしろい。

 黒田硫黄は短編向きの作家だと思っていて、長編だと話をうまく膨らませることができずに低空飛行を続けたまますとんと落下して終わりみたいな漫画が多い。この『天狗党』もまさにそんな感じの漫画なのだが、でも「空を飛んでいるのにかっこ悪い」というキャラクターは他に代えがたい魅力がある。

『DEUCE』 David Simonの新ドラマ

 

 『ザ・ワイヤー』(The Wire)を作ったDavid Simonの新ドラマ。Amazon Primeでシーズン1は視聴可能。

 「DEUCE」(デュース)とは、ニューヨークの42丁目の通称。今でいうタイムズスクエアはこの通りにある。42丁目は1950〜1980年代にかけては風俗街で、日本でいう歌舞伎町のような場所だった。そんなDEUCEに生きる人々の生き様がこのドラマのテーマ。

 以下、シーズン1(全8話)を見た上での感想。『ザ・ワイヤー』との比較が中心。ネタバレあり。

 

 

【好きなところ】

・徹底したリアリティ

 David Simonといえばリアリティ。本作は1970年代のニューヨークが舞台だが、まさにその時代の空気が感じられるぐらいに作り込まれている。

 ところどころに固有名詞が出てきて、実際の歴史と答え合わせができるようになっている。例えば『ディープスロート』。

 

・後半への盛り上がり

 『ザ・ワイヤー』と同じく、前半は舞台説明とキャラ紹介に費やされていて、そんなに面白くない。でも、一通りキャラ見せがすんで、そのキャラが絡み始めるところからは楽しくなっている。第6〜8話くらいがそう。

 

 

【好きじゃないところ】

・話の進みが遅い

 『ザ・ワイヤー』では「麻薬グループの検挙」という大きな目的があり、その目的に向かってキャラたちが動いていくのを見るのが楽しかった。

 それに対しこのドラマには、そうした大きな目的のようなものはない。それなのに話の進みが遅い。だから、見ている側としては話がどこに進んでいくのか掴みづらく、視聴熱が冷めやすい。

 

・キャラクターが弱い

 『ザ・ワイヤー』と比較して、どうしても感じざるをえないのは、キャラクターの弱さ。

 『ザ・ワイヤー』は登場するキャラクターがみな魅力的で、彼らの言動をずっと見ていたいという気持ちになるドラマだった。それに比べると『DEUCE』のキャラクターは魅力に乏しい。娼婦とかポン引きとか、設定としては面白いはずなのに、キャラの掘り下げが浅いのであんまり引き付けられない。

 

【総評】

 面白いはずなんだけど、いまいち入り込めないドラマ。設定だけ見ると面白いはずなのに不思議。あんまり続きを見たい気持ちにならなくて、見終わるのに3ヶ月くらいかかった。

 ただ、後半のエピソード、特に第7・8話は面白かった。やっと物語にエンジンがかかってきた感じ。『ザ・ワイヤー』も楽しくなってきたのは3話目くらいからだったので、スロースターターなのはたしか。

 シーズン2もあり。シーズン2はPrimeでは見れないが、おそらくシーズン3が放送される時期にPrime入りすると見ている。 

『ダイナー』 三池崇史映画の小説版

ダイナー (ポプラ文庫)

ダイナー (ポプラ文庫)

 

 

 平山夢明『ダイナー』(DINER)の感想。7月5日に映画が公開されるらしい。 

 平山夢明は『独白するユニバーサルメルカトル』も読んだ。あっちは短編集だったが『DINER』は長編。

 作風を一言でいうと、三池崇史映画の小説版。『DEAD OR ALIVE』とか『殺し屋1』みたいな、とにかくテンションが高くてエログロも極端に振り切っていて、「荒唐無稽」という言葉がぴったりくるようなB級スプラッター映画のテイストを、小説で表現している。高い文章力があるからできる所業。

 『DINER』はそういう作風がはっきり出ている小説。「殺し屋専用の食堂」というB級感あふれる設定と、現実離れしたグロテスクで最後まで突っ走っていく。閉鎖空間が舞台だが爆発あり銃撃戦ありで、たぶん映像化を想定して書いたんだろうなと思わせる。

 そのくせ、食堂店主ボンベロが振る舞う料理の描写がやけにマニアック。殺人のあいだに差し込まれるグルメ要素。殺し+グルメとかいうわけわからん組み合わせ。

 いろいろと悪趣味だけど、読んでいて間違いなく楽しい。

『ドキュメンタル』シーズン7 感想

 

 『ドキュメンタル』シーズン7の感想。ネタバレ注意。 

 

 『ドキュメンタル』は全シーズン見てるけど、一番重要なのは笑い役だと思っている。誰かがしかけたボケに対して、笑うまいとして必死に耐えている様を楽しむのがこの番組の醍醐味。

 だから、他人のボケを受け止めて笑い役をできる人がいる時間は楽しい。その笑い役が脱落して、ボケ専門の人が残ってしまうと退屈になる。「笑ってはいけない」という設定を活かすには、ゲラが必要なのだ。

 FUJIWARA藤本が重用されているのも、回しのうまさとともに、笑い役をきっちりこなせるからでは。今回再登場のノブも、シーズン4では抜群の働きをしていた。

 ただこのシーズン、ノブ以外の笑い役が少なかった。後藤は全体を回すツッコミとしてしっかり笑い役をやってたけど、他のメンバーはイマイチ。なので個人的にはこのシーズンはハズレ。

 全体の内容も、シーズン5の再現といっていいものだったので、マンネリを感じる。安定して面白かったけど、シーズン4や5のような、「すごいものを見た」という感はなかった。

 以下寸評。

 

ノブ:ツッコミが抜群にうまかった。前半で落ちたのは惜しい。

後藤:ノブが落ちたあとのツッコミ役。安定した活躍。

ザコシ:手数がダントツ。どこからでも自分の流れに持っていける。

せいや:師匠モノマネで先輩を罵倒するのが面白いし新しい。

小籔:ツッコミとしていい味出してた。

加藤:前半に飛ばしすぎたせいで、後半は飽きられてしまったかも。

みちお:人殺し顔なのに、笑うときは大笑いなのが面白い。

宮迫:前回よりも影が薄かったような。

タムケン:同じく、前回に比べると目立ってなかったか。

ハチミツ二郎:前半はしかけてたけど、後半はおとなしかった。

 

 マンネリを感じる回だったので、次回は尖った人選に期待。全員が初参加とか。

 三四郎小宮、ハライチ澤部、ナイツ塙、おぎやはぎ矢作、カズレーザー、アイクぬらわなど、出てほしい芸人はいっぱいいる。

『さよならもいわずに』 生々しさと客観性

さよならもいわずに (ビームコミックス)

さよならもいわずに (ビームコミックス)

 

 

・生々しい夫婦のやりとり

 2人でベッドに入り、妻が「少しは枯れろよ!」と言い、「枯れんよ!」と夫(作者)が応える。夫が「生ちちいい?」と聞いて、妻の胸を直に触る。このシーンの生々しさ。

 このあと、妻のキホは病死する。普通なら、こういう生々しいやりとりは省いて、「平凡な家庭」の枠にきれいに収まるくらいの描写で済ますもの。でも、実際にあったであろうこの生々しいやりとりを描くことに、漫画家としてのプライドを感じる。

 そのあとの、妻の死を漫画化することに対しての、

まして自分は表現者だ、これを描かずにいられるだろうか。
いや、あえて俗っぽく言うなら、
表現者にとっての「おいしいネタ」を描かぬ手はない。

という文章、腹をくくっている。

 

・生々しさと、客観性

 28-29ページで、作者は「主観と客観のバランス」について書いている。

 妻の葬儀が終わったあと、作者はすぐにネームを書いたが、「それは生々しく、客観性を欠いていた」。この「客観性を欠いていた」というのが、具体的にどういうところを指しているのかは分からない。そのときの感情をただ伝えているだけで、漫画的な演出が足りていない、ということだろうか。

 そう思って読むと、たしかに、妻の死のあとは、漫画的な演出がけっこう盛り込まれている。作者はおそらく、そうした演出が、妻の死というあまりに重い話題を作品のテーマとするうえで必要だと判断したのだろうが、一人の読者として、率直な意見を述べるとするなら、最初の、生々しい作品を読んでみたい気もする。

 例えば、病院で妻の死が確定したあと、「その瞬間 世界は意味を無くした」という一文が入るが、そうした比喩は、死という残酷さを読者から遠ざけて、フィクションの世界に入れてしまっている。そのときのリアルの感情ではなく、あとから考えた客観だからだ。表現としての作為性が強く感じられてしまうからだ。

 逆に、妻のキホが鬱病を抱えていて、死の直前にも鬱の波がきていて、ふさぎ込みに鳴っっていたことに対して、「こまったな やっかいだな めんどうだな」と作者が思う場面は、生々しい。そのときの感情をそのまま伝えているように見えるから。でも、こうした生々しさは、書くことに勇気がいるだろう。なぜならそれが、妻の死に対する感情が悲しみだけではないことを表現することになりかねないから。だから作者は、綱渡りをするようにして、自分の感情を書いている。

『レッド』 暴力による組織の支配

 
 山本直樹による『レッド』3部作の感想。この3部作で、連合赤軍の結成から、あさま山荘事件までを描いている。

 第1作『レッド1969~1972』は、連合赤軍の結成と、山岳ベース事件の前半。

 第2作『レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ』は、山岳ベース事件の後半。

 第3作『レッド 最終章 あさま山荘の10日間』は、あさま山荘事件

 連合赤軍が起こした事件としては「あさま山荘事件」が有名だけど、事件の内容的には「山岳ベース事件」がはるかに凶悪。この漫画も山岳ベース事件をじっくりと描いていて、あさま山荘事件には1巻しか割いていない。

 筆致は極めて淡々としていて、人物の心理描写はほとんどない。事実を1つひとつ積み重ねていくスタイル。当事者の心理を正確に描くのは難しいし、リアリティも損なわれるという判断だろう。

 だから、読んでいて疑問が浮かんだ場合は、読者自身がその答えを推理するしかない。「どうして身内同士で殺し合うのか?」「総括に答えはあるのか?」といった疑問に対する解答は、読者に委ねられている。


・暴力による組織の支配

 この漫画にテーマを無理に求めるとすれば、「暴力による革命を目指すグループが、その暴力をグループ内部に向けたとき、何が起こるか」。そして実際に起こったのは、党員による党員殺し。

 一見すると、連合赤軍の事件は「極端な事例」に見える。でも、事件について調べれば調べるほど、この事件には普遍性があることに気づく。この事件は特殊具体的な事例ではなくて、いつでもどこでも起こることだということが分かってくる。

 事件の核心は、「組織を支配するために暴力を選択したこと」にある。組織というのは、その構成員をつなぎとめておくような力がないと、時とともに瓦解していく。だから、組織を支配しようとする人は、何らかの力でもって構成員をコントロールしておく必要がある。その力は、「金」だったり、「社会的な名声」だったり、「愛情」だったり、「信仰」だっったり、「伝統」だったり、「法律」だったり、「脅迫」だったりする。そういう選択肢があるなかで、組織のトップが「暴力」を選んだときに、悲劇が始まる。

 連合赤軍の事件はだから、組織の支配のために暴力を選んだことの結果の1事例にすぎない。同じようなことは過去にたくさんあったし、今でもたくさん起きている。例えば家庭間のDVや子どもの虐待がそうである。本来なら愛情や金銭的理由で結びつくはずの家庭に、暴力という因子が持ち込まれると、DVや虐待という結果が出てくる。他にも、有名な事例として「北九州監禁殺人事件」や「尼崎事件」があるが、原因は同じだ。

 

・なぜ連合赤軍は暴力を選んだのか?

 では、なぜ連合赤軍は暴力を選んだのか?

 そもそも、組織を支配するために暴力を選ぶ場合には、すでに組織の存続が危うくなっていることが多い。上に上げたDVや虐待、監禁事件などがそうである。組織が瓦解しかけているときに、暴力による恐怖で構成員を拘束し、団結力を高めるために、最終手段として暴力が持ち出される。

 実際、連合赤軍が当時置かれた状況はそうとう苦しかった。指導者層が逮捕・死亡して求心力が低下していたことに加え、残った指導者層も、金融機関や交番襲撃事件によって指名手配され、活動が制限されていた。

 組織としての行き詰まりは、構成員の離脱を招く。漫画でも、逃亡をめぐり葛藤する党員の姿が描かれている。

 こうした状況の中で、連合赤軍の指導者は暴力による組織支配にいきつく。これは、組織の行き詰まりに加えて、指導者層の思想面の弱さも関係していたように思われる。それまで組織を率いてきた指導者たちが逮捕・死亡したことで、思想面で成熟していない党員が指導者へと繰り上げられてしまい、思想によって構成員をつなぎとめることができなくなったために、暴力に頼らざるをえなかった、という経緯が推測できる。

 

・暴力は有用だから選ばれる

 最後に、連合赤軍の話から離れて、組織をコントロールする力としての暴力にどのような特徴があるのかを、一般論として考えてみる。

 第一に、暴力は簡単に使える。人間の体そのものが暴力の手段になるし、包丁やペンなどの身近なものが武器になる。「金」や「社会的名声」といった他の力に比べると、暴力は身近で使いやすいのだ。

 第二に、暴力は構成員を拘束しやすい。「自分がターゲットにされたくない」という恐怖を構成員に与えることで、行動を束縛し、組織に強く紐づけることができる。構成員を束縛することで、組織の外に情報が漏れにくくなる。

 第三に、暴力は持続力が高い。暴力は身体的な痛みを伴うので、暴力を振るわれるたびに組織への忠誠が再確認される。これが例えば「愛情」や「伝統」だった場合、はじめは構成員にとって組織に所属する動機になっても、時とともに薄れて力を失っていくことがある。しかし、暴力の場合には、その力が痛みとして構成員に与えられるため、持続力が高い。そして、暴力を継続して行使することで定期的に発生する「死者」が、構成員同士の団結をそのつど更新し、暴力の支配力を強めていく。

 以上をまとめると、暴力は簡単に使えて、効力・持続力は抜群。つまり、組織を支配する手段として極めて有用である。だから何度も選ばれてきたし、今も選ばれている。だからなくならない。いくら禁じたとしても、DVや虐待は起こり続けるだろうし、監禁事件も定期的に発生するだろう。