市橋達也『逮捕されるまで』 強烈な自己愛

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録

 

 

 市橋達也の手記。市橋はリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の犯人であり、2009年11月10日に逮捕され、2012年4月に無期懲役が確定し、収監されている。

 いまさらこれを読んだのは、市橋達也が逃走中に自らの手で整形手術を行ったこと、大阪の飯場で働き、稼いだ金で沖縄の島に滞在する生活を繰り返していたこと、ディズニーランドに一度行っていることなどをインターネットで知ったため。自分で整形をしたという事実からは「絶対に捕まりたくない」という覚悟を感じるが、それはディズニーランドへ行くという行動と矛盾する。どういう人間なのか興味が湧いたので読んでみた。

 

・「手記」としての真実味

 ところどころに直筆の絵があるのだが、その描写がかなり細かい。工事の作業過程をメモつきで詳しく描いている。

 こういった本はどれだけ本人が書いたのか疑わしいものが多いが、この絵を見る限りでは、市橋達也本人がかなりの程度、この本に関わっていることが分かる。少なくとも、ゴーストライターが書いたデタラメの本でない。

 

・逃げ切ってみせるという自信

 逃走中に、市橋達也はなぜか英語の学習をしている。『ライ麦畑でつかまえて』や『ハリーポッター』の原書を買って読んだり、TOEICTOEFLの単語集のリスニング音声を聞いたり、DVDプレイヤーで映画を英語字幕で見たりしている。

 こうした学習行為は、未来への希望が少しでもないとできないはず。単に暇つぶしがしたいのであれば、英語学習以外のことを選ぶだろう。市橋達也は「逃げ切れる」という自信があったに違いない。

 逃げ切るということが彼にとっての希望で、だから細心の注意を払っている。自分で整形するのもそうだし、警察の気配を感じたら住処を捨ててすぐに逃げるのもそうだ。

 英語学習は被害者のリンゼイさんとつながりが深い。市橋達也が本当にリンゼイさん殺害を後悔しているなら、英語学習を続けようとは思わないだろう。にもかかわらず逃走中に英語を熱心に学んでいるあたり、普通の人間ではないことが分かる。

 

・強烈な自己愛

 市橋は逃走中の多くの時期で、大阪の飯場で肉体労働をして過ごしていたが、そこで同僚と喧嘩をする場面がある。その喧嘩は事務所の人の仲裁が入って止められ、あとで相手に謝罪することになった。でもそのあと、「悔しくなって涙が止まらなかった」、という記述がある。喧嘩をして謝ったくらいで泣くというところに、プライドの高さが表れている。

 そして市橋達也は、「自分が他人にどう見られているのか」を異常なほどに気にしている。彼は自分が新聞やテレビでどう報道されているのかを細かくチェックしていて、ときにはコンビニのデタラメな内容の本も読んでいる。たしかに、逃走を続けていくうえで自分の情報が世間にどれだけ流れているかを調べるのは重要なのかもしれない。だが、わざわざコンビニの駄本にまで目を通す必要はないはず。また、彼はテレビで自分について芸能人がどんな発言をしたかをよく覚えていて、ビートたけしテリー伊藤が言及したセリフを手記に記してもいる。捜査情報とは別の部分で、「自分が他人にどう見られているのか」について異常に警戒している。

 中でもこれが強く表れているのは、「ゲイ」疑惑についての記述である。市橋達也は逃亡中、自分を特集するテレビの中で、「市橋達也は新宿の歌舞伎町で、ゲイ相手に体を売ってお金を稼いでいた」というデマを目にする。これに対する彼の反応は以下である。

 この番組を見て僕は部屋で固まっていた。とても混乱した。

 いったい、こいつら何を言っているんだ!?

 僕はそんなことしてない!

 そんな所に行っていない!

 たとえ生きるためだって、そんなことをするぐらいなら僕はもうとっくに死んでる!

 テレビが放送したことはうそだ。僕はそんなことしてないって言いたかった。でも逃げている僕が電話できるわけがない。やっぱり犯罪者には人権などないんだと思った。逮捕された自分の姿を想像した。こんなデタラメを全国に放送されて、逮捕されれば、人は僕を奇異の目で眺め、さらしものにするだろう。刑務所でどんな目にあわされるかわからない。

 想像することをやめた。絶対に捕まるわけにはいかない、と思った。誰がこんなシナリオを書いたのか。大声でしゃべり続けている番組の司会者が憎かった。

 僕は性的倒錯者じゃない。

 本当は、こんな話は口にするのも嫌だ。でもやってもいないことでさらしものになるのは耐えられない。

 

 手記は全体的に淡々とした記述が続いているが、この箇所だけ感情的な文章になっている。ビックリマークを4回も使って当時の動揺を表現しているから、ここはまさに彼の本心そのものなのだろう。

 逃走中にもかかわらず、市橋達也は「自分が他人にどう見られているか」を異常なほど気にしている。「こんなデタラメを全国に放送されて、逮捕されれば、人は僕を奇異の目で眺め、さらしものにするだろう」と書いているが、彼は自分の殺人よりも、ゲイと思われることに羞恥を感じている。彼にとっては、人を殺すことよりも、他人にゲイと思われることが恥ずかしいのだ。逆に言うと、彼にとって「殺人」はそれほどの重みのある行為ではないということでもある。

 他者の目線に対する異常な執心は、強烈な自己愛の裏返しである。ここからさらに考えると、市橋達也が逃走中に整形を繰り返したのも、単に顔を変えて人相をごまかすという理由のほかに、もともと自分の顔にコンプレックスがあって、逃走を機に顔を変えたという風にも思える。逃走してすぐに自分の鼻を針で整形したのも、おそらく以前から自分の鼻に不満があったんではないか。

 市橋達也がこの本を書いたことも、自分をどのように見てもらいたいか表現するためである。「ゲイではない」と感情的に書いているように、彼はすでに捕まっている今でも他人の目を執拗に気にしている。四国の遍路の旅が、リンゼイさん殺害の「贖罪」のためだったと言っているのも嘘だろう。

 この本から読みとれるのは、作者の強烈な自己愛と、それを隠して、「罪と罰のあいだで揺れ動く人間らしい自分」を演出する狡猾な殺人犯の姿である。

佐藤洋寿『スズキさんはただ静かに暮らしたい』 どこかで見たことがあるようなサイコキャラ

  

 第1巻が無料で読んでみて、面白かったので2・3巻も読んでみた。

 絵も話も浦沢直樹感がある。漫画としてとても良く出来ているんだけど、何か突き抜けるようなものがなくて、その印象のまま終わっていく作品。

 作品の導入はうまい。むしろうまさしか感じない。特に第1巻、平和な家庭がいきなりぶち壊される場面がしびれる。スズキさんがハゲの暗殺者から銃を奪って発砲するコマが、お皿と炊飯器越しに描かれていて、部屋の狭さをさり気なく表現するのとか超うまい。この場面だけでグッときて、2・3巻を急いで買って読んだ。

 ただ、2巻以降は明らかに失速している。こういう登場人物が少ない漫画は、話が進むにつれて各キャラを掘り下げていくべきで、実際この漫画も、スズキさんの過去とか、警察の一人がサイコ野郎だとか、いろいろ掘り下げをしているんだけど、どれもどこかで見たことがあるようなキャラに収まってしまっていて、あんまり魅力を感じない。「警察のサイコ野郎」なんて、キャラとして面白くなって当たり前のはずなのに、なぜか面白くないのは、そのサイコっぷりをすでにどこかで見てしまっているからなんだろうね。こういうところも、浦沢直樹っぽいなーと思ってしまった。

宮本常一『イザベラ・バードの旅』 地方に住む人々の話

 

 イギリスの女性イザベラ・バードは、1878年に日本を訪れ、その顛末を『日本奥地紀行』に記した。本書は、そのバードの著書をを手がかりに、宮本常一が地方に生きる人々の様子を語る講義録である。

 イザベラ・バードの旅は、東京から始まり、日光・新潟を経由して、最終的には北海道へと至る。伊藤という名前の通訳一人を従えての長い旅だった。その旅に寄り添うようにして、宮本常一が昔の日本の風景について論を展開していく。

 『イザベラ・バードの旅――『日本奥地紀行』を読む』という題名からすると、バードの『日本奥地紀行』の解説本のように見える。だが実際には、『日本奥地紀行』を一つの手がかりとして、宮本常一が「地方に住む人々」の姿を縦横無尽に語っている、というのがその内容に近い。宮本常一の豊富な調査経験がよく表れた本だし、講義録だけあって非常に読みやすい。

 以下、印象に残った箇所をスクラップ。

 

・「浅間山」は富士山のこと(p. 16)

 昔は富士山のことを一般に「せんげんさま」と言っていた。その影響で、関東平野には「浅間山」という名前の山がたくさんある。

 

・昔の日本は蚤がものすごくいた(p. 47)

 昔の日本では蚤に食われるのは当たり前のことだった。「ねぶた」(ねぷた)祭りはもともと「ねぶた流し」が始まりで、夏の夜は蚤に食われてなかなか眠れないので、その眠気を流してしまおうという催し。

 長らく日本人を悩ました蚤だが、戦後に殺虫剤DDT普及により一気に姿を消した。

 

・スリの話(p. 60)

 向井潤吉(1901-1995)という画家の子どものときの話。京都に住んでいたとき、旅をしたいと思って家出をした。名古屋あたりで一人の男と仲良くなった。男は「実は俺はスリなのだ」と言う。向井さんは自分のお金をとられると思って警戒するが、男は「俺だってお前のお金をとろうとは思わない。それでも心配なら、マッチ箱に札をたたんで入れて枕元に置いておきなさい。それはスリでもとらないから」と言ったという。実際にそうしたらお金はとられなかった。スリの世界にも不思議な道徳があったという話。

 

・田舎の人たちは不潔だった(p. 87)

 田舎の人たちは着物をめったに選択しなかった。繊維が弱く、破れやすかったため。また、着物の数も少なく、いつも同じものを着ていることが多かったので、不潔な状態が多く、それが元で病気になることもあったという。

 

・流れ灌頂(p. 122)

 昔は、妊娠中もしくは出産中に死ぬ女性が多かった。そうした女性を悼むために、「流れ灌頂」という供養をした。水辺に4本の棒を立てて、その上に布をしき、道行く人に柄杓で水をかけてもらう。布が破れたり、布の色が消えるまで水をかけないと、女性は極楽にいけないとされる。子どもを抱えたまま死ぬとなかなか極楽にいけないという言い伝えによる。宮本常一が日本を旅していたときにも、流れ灌頂をよく見かけたという。

 

・性病と盲(p. 163)

 江戸中期頃から、性病がもとで盲になる人が増えた。淋菌が目に入ると、盲になることが多い。売春婦や、その子が盲になった。東北のある漁村で、盲の人間が多い場所があったが、それは性病が原因。

ディック『小さな黒い箱』 「ラウタヴァーラ事件」「運のないゲーム」が名作

小さな黒い箱 ディック短篇傑作選 (ハヤカワ文庫SF)

小さな黒い箱 ディック短篇傑作選 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 「ラウタヴァーラ事件」が結構好き。文化の違いをグロテスクに書いている。

 「運のないゲーム」も結構いい味出してる。宇宙人にカモられる火星の人間たちに哀愁があるし、火星にいる希少な超能力者の少年の力が利用されてしまうという展開が斬新。


・小さな黒い箱 The little black box

 電気羊の「共感ボックス」の元となったであろう短編。ディックは宗教とか禅とかを小説に盛り込むのが好きだが、宗教の内容自体はそんなに掘り下げないことが多い。どちらかというと、宗教を信じる人と信じない人との接触がポイントとなる。この短編もそう。

 ただこの短編、「共感ボックス」という奇抜なアイディアを、うまく生かせていない。アイディアはおもしろいけど、それが話と噛み合っていないし、終わり方も適当だ。設定はとてつもなく面白いけど、でも話として見るとイマイチ、というディック短編にありがちのパターン。

 

・輪廻の車 The turning wheel

 白人が下等人種とされる世界。

 最後のオチ、現在の世界では当たり前のものが、未来のディストピア社会では貴重な技術になるというやつ、結構見た気がする。この短編の場合、その技術はペニシリン

 

・ラウタヴァーラ事件 Rautavaara's case

 事故死するはずだった人間を無理やりに生かした場合、その脳内にはどのようなイメージが展開されるか。宗教を絡めて人間の脳内を妄想する。

 さらにそこに異星人が割り込んでくる。異星人の宗教では、救世主が信徒を食べる。キリスト教で、信徒が救世主の一部を食べるのとは逆だ。そして、そうした宗教をもつ異星人が人間を助けたことで、救世主が信徒を食べるという行為が、脳死状態の人間の脳内で行われることになる。イエス・キリストが信奉者を貪り喰らう場面、ぶっ飛んだ展開なのになぜかその映像が頭に浮かぶ。表情のないキリストが、口を大きく広げて信徒の頭を飲み込んでいくさまが。

 

・待機員 Stand-by

 無能な人間が独裁者になる話。AIが政治をしている時代にも、「待機員」なる閑職があって、そこに組合の人間が割り当てられている、という設定が面白い。まず、組合というのが何の組合なのかが謎だ。そして、その待機員に選ばれるのが組合の一人というのも謎だ。なぜ政治経験のない人間が待機員にエントリーされるのか。ここらへんのガバガバ設定が平気で放置されるのがディックの特徴。

 全世界で大人気のテレビ司会者ジム・ブリスキンというキャラも不思議だ。ディックは「テレビの司会者」にかなり執心していたようで、『流れよわが涙』の主人公もテレビの人気司会者である。

 

・ラグランド・パークをどうする? What'll we do with Ragland Park?

 「待機員」の続編。「歌ったことが現実になる」というサイキック能力をもつラグランド・パークをめぐる話。

 「思考したことが現実になる」というモチーフ自体は、『火星のタイムスリップ』『流れよわが涙』などにも出てくる。この短編では、ラグランド・パークが勝手に自殺するという斜め上の展開が度肝を抜く。普通なら対立陣営が権謀術数をめぐらしてパークの能力を封じ込めたり上手く利用したりという展開になるかと思うのだが、このあっさりとしたオチは何なのだろうか。

 「八角維人」(ヤスミ・イト)とかいうやけにかっこいい名前の日本人博士が出てくるが、この名前の「イト」はおそらくディックが「伊藤」を名前だと勘違いして付けているのだろう。外国人が日本人の姓を名と勘違いして、妙な名前の日本人キャラクターを作ってしまうことはよくある。

 

・聖なる争い Holy Quarrel

 自分を神だと信じるが、それを隠しているAIと、それを探り出そうとする人間の話。途中まではそういう話で面白いのだが、最後、無理にオチをつけようとして変な方向へいく。

 おそらくこれも、AIの暴走という設定を生かしきることができずに、異星人の侵略というセカンドプロットでなんとかオチをつけたのだろう。

 

・運のないゲーム A game of unchance

 火星の小さなコミュニティを食いつぶす宇宙サーカス軍団。よくもまあ、こんな突飛な設定を考えだしたものだ。

 でも、マイクロロボットとそれを捕まえる罠は、今のコンピュータでいうとウィルスとウィルス対策ソフトに似ている。相手を騙してウィルスを送りつけて、そのウィルスを取り除くために対策ソフトが買われる、という構図そのもの。

 

・傍観者 The chromium fence

 自然党と清潔党という2つの政党が骨肉の争いを繰り広げる。すべての国民はどちらかの政党の支持者とならなければいけないのだが、主人公はその争いに冷めている。

 最後に、主人公が死ぬことを選ぶ場面はかっこいい。ロボットがわざわざ助けてくれたのに、それでは生きていく価値はないと判断してすっと死ににいく、そして警察官は不思議そうに彼を見ながら殺す、という一連のシーンはきれい。

 

・ジェイムズ・P・クロウ James P. Crow

 ロボットが進化して人間を統治するようになる。ロボットが政治を行い、人間はそれを補佐するだけ。かつて人間がロボットによって作られたことは忘れられている。

 でも、その忘れられているという設定がおかしい。普通忘れるか、そんな大切なことを? こういう、未来社会で過去の重要な出来事があっさりと忘れられていて、その出来事を「発見」するというオチで終わる短編は一つの定型としてあるけど、ちょっとこれは完成度が低い。

 

・水蜘蛛計画 Waterspider

 ユーモアSF。未来世界では戦争が行われていて、地球側はある技術がどうしても必要。それを得るためには、過去の世界のプレコグと接触する必要がある。プレコグは、未来世界について予知能力があり、その能力を使って一時期活発に活動していたが、次第に弾圧されて皆殺しにされ、姿を消した。で、そのプレコグは、実はSF作家のことでした、という内輪向けのギャグ。ディックの名前も何度か出てくる。SFファンに向けたエンタメ小説だったのだろう。

 ラスト、時間旅行をしたSF作家が、旅行先の世界を記したメモを、単なる小説のアイディアと思ってオークションに売ってしまうのはさすがの展開。

 

・時間飛行士へのささやかな贈物 A little something for us tempunauts

 この短編は以前も読んだが、そのときも設定が理解できなかった。輪廻の輪に囚われるメカニズムが分からない。どうすれば同じ時間内をぐるぐると回ることになるのか。

 ディックの小説では、こうした奇妙な設定にも、ディックなりの奇想天外な理由づけがあって、その奇想天外さに思わずうっとりしてしまうのだけれど、この短編ではそんな理由づけさえも放棄されていて、ただ「同じ時間をずっと繰り返している」の一点張り。

 たぶんディックは、繰り返しを生み出すメカニズムのアイディアが思い浮かばなかったので、それを誤魔化すために、最後を切なめのオチにしたんだと推測する。かなり粗い短編。そのくせなぜか評価が高いのは、タイトルがかっこいいからだろう。

アイリッシュ『シルエット』 哀愁あふれる短編集

 
 アイリッシュ短編集4。1974年刊行。

 印象に残ったのは「窓の明り」「秘密」。特に「窓の明り」は哀愁あふれる名短編。


・毒食わば皿 Murder always gathers momentum

 金に困った男が、ほんのはずみで人を殺し、そこから連鎖するように殺人を重ねていく話。警官に胸を撃たれながらも必死で目的地へ行こうとする描写に緊張感がある。最後のオチはO・ヘンリーのよう。


・窓の明り The light in the window

 戦争帰りの男が、付き合っていた女の不貞を疑う話。最後まで読んだ後に、また始めに返って読むと、全然違う味になる。

 PTSDも絡んでいる。アイリッシュは兵士のPTSDを作品のモチーフとして使っていて、例えば短編「踊り子探偵」にもそれがでてくる。

 元兵士が女性を殺す場面の描写がいい。アイリッシュは殺しの場面を描かせたら超一流。

 目には涙があふれてきたが、それ以外に女は苦痛のしるしを見せなかった。首をふりうごかしても、ほとんどそれとわからぬほど小さな動作だった。どんな幻影のような矛盾さえ、そんなありもしないことにあてはめるには実体がありすぎる、といいたげであった。

 最後の文、意味はよくわからないのだが、それでも何度も読ませるだけの力がある。

死はぜんぶいっしょでなく、ばらばらにおとずれた。

 

・青ひげの七人目の妻 Bluebeard's seventh wife

 サスペンスに寄ったアイリッシュ。いい意味でスリル満点、悪く言うと読み捨てられる小説。

 

・死の治療椅子 Death sits in the dentist's chair

 「自由の女神事件」と同様に、ユーモアに満ちた一編。主人公が歯医者を怖がるさまが面白いし、刑事のセリフもいい。ドアの鈴にイライラするという描写もリアル。

 

・殺しのにおいがする He looked like murder

 「親友にかけられた疑いを晴らす」という筋書きの短編。この筋はアイリッシュが好んで使っていて、「送って行くよ、キャスリーン」や『幻の女』にも見られる。

 

・秘密 Silent as the grave

 妻の葛藤。アイリッシュには主人公が女性である作品が結構ある。「命あるかぎり」「死の接吻」など。ただ、他の作品では「男からの暴力に脅える女」という構図だったが、この作品では「男への信頼が揺らいで疑心暗鬼になる女」が描かれている点で特徴的。

 同じ一文が何度もリフレインするのは、アイリッシュが得意とする手法。「いつもと変わらぬ夜だった。月はなく、星も出ていない」という文が3度、出てくる。ラストの女のセリフも、最初の繰り返しになっている。

 ストーリーは、普通に考えても結構おかしい。結婚するときに、殺人の告白を平然と受け入れられた時点でもうおかしい。もっと動揺しろ。

 

・パリの一夜 Underworld trail

 少しおバカな船夫2人組が、パリの町で麻薬組織のアジトに踏み込んで若くてキレイな女性を救う話。あらすじだけ言うと限りなくチープで、実際かなりチープだが、主人公2人組の人物造形にユーモアがあって面白い。その点では「死の治療椅子」とトーンは似ている。

 

・シルエット Silhouette

 クリスティー検察側の証人』に影響を受けているであろう短編。

 いろいろとツッコミどころはあるが、一番は弁護士が悪どすぎることか。殺人をもみ消すことにノリノリの弁護士はなかなかいないだろう。それに、死人の髪をセットする美容師というのもおかしい。

 

・生ける者の墓 Graves for the living

 生き埋めにされることを極度に恐れる男と、生き埋めをネタに金をむしりとる秘密組織とが出会う話。

 秘密組織は詐欺集団で、薬をつかって人を仮死状態にし死亡診断書を出させ、そのまま生き埋めにした後に掘り返して、「私たちの力であなたは生き返った」と言って大金を寄付させる、という手法で金を稼いでいる。こう書いただけでも手口が込み入りすぎていて、まともに実現しそうにない。でも、「一度死んでいるのだから、あなたは不死になった」という発想は面白い。

アイリッシュ『黒衣の花嫁』 未亡人の復讐物語

黒衣の花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

黒衣の花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 アイリッシュの「ブラックもの」第1作。夫を殺された妻が、復讐のために連続殺人に手を染めていく話。

 以下、ネタバレあり。

 

 

 アイリッシュは設定がガバガバであることが多く、この作品でもそのガバガバさはいかんなく発揮されている。まるで関係なさそうな事件の関係性になぜか気づく警察が優秀すぎるとか、夫を殺した真犯人である男が都合よくすぐそばにいたとか、その真犯人が人目の多い結婚式場で暗殺しようとしていたのはなぜかとか、粗を探せばいくらでも出てくる。

 でもそういう粗は「時代だからね」という一言で軽く流しつつ、この作品の良さを探してみると、殺人に哀しみがあるところだろうか。夫を失った妻が、その「負債」を返すために、たったひとりで5人の男を一人ずつ殺していく。自分の人生は諦めて、夫の復讐にすべてを捧げる切なさが、いかにもアイリッシュ節。

 ところどころの筆運びもうまい。例えば以下は、主人公が男をテラスから突き落とす場面。

 彼女は背後から歩みよると、礼拝の儀式のときのようなかっこうで、両の手のひらを外へむけた。それからまた素早くうしろに退った。かるく彼の身体に触れたらしく、声にならぬ声のようなものが、彼女の口から洩れた。それは説明と呪詛と贖罪とをひとつに合わせたような響きだった。

 「殺し」の場面なのに、その殺しの瞬間を直接描写しない、というのはアイリッシュがよく使うテクニック。

 

 このブラックものは、このあと『黒いカーテン』『黒いアリバイ』『黒い天使』『喪服のランデヴー』とつながっていく。

『喪服のランデヴー』は、『黒衣の花嫁』と物語の骨格は同じ。ただ、『喪服のランデヴー』のほうがずっと洗練されているし、話の展開もスムーズでうまい。物語の導入も円熟味のうまさを感じる。アイリッシュの長編では一番の出来と言っていいかもしれない。

 ただ、この『喪服のランデヴー』にも、アイリッシュならではのガバガバ設定があり、それはそれで楽しめる(日付変更線についての勘違い)。

ジャン・ユンカーマン『沖縄 うりずんの雨』 3つの差別

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うりずんの雨』パンフレット

 

はてなダイアリー2015/08/01より再録)

 

 神保町の岩波ホールで観た。

 この映画では、「沖縄」をめぐる問題の根底にある、様々な差別意識が語られている。映画の中で、証言者を通じて浮き彫りにされていた差別意識は、あえて大まかに言うならば以下のようなものである。

・「アメリカ人」が、「日本人」を差別する
・「日本人兵士」が、「沖縄の人々」を差別する
・「男性」が、「女性」を差別する

 沖縄の問題では、アメリカと日本の2つの政府間の思惑によって、沖縄に住む人々の生活が侵害されているということが話題の中心にあり、この映画でももちろん、その点にクローズアップして話は進んでいくのだが、映画の中で証言する人々の言葉を聞いていると、「アメリカと日本」という2つの国の間の問題というだけでは収まらないような、より根本的でより個別的な問題があるということに気づく。

 

アメリカ人」が、「日本人」を差別する

 2004年の8月13日、アメリカ軍のヘリが沖縄国際大学のキャンパス内に墜落する事故があった。事故が生じてすぐに、アメリカ軍の海兵隊員たちがフェンスを乗り越えてキャンパスを占拠し、事故現場を撮ろうとする報道関係者たちはアメリカ軍兵士たちによってシャットアウトされた。この映画の冒頭では、ペリー率いる艦隊が沖縄の那覇港に寄港した事実が語られるが、100年以上前の時代と変わらずに、未だに沖縄ではアメリカ軍に実質的な治外法権が保証されているわけである。

 アメリカ軍が海外へ派兵する兵士の多くは、生れた町から出たことがないような若者たちであり、彼らにとっては「アジア、エキゾチックな国としての日本」というイメージがいまだに息づいている。アメリカが沖縄の基地を決して手放そうとしないという大元の事実や、アメリカ軍兵士による日本人女性への性暴力は、アメリカ人による日本人への差別意識がいまだに消えていないことを意味しているのだろう。


「日本人兵士」が、「沖縄の人々」を差別する

 沖縄戦では、それに参加した日本軍兵士だけでなく、沖縄に住んでいた住民たちも数多く犠牲になった。沖縄に派兵された日本軍兵士たちは、そこで沖縄の人々の生活を目にするわけだが、当時の沖縄の人々の食事は、芋やタピオカ、豚肉などが中心であり、日本人兵士の眼には、そのような沖縄の人々の生活は、「大和民族」とは異質なものとして映ったのだと、元日本軍兵士は語っていた。食事だけでなく、言葉の違いも大きかっただろう。そして、沖縄の人々が自分たちとは異質な人間なのだという兵士たちの意識が、その後の日本兵による住民殺害事件や集団自決での被害につながったのだと言う。


「男性」が、「女性」を差別する

 米軍基地の兵士たちによる、日本人女性のレイプ事件は、沖縄に基地が誕生した日以来の問題である。アメリカ軍の元海兵隊員は、沖縄に配属された時、上官から「沖縄には米軍兵士とほぼ同じ数の売春婦がいる」と言われたと語っている。1995年の女子小学生暴行事件の加害者は、映画内のインタビューで、仲間からの「レイプしよう」という言葉に乗って女子小学生を拉致・強姦したんだと言う。この事件が恐ろしいのは、3人のアメリカ人兵士が、レイプという犯罪行為に自ら進んで加担していることである。単独犯ではないのだ。3人のアメリカ人が、幼い日本人女性をレイプするという共通の目的のもとで一致して協力しているという恐ろしさ。日本人女性を性的に搾取することが、彼らにとっていかに当たり前の行為だったのかが分かる。元陸軍憲兵隊の隊員も、レイプが「いつも起こっていて、大したことだとはされていなかった」と映画内で証言している。

 また、この性暴力は、アメリカ人兵士により日本人女性に対して行われるだけではなく、アメリカ軍内部にも存在していることを、この映画は伝えている。アメリカ軍内部の女性兵士らは長らく、男性兵士たちの性的搾取の対象にされてきたのだという。映画内では、そのような性暴力の被害者となった(元)兵士たちが、自らのレイプ体験と、それをもみ消そうとする軍隊内部の圧力について、涙ながらに語っている。アメリカ軍の調査によれば、日本の米軍基地内では、過去8年間で、約270件の性暴力が報告されているとのことである。

 

 学校で日本史を学んだ時、昔は身分が分かれていて、差別意識が強くあって、それが人々の生活を縛っていたということを教わるが、そうしたことはすでに過去に置いてきたことなのではなくて、差別の眼は、歴史の流れの中で形を変えながらもいまだに人間の中に潜み棲んでいることを、2時間を超えるこのドキュメンタリー映画は伝えている。

 この映画で印象的なのは、今の沖縄の問題について歴史的な背景を説明しながら語っているとともに、沖縄の問題の根底にあるはずの根強い差別意識を明らかにしていることである。そして、差別は、単にアメリカ人から日本人に向かって存在しているだけではなくて、日本人の間にもあるし、アメリカ人の間にもある。アメリカ軍の兵士内では、白人による黒人差別もあっただろうし(1995年の女子小学生暴行事件の加害者3人はいずれも黒人である)、日本の「本土」に住む人々が沖縄の人々を差別しているという側面もあるだろう。こうした様々な差別の連なりが、沖縄の問題をこれ以上ないほどに複雑にしている。