『カリブ諸島の手がかり』 ジャンルを超越する快感

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

 

 
推理小説というよりは、雰囲気を楽しむ小説

 カリブ諸島の雰囲気を楽しむ小説。

 読後感は『半七捕物帳』と近い。あれも推理小説と銘打たれているけど、実際は江戸時代の雰囲気を楽しむ風俗小説である。

 ただ、「ベナレスへの道」だけは、ちょっと他の物語とは違う。

 

・人種のステレオタイプ

 末尾の解説にも書かれているが、人種のステレオタイプがかなり強く出ていて、今読むと時代遅れに感じる箇所が多い。1929年の本というのを差し引いても、ちょっとその臭いがきつすぎて、読んでいてけっこう困った。

 

・「ベナレスへの道」が白眉

 そんな本を我慢して読んだのは、「ベナレスへの道」の評判を聞いていたから。推理小説の世界でも屈指の問題作といわれているらしいので、いったいどんなもんなのか楽しみにして最後まで読んだ。

 読後の感想としては、その期待に応える内容を持っていた。読み終わったあとにゾクリとする感覚。本を読む経験を重ねると、こういう感覚とはなかなか出会えなくなって、すでに知っていることの再確認か、知っていることの変奏を聞くことが多くなるけど、これはちょっと予想外だった。

 以下、ネタバレ。

 

 

 「ベナレスへの道」の舞台は、カリブ諸島の一つトリニダード・トバゴ。この小説が書かれた時点ではイギリスの植民地であり、同じくイギリスの植民地であるインドからの移民が多かったらしい。

 主人公は、そんなトリニダード・トバゴに旅行にきていた中年男性で、名をポジオリという。アメリカの大学で心理学を教えている教授で、当時は心理学は「人間の心理を自在に解き明かす学」と思われていたので、ことあるごとに犯罪事件の捜査に駆り出されることになる。本書には5つの短編が収録されているが、すべて主人公はポジオリで、彼が探偵役として、事件の解決に貢献する。

 トリニダード・トバゴのとあるヒンドゥー教寺院で、結婚式が行われる。結婚したのは中年の商人と、まだ10代半ばの少女。2人ともインド系で、結婚をお膳立てしたのは、新郎の伯父であるヒーラ・ダースという富豪である。

 結婚の翌日、まだ幼い新婦は、寺院で首を切られて殺されている状態で発見される。インド系の移民の間では、夫が妻を殺す事件が過去にも多く起こっていたため、嫌疑は新郎に向かう。しかし、新郎は結婚当日には寺院には泊まっておらず、確実なアリバイがあった。

 すると、疑いの矛先は主人公のポジオリに向かう。ポジオリは事件当日、ホテルに予約し宿泊していたが、昼間に見た寺院での結婚式に物珍しさを感じ、その夜にホテルを抜け出して僧院に泊まっていた。彼のその行動は現地の警察には不可解に映り、ポジオリは逮捕され、監獄に入れられる。

 獄中で、ポジオリは推理する。彼は僧院に泊まったとき、悪夢を見た。不可思議な夢で、自分がヒンドゥーの神と一体化するような感覚があった。この獄中でも、彼は同じような夢を見る。自分が神と混ざり合い、一つになるような感覚。獄中という危機的な環境と、神との一体化という理性の及ばぬ境地とが合わさって、ポジオリは一つの結論に達する。それは論理に導かれたのではなく、真実への飛躍である。

 その結論とは次の通り。犯人は新郎の伯父であるヒーラ・ダース。彼は大富豪だが、富を築く過程で青春を犠牲にしたことをずっと後悔していた。もう一度、生まれ変わることができたなら、富を追いかけるのではなく、青春時代を謳歌することを望んでいた。ヒーラ・ダースの欲求は募り、ついには本当に輪廻転生を実現しようとまで思う。けれども、自殺ではその願望は成就しない。彼は自殺以外の方法で死ぬ必要があった。

 そこで彼は、まだ幼き新婦の首を切断して殺害した。寺院でのこの殺人により、自分が処刑されることを確信していたからである。さらに、ヒーラ・ダースが新婦を殺害したのには、もう一つ理由があった。生まれ変わった世界で、彼の青春の伴侶となる女性が必要であり、その女性として、彼は若き新婦を選んだのである。

 こうして、ヒーラ・ダースは、生まれ変わるために死ぬことと、生まれ変わった後の伴侶を手に入れることを、同時に成し遂げたのた。

 この結論に、超自然的な力で達したポジオリは、真相を告げるために、独房の外にいる看守を呼ぶ。看守に、事件の犯人を告げると、「すでにヒーラ・ダースは自首していて、近々処刑されることが決まっている」と返される。

 ではなぜ、犯人ではない自分はいまだに監禁されているのかとポジオリは詰め寄る。すると看守が答える。「あまりに申し訳なかったので、言うに言えなかったのです。すでにあなたには死刑が宣告されて、とっくに処刑されていたのですから」。

 

 

 なんかこのようにあらすじを書いてしまうと、いかにも安っぽい、キテレツな展開を求めて突っ走った小説のように思われるかもしれないけど、実際に読んでいると、宗教的な雰囲気がよく書かれているので、この結末までの流れはかなり自然。すんなり読める。だからこそ、最後のジャンルを超越するような語りに衝撃を受ける。

 ただ、この筋書きを見れば分かるように、ここにも、人種のステレオタイプが潜んでいる。「インド人の世界ってこうなんですよ」という作者の押し付けが感じられて醒める。これは「インド人」「ヒンドゥー教」という、日本人にとってもあまり縁のない世界のことなので、それっぽく読めてしまうけど、でもこの「インド人」「ヒンドゥー教」は簡単に「日本人」「仏教/神道」にとって換えることができると思うと、首をひねらざるをえない。

 その意味では、完全に時代遅れの小説。ただ、筆の運びや、ジャンルを飛び越える快感にはグッとくる。特に本作は、シリーズものの短編集の末尾の一作ということで、それまでの4編でせっかく積み上げてきた物語の筋道や人物設定を、最後の最後ですべてひっくり返す。現実ではできないこういう跳躍こそが、まさに読書の醍醐味。

本田靖春『疵』 極私的な戦後史

疵―花形敬とその時代 (ちくま文庫)

疵―花形敬とその時代 (ちくま文庫)

 


極私的な戦後史

 解説に、この本は著者の本田靖春による「極私的な戦後史」である、という記述があるが、まさにその通りの内容である。

 花形敬を語る本であるが、語られているのは花形敬だけではない。むしろ、その周辺、その時代を語ることにページが割かれている。著者自身が戦後にどう生きたかについても語られる。著者は花形と同じ世田谷区立千歳中学校に通い、花形の2年後輩だった。直接の接点はなかったが、同じ場所、同じ時代を生き急ぐようにして生きた花形に対して、当事者なりの思いがあったのだろう。

 それは逆に、花形敬についての語りの浅さにもつながる。花形敬が物語の軸にはなっているが、彼はこの本の執筆当時すでに過去の人であり、あまり情報が残されていない。だから、花形敬のパーソナルな部分については、十分に掘り下げられているとは言えない。彼の生涯を、遠くの地点から、望遠鏡で覗くようにして見るような本である。

 ところどころ、気になる記述はある。例えば、花形敬はマゾヒストの一面があって、自分の顔に傷をつけることがあったとか、花形が刑務所に収監されていたとき、暴れるようなことは全くなくて静かに読書していることが多かったとか。でも、記述はそこから先に踏み込むことはなくて、花形敬という人物の周りを、距離を置いてグルグル回るように続いていく。この本を読み終えても、その歯がゆい思いが解消されることはなかった。

 

戦後の東京

 花形敬についての記述が浅い代わりに、戦後の東京についての記述は分厚い。本書では、戦後の東京がまさに無法地帯だったことが描かれている。

 そもそも、花形敬のようなヤクザ者が登場したのも、戦後、既存の社会秩序に空白が生じたからである。公権力の失墜と、物資の欠乏とが合わさると、暴力がはびこる。本書を読んでいると、『マッドマックス』や『北斗の拳』のような世界が当時の東京で展開されていたことがわかる。

 『疵』に描かれる東京の姿は強烈である。

 例えば、戦後すぐの警察は頭数や装備が貧弱で、「三国人」(在日中国人・台湾人・韓国人)の暴力行為を扱いあぐねていた。当時、三国人は食糧や物資の売買で活躍していた。彼らは戦時中の抑圧に対する反動もあって、警察にも堂々と反発するようなことがたびたびあったという。安藤組の組長であった安藤昇の著書によれば、三国人は猟銃や拳銃で武装しており、戦勝国民の権利を掲げて暴力事件を起こすことがあったという。

 それに対し、装備で劣る警察は、ヤクザと組んで、三国人の勢力の押さえ込みを図る。1946年に「渋谷事件」という抗争が起きるが、これは渋谷警察署とヤクザが組んで、在日台湾人グループと衝突した事件であった。つまり、戦後すぐの東京では、ヤクザは警察が欠いていた武力を補う存在として価値を持っていた。

 

ヤクザ

 さらに、当時は今ほどにヤクザは組織化されておらず、一般人とヤクザとの境界線が曖昧だった。ヤクザが掲げる暴力は、一方では他者からの暴力を防ぐ役割ももっていた。権力とは、略奪する力であるとともに、他者からの略奪を防ぐ力でもある。東京で商売をする人間は、ヤクザを用心棒として雇い、よそからの暴力を防ぐことも役立てた。違法行為が横行する時代にあっては、ヤクザは必要悪といえる存在だった。

 そんな時代だから、ヤクザという集団も、様々なバックグランドをもつ人間で構成されていた。「食うものに困っていた人間が、選択肢がなくなって暴力の世界に走る」というオーソドックスな例もあっただろうが、特に貧しい家庭に育ったわけでもないのに、ヤクザの世界に入る人間もいた。実際、本書が取り上げる花形敬は、戦前は名の知られた名家の子どもであり、小学校時代は学業優秀で知られていた。そんな彼がアウトローの道へと進んだのも、明確な理由があるというよりは、そういう時代だったというしかない。

 

教育の空白

 時代の変わり目を象徴する話として、学校のエピソードが紹介されている。

 戦後、教育の方針がガラリと変わり、民主主義教育へと転換する。それまで教えていたこととはまるで違うことを教えることになった教員たちは、少なからず居心地の悪い思いをしながら教壇に立つことになる。

 また、戦前には学校に「軍事教練」という科目があり、軍隊関係者がその科目の教員を担当した。しかし、戦後はその科目が廃止されて、軍事教練担当の教員は教える科目がなくなってしまう。そこで、しかたなく、新たにできた「社会科」の授業を担当させられるようなことがあったという。けれども、それまで軍事教練の教官をしていたような人間に、社会科を教えられるはずがない。しかも、当時は教科書もまだ出揃っていなかったから、教員たちは何も武器をもたない状態で教室という戦場に投げ出されることになっていた。

 そんな教師たちを、生徒が尊敬できるわけもない。教員の権威は失墜して、授業のボイコットも行われるようになった。例えば、教室の出入り口を机でふさいで、教員が入れないようにすることがあったらしい。

 教育が力を失うとどうなるか。花形敬は学生時代から喧嘩に明け暮れ、街で大学生相手に暴れていたという。あって当たり前の教育がなかったことで、一部の学生は既定の道を外れて、裏の社会で生きることを選んだ。渋谷で活躍した安藤組がインテリヤクザと呼ばれて、商売っ気が強かったことも、教育の不在が影響しているのだろう。

昔、マクドナルドの公式ウェブサイトで公開されていたflashゲーム

 今日、突然、冒険@mc島というゲームを思いだした。自分が昔パソコンで遊んでいたゲーム。

 マクドナルドの公式ウェブサイトで公開されていたflashゲームで、小学生の一時期にハマり、しばらくプレイしていた。マクドナルドの主要キャラであるドナルドやグリマスやハンバーグラーが出てきていた。ジャンルはアドベンチャーゲームで、画面をクリックしてアイテムを集めていく。子ども心を絶妙にくすぐる作りだった気がする。

 親にプレステやゲームキューブを買ってもらえなかった子どもである自分は、何でもいいからゲームというものに触れてみたくて、マクドナルドの公式ホームページで見つけたそのゲームに夢中になった。

 曖昧な記憶だが、そのゲームの中には、「パスワード」を入れないと手に入らないアイテムがあったような気がする。そのパスワードは、マクドナルドのお店に行かないと手に入らなくて、だから自分は親にせがんでマクドナルドに連れて行ってもらったような。でも、そのパスワードがお店のどこに書かれているのか分からなくて、虚しい思いをして帰ったような。

 今日、仕事でマクドナルドについて調べているときに、ふと、そのゲームで遊んでいた小学生時代を思い出した。ゲームの名前が思い出せず、Googleの検索欄に「マクドナルド flashゲーム 昔」などのキーワードを入れて検索するも出ず、いろいろと試しているうちに以下のサイトを見つけた。

 

makion.net! - Web&CD-ROM

 

 ゲームの製作者(イラストレーター)の方のウェブサイトで、ゲームについて詳しく書いてある。

 これだ。自分が遊んでいたのはこのゲーム。たしかにこういう画面だった。「冒険@Mc島」というタイトルにも見覚えがある。

 でも、いまこの名前で検索をかけても、情報がまるで出てこない。2000年初頭は今ほどインターネットが普及していなかったので、このゲームで遊んでいた子ども自体がそんなにいなかったのだろうか。

 あのゲームをもう一度やってみたいのだけれど、もうできない。shockwave.comもそうだけど、インターネット上のコンテンツは、規格が古くなるともう二度とプレイできなくなってしまうのが悲しい。これがプレステやゲームキューブなら、中古ショップでソフトを買えばプレイできるけど、ネットで公開されていたものはそうもいかないのだ。

 同級生がスマブラをやっているのを横目に、自分はマクドナルドの公式サイトでflashゲームをプレイしていたのかと思うと、なんか辛い。しかもそのゲームはもう二度とプレイできないのだ。

 たぶん同級生たちは同窓会で、スマブラにはまっていた小学生時代を思い返して談笑するのだろう。でも自分が遊んでいたのは、冒険@Mc島というゲームで、それを遊んだ友だちもいないし、今ではもうろくに情報も手に入らないのだ。

湯浅誠『反貧困』 すべての人に居場所のある社会

 

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

 

 

「貧困=自己責任」は正しいのか

 筆者はまず、「貧困は自己責任である」という意見を切り崩していくことから始める。「貧困=自己責任」とは、以下のような考え方である。

 「貧しい暮らしに追い込まれてしまったのは、その人の責任である。遊ぶ時間を減らして、労働時間を増やしたり、よい職場を探したりしていれば、今のような貧困には陥らなかったはず。そうした努力を怠った結果が今の状況なのだから、自業自得である」

 こうした考え方は、過労自殺をめぐる議論の中でも目にする。2015年12月、電通の社員が過労のすえに自殺をしたが、彼女の自殺をめぐって、「なぜ自殺を選ぶ前に、仕事を辞めることを考えなかったのか?」という意見を目にした。過労で苦しんでいるなら、仕事をやめて、休養するなり、別の仕事に転職するなりすればいいのに、なぜよりにもよって自殺を選ぶのか。この意見は、「自殺をしない選択肢があったのに、それをしなかった」ことを問題視している。

 けれども、本当に「自殺をしない選択肢」はあったのか。連日の激務で心身ともに追い込まれて、目の前の一分一秒を生きるのにも必死という状況の人に、その選択肢が見えていたとは思えない。追い詰められた人間には、平時であればもっていたはずの選択肢が見えなくなる。そして選択肢を失うことで、人はさらに疲弊し、ついには絶望して「生きているよりも死んだほうが楽」と思うにいたる。「自殺をしないこともできたのに、それをしなかった」というのは、当事者ではない外野の人間の自分勝手な断定である。

 「貧困=自己責任」という等式の背後にあるのも、そうした「できるはずのことをしなかった」という安易な決めつけであると、この本の著者はいう。努力さえすれば貧困を避けられたのに、という声は、努力をできる環境にその人がいたかどうかを見ていない。低賃金でその日を生きるのに精一杯の人間には、その先の未来を考える時間も余裕もないのだ。

 

“溜め”が奪われた状態

 著者は、貧困問題の根底にあるのは「選択肢のない状態」だといい、それを「“溜め”が奪われた/失った状態」と表現する。“溜め”とは、例えば家族であったり、家であったり、福祉制度であったりする。人は“溜め”をもちながら生きているが、ふだんはその“溜め”は意識されないので、「自分は自立して生きている」と思いがちである。

 けれどもその“溜め”は、人が危機に陥ったときに顕在化する。例えば、仕事のストレスでうつ状態になったとき、「家族」という“溜め”がある人は、仕事をいったん休んで家族のもとで休養をとるという選択肢をとりうる。けれども、そうした“溜め”がない人は、うつ状態のままでも休むことができず、最終的に極端な手段に走ってしまう。

自分の部屋しか居場所を持たない人たちは、自分の部屋をも居場所ではなくしていってしまう。その意味では、人間というのは自宅と学校、会社、サークル、あるいはネットコミュニケーションなど、複数の居場所がないともたない生き物なのではないだろうか。(1945)

 どんな人も、“溜め”がある状態で生きていて、頼れる人、逃げ込める場所があって生活が成り立っている。そして、そうした“溜め”が相対的に少ない人は、危機に襲われたときに弱い。頼れる人、逃げ込める場所がないから、選択肢が限定され、貧困に陥っていく。

 貧困を招くのは、“溜め”が奪われた状態である。安易な自己責任論は、そうした“溜め”のあるなしを考慮していない。

健全な社会とは、自己責任論の適用領域について、線引きできる社会のはずである。ここまでは自己責任かもしれないが、ここからは自己責任ではないだろうと正しく判断できるのが、健全な社会というものだろう。(1204)

 

(引用のカッコ内の数字は、Kindleのページ番号)

パク・チャヌク『親切なクムジャさん』 圧倒的センス

 

親切なクムジャさん(字幕版)
 

 パク・チャヌク監督『親切なクムジャさん』の感想・レビュー。ネタバレあり。

 以下は予告編。

 

 

 

・画面にみなぎる緊張感とリアリティ

 映像の美しさ。ポン・ジュノ映画にも通じる圧倒的センス。

 ゆったりと時が流れる場面と、緊張感みなぎる場面とをうまく組み合わせていて、観ていて飽きない。冒頭から一気に画面に引きつけられる。

 特に好きな場面は、妊娠したクムジャが、水族館の中にある公衆電話で先生に電話するところ。素晴らしいリアリティだし、巧い。

 他にも、工場のおっさんが銃を構える場面で、そのおっさんの腕に、銃を握る腕の入れ墨が彫ってあるところ。こんな細かいところにも映像的な楽しみを潜ませるのは感動する。

 

・年齢を感じさせないイ・ヨンエ

 この映画を撮ったとき、主演のイ・ヨンエは34歳。演じるクムジャの年齢とほぼ一緒。

 だが、イ・ヨンエは作中で学生時代のクムジャも演じていて、その姿が本当に学生に見える。透き通るような肌が年齢を感じさせない。

 この他にもイ・ヨンエはいろんな役柄を演じている。誘拐で逮捕される20歳の女役、刑務所の模範囚役、罠をはって厄介な女囚を殺す狡猾な女役、赤いアイシャドウをつけた水商売風の女役など。いろんなイ・ヨンエを楽しむ映画。

 

・後半のやりすぎ感

 イ・ヨンエの存在感、映像のセンスの2つは素晴らしい。けど、物語としては正直なところイマイチ。前半はいいけど、ラスト付近はやりすぎというか、凝りすぎていると思った。

 これは同じ監督の『オールド・ボーイ』にも感じたこと。復讐するまでの過程はすごく面白くて見入るんだけれど、いざ復讐を実行する段になると、そこにひねりが加えられている。そのひねり具合がちょうどよければ問題ないのだが、この監督の場合、そのひねりが強いというか、そこまでひねりますかというところまでひねってくるので、それまでの悲劇のトーンが下がって、少しコメディっぽくなる。

 本作でいうと、最後、ペクを監禁したあと、ペクの被害児童らの遺族を集めて、全員でペクに復讐するという部分。「遺族が集まって、ドロドロした感情をぶつけ合う」場面のエグみを見せたいという監督の意図は分かるのだが、そんなにひねった筋書きにしなくてもよいのに、と思ってしまう。

 これだけ話をひねってくると、「なんでペクは子どもを何人も誘拐して殺し、その場面をビデオで撮っていたのだろう」とか、「これだけの遺族をどうやって集めたのだろう」とか、「遺族が議論している音声をペクに聞かせるために、クムジャはわざわざマイクとかを教室に仕込んでいたんだろうか」とかを考えてしまう。画面に集中したいのに、他のことに気がいってしまうのだ。そうなると、そこまで積み上げてきた悲劇のムードが崩れて、ちょっとコミカルになり、喜劇の音が聞こえてくる。

 こういうとき私は、「あまりよく知らない人のお葬式に出ている」ときの気分になる。本来なら故人を悼まないといけないんだけど、そんなに親しい人ではなかったのであまり悲しい気持ちになれない。むしろ、お坊さんがお経を読む声がちょっと高いとか、親戚のおじさんのワイシャツがヨレヨレであることが気になって、妙に笑えてしまう。悲しい気分にならないといけないのに、なぜか笑いどころを探してしまう。この映画の後半は、まさにそんな感じなのだ。

 さらに問題なのは、遺族を出したことで、クムジャの存在感が薄れてしまったこと。そこまではクムジャの映画だったのに、最後だけ遺族が前に出てくるので、相対的にクムジャの役割が弱くなる。本当ならいちばんその姿がクローズアップされるべきところで、逆に光が当たらなくなる。そこが本作の最大の不満。

 

 でも、仮に、後半のひねりをなしにして、普通にクムジャがペクを撃ち殺していたらどうだったか。それを観て、満足した気になるだろうか、と考えてみると、ならないような気もする。「前半はおもしろかったけど、後半はひねりがなくて普通だった」みたいな感想を書く気もする。

 結局、これは復讐映画の着地の難しさに行きつくのだろうと思う。復讐をテーマにする場合、物語の着地点は「復讐をするかいなか」になるので、そこでどうしても工夫をしないといけなくなる。復讐が映画のピークになるので、そこまで盛り上げていくのは結構自由にできるけど、ピークのところでどうするかは選択肢が少なくて難しい。普通に復讐をする展開にすると、「なんだ、ただ復讐しただけじゃん」になるし、復讐ができない展開にすると、「なんだ、復讐できないんかい」になる。着地点が見えてしまっているだけに、普通の着地では観ている人が納得しないのだ。

 だから、監督もいろいろ考えて、こういうひねった展開を選んだんだろうと推測する。復讐映画を3部作で撮っている監督なのだから、最後は少しひねらないと、という思惑もあっただろう。

 でも私は、この映画はイ・ヨンエの存在感を味わう映画であり、だからこそ、最後までクムジャの映画であるべきだったと思う。クムジャが普通にペクを撃ち殺す展開になっていたら、クムジャはどういう顔をしてその後の人生を生きるのだろうか。私はもっとクムジャが観たかった。

都留泰作『ムシヌユン』 性欲と劣等感を妥協なく

 

ムシヌユン 1 (ビッグコミックス)

ムシヌユン 1 (ビッグコミックス)

 

 

 全6巻の感想。ネタバレあり。 

 

・ダメ人間をリアルに描いた怪作

 性欲と劣等感に支配された非モテ男子の生態を、とことんまでリアルに描いた漫画。

 ただ、物語の骨格自体は、「まともに人と会話できないダメ人間が、一人前になる物語」なので、けっこう王道。最後、主人公は人類を救う英雄になっているし。

 でも、前半の「ダメ人間」の描写がハードすぎて、そういう「英雄物語」的な雰囲気は微塵もない。主人公のダメっぷりの描写に妥協が一切なく、読んでいて共感もできるけど、ちょっと辛くなってくるところもある。それだけ徹底的に、人間の嫌なところをエグってくる。

 

・昆虫+SF+ラブコメ+チンポ

 本当に、いろんな要素が一つの漫画の中に詰め込まれている。「昆虫」「SF」「ラブコメ」「チンポ」といった素材を闇鍋のごとく一つの容器に入れて、色が黒くなるまでたっぷりと煮込んで出来上がったのがこれ。味がとにかく濃くて、なんかところどころネチョネチョする。

 一つ言えるのは、「人間と異種族の混交」をこの漫画は見せたいのだろうな、ということ。主人公には昆虫がとりついて、妙な能力を身につけるのだが、人間と昆虫がまざったフォームはおそろしく気持ち悪い。でもその気持ち悪さがクセになるというか、そのゾワゾワ感は不快なんだけど見てみたくなるというか。映画でいうと、『ザ・フライ』とか『遊星からの物体X』とか『第9地区』の気持ち悪さに近い。

 

・後半の展開は少し残念

 主人公=ダメ人間を支配しているのは、「性欲」と「劣等感」。この2つを「そこまでエグりますか」と思うほどに丹念に描いている。汗臭さと性(精)の臭いがページから立ち上がってくるほどに。

 主人公は劣等感にとりつかれていて常にビクビクしており、他人とのコミュニケーションに自信をもてない。だが自意識と性欲は人一倍強いので、欲望と現実との遥かなギャップにもがき苦しみ悶絶する。この情けのないダメ人間っぷりの描写は本当に執拗で、同じ内容を上書きするかのように何度も何度も繰り返される。

 とはいえもちろん、そうした主人公の性欲と劣等感の描写は、終盤の主人公の覚醒の前フリになっている。こんなに情けのないクズ野郎が、どのように自分を変えていくのか、読んでいて楽しみになってくる。これだけ丹念に前フリをするからこそ、その後のジャンプの爽快感を味わいたくなるのだ。

 けれども残念なのは、そのジャンプがあんまり上手くいっていないこと。終盤の主人公の覚醒が中途半端というか、その場の状況に流される形で英雄になる展開になっていて、「どうしてあれだけ情けなかった男がここまで吹っ切れたのか」を説明しきれていない。だから、本当なら主人公にめいっぱい共感できるはずのところで、すっと気持ちが離れてしまう。最後、憧れの人だった新城かなこと一時的にではあるが結ばれて、新城かなこは「幸せ」とまで言う。でも、主人公がなぜ変われたのかが分からないので、どうして新城かなこが「幸せ」と言えるのか、よく分からない。

 この漫画らしくエロで例えるとするならば、もうすぐでイけるというところまでさんざん刺激してもらったところで、急に寸止めされて、そのまま終わってしまう感じ。出したい気持ちを煽るだけ煽って出させてくれない。焦らすだけ焦らしてフィニッシュはなし。そういう特殊風俗って、あるのかどうか分からないけど、私の感想はそれだ。この漫画は特殊風俗だ。

ナ・ホンジン『コクソン』 パズル映画の消化不良

 いろんな要素がごたまぜにされて、よくわからない映画。映像はところどころインパクトがあるし、ホラーとして引きつけるところもあるんだけれど、物語としては尻すぼみなので、いまいち充実感がないままに見終わった。

 この映画をどう「解釈」すればいいか、ネットを見るといろいろ解説しているサイトがある。いわく、謎の日本人=キリスト、主人公=キリストを迫害する人で、キリスト教の迫害を現代世界に写し取っているのだ、みたいな解釈があるようだが、そういうパズル映画だとしたら、自分の求めているものではなかった。

 やれ、象徴をよみとれとか、隠された意味をさぐれ、みたいな、作者がこめた意図を解読してねというタイプの映画がある。その典型は『複製された男』というクソ映画。「一見すると意味不明なように見えて、実は深い意味が…」という映画って、パズルを解かされているようで、好きになれない。当たり前だけど、そういう映画よりも、「製作者が伝えたいことをしっかり映画内で表現できている」映画のほうが優れていると思うので。

 映画に限らず、フィクションすべてに言えることだが、「この人物の名前には、実はこんな隠れた意味があるんですよ!」「この物語のプロットは、実は古い神話がモチーフになっているんですよ!」というようなギミックって、あくまで細部のこだわりの階層であるべきであって、それをメインにすべきではないんじゃないの。カレーライスの専門店が「福神漬にこだわってます」とアピールしているような感じ。求めているのはそこじゃないんだ。

 映画として十分に楽しめて、なおかつ細部にいろんなギミックが凝らされていると、すごいこだわりだな、と思うし、その作品とクリエイターを愛でたくなる気持ちになる。でも、映画として不十分な満足しか与えていなくて、「深い意味はそっちで読み取ってね」というスタンスの作品は、パズルを解かされているのと一緒で、つまらないことをさせられている気分になる。

 もっと映画として完成させてほしい。映画を観ているときに楽しませてほしい。消化不良な映画を観終わったあとに、その消化不良感を解消したいがためにいろんな解釈をひねり出さないといけないような映画にはうんざりだ。