つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

『ダンケルク』 「スペクタクルと感動」というハリウッドの文法

 『バンド・オブ・ブラザーズ』と比較すると、この映画はスペクタクルと感動に寄せすぎ。無理に見せ場を作ろうとしているので安っぽくなっている。
 例えば、不時着した戦闘機からパイロットが脱出しようとするも、フロントガラス?が開かずに溺れそうになる。が、助かる。
 例えば、英兵を助けにきた商船がドイツ兵に撃たれ、その中に隠れていた兵士たちが溺れそうになる。が、助かる。
 どちらも、分かりやすい「危機的状況」を作って映像的な盛り上がりを作ろうとしているのだろうが、その作り方がクサすぎて冷めるのだ。
 『バンド・オブ・ブラザーズ』にもたしかにこういう見せ場はあったが、『ダンケルク』ほどあからさまではなかったし、きちんと大筋のストーリーに沿っていた。
 戦争モノを作っても、結局は「スペクタクルと感動」というハリウッドの文法から抜け出せていない。やっぱりクリストファー・ノーランは嫌いだ。

『シェイプ・オブ・ウォーター』 オスカー狙い、あるいはデル・トロのオタク性

 ギレルモ・デル・トロ監督『シェイプ・オブ・ウォーター』(2018年)の感想・批評。

 

・デル・トロの作家性

 文春オンラインの『「シェイプ・オブ・ウォーター」は、インテリぶるには格好の映画だ』という批評、記事のタイトルは目を引くために大げさにしているが、書いてあることは非常に鋭い。『シェイプ・オブ・ウォーター』についての批評はいくつか読んだが、この批評記事が一番この映画の本質をついていると思う。何より、言葉の端々にデル・トロ愛が感じられるのがいい。

 この記事曰く、『シェイプ』は「今の映画人のスタンスを問う踏み絵」でありながら、かつ「デル・トロの個人的な葛藤を投影した映画」でもある、という。

 前者は言い換えれば、リベラルな映画人たちが好みそうなテーマを多数取り上げているということ。主人公たちはみなマイノリティーで社会的弱者であり、主人公たちの敵であるストリックランドは多数派側で権力を振りかざす大悪人である。「マジョリティーの暴力に反抗するマイノリティー」という分かりやすい物語は批評家に受けがよく、アカデミー賞の受賞作としてもふさわしい。

 後者はデル・トロという監督の作家性に踏み込んだ視点である。デル・トロはこの『シェイプ』や『パンズ・ラビリンス』のような人間ドラマも撮るが、一方で『ヘル・ボーイ』や『パシフィック・リム』のようなエンタメ大作を作れる監督である。それは彼が根っからの怪獣オタクであり、そのオタク性を映画として表現するのに長けた作家だからである。

 作家として優れた才能をもつ彼は一方で、オタクとしての劣等感を抱えている、と記事は指摘する。今でこそ『パシフィック・リム』のような映画で世界的な名声を手にしてはいるが、デル・トロの中には、怪獣オタクである自分の「未熟さ」「幼稚さ」(immature)を引け目に感じる部分があり、それが『パンズ』の大尉や『シェイプ』のストリックランドに表れているという。つまり、大尉やストリックランドは、「大人になりきれない」デル・トロを叱る「まっとうな大人」なのだと言う(実際、maturityは欧米ではかなり重視されているように思う。人を非難するときに「あなたはmatureではない」という言葉はよく使われる)。

 言われてみれば、『パンズ』と『シェイプ』はよく似た映画である。マイノリティの主人公が、権力の象徴である大人たちによって抑圧されながらも、なんとかそこから逃げ出そうとする、というのが物語の骨格になっている。

 その骨格の中で、デル・トロの個人的な問題が強く投影されるのは、自分を抑圧しようとする「大人」である。『パンズ』の大尉も、『シェイプ』のストリックランドも、強烈な個性をもつキャラクターとして主人公の前に立ちはだかる。彼らの存在感は主人公をはるかに凌いでいる。といってもそれは当たり前で、デル・トロにとっては彼らのような大人こそが憎き相手であり、映画の中で倒すべき敵だから、いくらでも肉付けができるのだ。しかし一方で、その大人たちが「矯正」しようとする主人公たちには、あまり魅力がない。強烈な「大人」がまずあって、そこから逆算するようにして「主人公」の肉付けがされるので、どうしても作りもの感がでてしまうからだ。抑圧する相手がまず存在して、そこから逆算する形で抑圧される主人公が作られている。だから、「大人」が明確な個性とリアリティーを備えているのに対して、その相手となる主人公たちは影の薄い存在にならざるをえない。

 こうした理由から、上の記事では、『シェイプ』が物語としての力に欠けていると言う。ストリックランドの強烈な個性に対して、主人公たちは「マイノリティ」のステレオタイプの枠内に収まってしまっており、したがって物語としての面白みが生まれていないと。この指摘は、デル・トロという映画作家の特徴をずばりと言い当てているように見える。『シェイプ』が、映画としてきれいにまとまってはいるが、しかし単なる優等生的な映画にも見えるのは、こうしたデル・トロの作家性に基づく部分が大きいだろう。

 けれども記事ではデル・トロの作家性が爆発することに期待している。最後のセリフは、デル・トロ愛に溢れていてとてもいい。

「オレは『シェイプ・オブ・ウォーター』は『前向きの失敗作』やと思う。いつの日かデル・トロは、『今度こそファンタジーの力で現実を打ち負かす』ために、もう一度同じモチーフの作品作りに挑戦するんやないやろうか。宮崎駿作品もそうやと思うけど、作り手が何度も何度も同じテーマ・モチーフに挑戦し、挫折を繰り返しつつも作品を深化させていく様を見守り続ける。それも映画を観る大きな喜びのひとつであり、観る側の教養にもなっていくと思うんや」

 

・『シェイプ』は結局ファンタジー

 以下では、小石氏の見方とは別に、私がこの映画をどう考えたかを書く。

 まず、この映画に対する私の感想を一言にまとめると、「誠実だが、退屈な映画」である。退屈に感じた理由は2つある。1つは「ストーリーが勧善懲悪であること」、もう1つは「マイノリティというテーマが物語の中で消化されていないこと」。

 1つ目の「勧善懲悪」は単純である。『シェイプ』は明確な勧善懲悪物語になっている。主人公たちは社会の弱者を代表する人々であるのに対して、それを抑え込もうとするストリックランドは悪の権化である。

 悪に対して正義が団結して対抗するという構図は物語に安定感を与えるが、しかしそうした単純な二分法が浮世離れしていることは言うまでもない。マイノリティがみんな善人で、マジョリティがみんな悪人かというと、そんなわけはないのだ。例えば2016年のアメリカ大統領選でトランプが勝利したとき、トランプ支持者たちには「移民を毛嫌いする保守的な白人」というレッテルが貼られたが、実際にはトランプ支持者たちも多様で、様々な人が色々な理由でトランプを支持していた。ヒラリー支持者が多様であったように、トランプ支持者たちも多様だったのだ。

 人間を善と悪とに分けることができたらどんなに楽だろうと思うが、実際の社会はそんなに単純ではないし、単純ではなく多様であるからこそマジョリティとマイノリティという区別が存在する。そして、Netflixドラマ『13の理由』が伝えているように、マイノリティだからといって常に社会的弱者として抑圧されているわけはなく、人は所属するコミュニティの中で様々に立場を変えているのだ。

 ただしこれは、勧善懲悪な映画が社会を単純化しすぎているから、すべてつまらないと言っているわけではない。勧善懲悪の映画にも傑作はある。例えば『マッドマックス 怒りのデスロード』(以下『マッドマックスFR』)がそう。『マッドマックスFR』は明白な勧善懲悪の物語ではあるが、映画としては最高に面白い。それはなぜかといえば、映画ではマイノリティの問題が物語としてしっかりと消化されていたからだ。

 ここで、『シェイプ』が退屈だった理由の2つ目に話がつながる。『マッドマックスFR』がマイノリティの存在をうまく物語の中に取り入れて消化しているのに対して、『シェイプ』はそれを中途半端な段階で放棄している。『シェイプ』では、主人公たちに「女性」「発話障害者」「ゲイ」「老人」「黒人」など様々なマイノリティのラベルが貼られており、その点で現代社会の諸問題をきれいに投影しているのだが、しかし彼らの問題は映画内では何ら解決されることなく、あくまで物語は個人の物語として終わってしまう。

 悪の権化であったストリックランドは、覚醒した半魚人の切り裂きによって虫の息となる。主人公のイライザと半魚人は、最後には人間社会を離れて、自分たち2人だけの世界へと旅立っていく。彼らは「恋」の魔法で2人だけの世界を作り出し、そこに自分たちを閉じこめることで決着をつける。

 こうした物語展開は、『マッドマックスFR』とははっきりと異なる。『FR』で主人公のフュリオーサは、一時は女たちとともに故郷に帰ろうとするが、しかし最終的にはシタデルに戻ってイモータン・ジョーと対決することを選ぶ。彼女は、社会を否定するのではなく社会を変えることを選び、マイノリティにも生きる権利が与えられる社会を勝ち取ろうとしたのだ。性的搾取をされる女性であったフュリオーサが、最終的に抑圧者のジョーを打ち倒すというストーリーは、「マイノリティの物語」として強い説得力があった。『マッドマックス』というタイトルにもかかわらず、「マックスの物語」にはならずに「フュリオーサの物語」であったのは、ジョージ・ミラーが社会的弱者を飾り物にしなかった証拠である。

 一方で『シェイプ』は、マイノリティを素材として用いつつも、いつしか話は2人の恋へとスライドし、最後は2人だけのファンタジー世界への旅立ちという形で幕が下りる。作品に当初与えられていた現代性は、物語が先に進むにつれて希薄になり、ラストは主人公2人のパーソナルな物語で完結している。「マイノリティの抑圧」の問題は宙に浮いたまま、主人公たちはファンタジーの世界へ行ってしまうのだ。主人公たちに仮託された社会性は、宙ぶらりんのままで放置される。

 物語がこのような結末を迎えるのは、上の記事にもあった「デル・トロのオタク性」につながっている。この映画は、オタクのオタク性を認めない世界にノーをつきつけて、オタクだけの世界へと自閉する話ではないのか。物語の前半で強調されたマイノリティの問題はいつしかオタク性へとすりかわり、自分だけのファンタジー世界へと閉じこもる話になっているように見える。

 物語にマイノリティという素材は埋め込まれているが、それは最後まで物語の中でまざることがない。作者がマイノリティというものを引き受けて、物語として消化しきれてはいないのだ。それは最後まで物語を彩る飾りでしかない。その意味でこの映画は「オスカー狙い」である。そしてこれが、上で述べた「勧善懲悪」からくる浮世離れ感と合わさって、私にはとても退屈な映画に見えた。

『13の理由』 マイノリティは加害者にもなりうる

 『13の理由』Netflixオリジナルドラマ。全13話。感想と批評。ネタバレあり。

 

 

【好きなところ】

・過去と現在が入り交じる映像

 ハンナがいた「過去」と、ハンナのいない「現在」。過去と現在の出来事がないまぜになって提示される。「現在」のクレイが、「過去」の出来事に思いをはせる形で話が進んでいくのだが、現在と過去とのつなぎがシームレスなので、主人公の回想に素直に寄り添うことができる。

 過去と現在を混ぜる表現は、それが「過去」の映像なのか、それとも「現在」なのかが分かりづらくなるという欠点があるが、このドラマでは、「現在」のクレイにマークをつけることで解決している。「現在」のクレイは自転車に乗っているときに転び、額にケガをする。そのケガのあるなしで、現在か過去かが分かるようになっている。

 

・周到な伏線

 「現在と過去をないまぜにする」ことと、「視聴者に提示する情報を抑える」ことによって、巧みに伏線を張っている。「あのときのあのセリフは、こういう意味だったのか」とあとで気づく場面が結構ある。

 例えば、学校の校長が、「短い間に2人の生徒が亡くなって、他の生徒は動揺している」というようなセリフを言う場面がある。この段階では、1人の生徒(ハンナ)しか死んでいないので、「2人」というのはどういう意味だろうと視聴者は疑問に思う。だが、第10話で、ジェフという生徒が事故死していることが分かり、校長の「2人」の意味がやっと通じる。そして同時に、ジェフというキャラクターは、クレイの回想の中には登場するが、現在のクレイの周りにはいなかったことにも気づく。

 

・マイノリティは加害者にもなりうる

 ハンナの「リスト」に上がっているのは、以下の11人。

 ジャスティン・フォーリー[貧困]
 ジェシカ・デイヴィス[黒人]
 アレックス・スタンダール
 タイラー・ダウン[いじめられっ子]
 コートニー・クリムゼン[アジア系][同性愛者]
 マーカス・コール[黒人]
 ザック・デンプシー[アジア系]
 ライアン・シェイヴァー[同性愛者]
 シェリ・ホーランド[黒人]
 ブライス・ウォーカー
 ポーター先生[黒人]

 何らかのマイノリティか、社会的弱者の立場にある人間が多い。マイノリティや社会的弱者は、被害者となることが多いが、しかし同時に加害者にもなりうる。

 マイノリティや社会的弱者にスポットを当てるときに、イノセントな存在として神聖化するのではなく、同じフィールドにいる存在として普通に扱っている。さらに、この物語では彼らは「加害者」の立場である。同じ人間だからこそ、被害者であると同時に加害者にもなりうる。マイノリティ・社会的弱者の、自然で無理のない描き方である。

 この物語中の死者は、ハンナ、ジェフ、アレックスの3人だが、みな中流家庭の白人である。こうした人物配置を見ても、「マイノリティは加害者にもなりうる」というドラマ製作者のメッセージが読みととれる。

 


【嫌いなところ】

・展開がスローすぎる

 1話1時間で全13話。

 13の理由だから全13話にしたんだろうが、そのせいで話の進みが遅く、見ていてイライラすることが多かった。「そのシーン必要か?」と思わざるをえない場面がちらほら。そのせいで話のテンポが悪くなる。1話は30分でも十分だったと思う。

 

・ハードルを上げすぎ

 「展開が遅すぎる」ということと関連するのだが、話の進みが遅いせいで、後半にかけてハードルが上がりすぎてしまい、それを超えられていない。いわゆる浦沢直樹パターン。

 例えば、「クレイはハンナの自殺にどう関わっているのか?」ということについて。主人公であるクレイが、ハンナの自殺にどう関係しているかは、このドラマの中心的な「謎」として、何度も言及され、その解答に向けて期待が高められていく。

 けれども、第11話で明かされたそのその解答は、あまりにも弱い。視聴者を焦らして焦らした末に明かされる答えは誰でも予想がつくこと。マーカスがクレイに言った「お前のテープを聞いてみろ」というセリフや、トニーの「お前がハンナを殺したんだ」というセリフは、いったい何だったのか。

 この「ハードルをやたらに上げすぎて視聴者を煽った結果、超えられなくなる」という問題は、アメリカのドラマを見ているとよく遭遇するので、『13の理由』でもそれを繰り返すのかと思うと少し醒めた。

OneNote for Mac のダメなところ

 Mac版のOneNoteを長く使っている。階層分けができるので日記やメモを書くのに重用していたが、使っていくうちにダメなところが分かってくる。「文書ソフトなのにこんなバグが…」と思わざるをえないのは以下の2点。

 

コピペができない

 Mac版のOneNoteの致命的な欠陥、それはコピペができないこと。

 OneNote内の文章のコピペは問題なくできる。だが、OneNoteの外からOneNoteへ文章をコピペするのはダメ。例えば、Webブラウザ上でコピーした文章をOneNoteに貼り付けようとすると、なんとフリーズする。何分待っても反応しなくなるので、ソフト自体を強制終了しないといけない。

 以下のページを見る限りでは、OneNoteの製作者側も、このバグについてはすでに把握しているようだ。

answers.microsoft.com

 

 上のフォーラムの回答によれば、「command + Vでペーストすればフリーズはしない」とのこと。ただのコピペならそれでいいのだが、元の文章に文字スタイルが設定されている場合、プレーンテキストの状態で貼り付けたい。だが、メニューから「ペーストしてスタイルを合わせる」を選ぶと、やはりフリーズする。

 文書ソフトなのに、コピペのたびにフリーズに悩まされるのはつらい。

 

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OneNoteにコピペするとこの画面でフリーズする


 

行間が設定できない&勝手に変わる

 Mac版のOneNoteでは、行間が設定できない。

 しかし不思議なことに、半角入力をすると行間が自動で狭くなる。おそらくだが、個々のフォントで行間が設定されていて、半角は欧文フォント扱いになるために行間が狭くなるのだろうか。
 この不思議なシステムのせいで、文章の行間がバラバラになってしまう。

 

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一度でも半角で文字入力すると、それ以降は行間が狭くなる

 

 Word for Macもそうだが、もともとWindowsのソフトなので、Mac版はどうしてもバグが多い。OneNote自体はとてもいいソフト。でもそれだけに、快適さを損なうようなバグがあるのは惜しい。

 ということで、今はOneNoteを離れて、別のメモソフトに移ろうか思案中。でもOneNoteに書き溜めたメモを移すのも面倒……。誰か、Mac版のOneNoteのうまい操縦法を知っている方がいたら、どうか教えてください。

Word for Macの文字入力が遅い

 Word for Macの文字入力が遅い。

 

[ソフト]Office 365 Word for Mac(16.13.1)

[PC]Macbook Pro (Retina, 13-inch, Early 2015) High Sierra(10.13.4)

 

[症状]
 文字入力のときに、少しラグがある。キーボードで入力してから、ワンテンポ遅れて画面に文字が表示される。

 遅れる時間はほんの少し。0.1秒もないくらい。でも、長文を入力するときはストレスになる。

 同じOfficeでも、Excelではラグは生じない。Word特有の問題。

 

[試したこと]

・フォントの整理

 「フォントが重複」は、Macの文字入力が遅くなる原因の定番。だが、私のパソコンには重複フォントがなかったので、これが原因ではない。

 

・日本語入力システムの変更

 日本語入力システムとして、私は「Google日本語入力」を使用している。

 それをmacOS標準の入力システムに変えてみると、ラグは少し減る。完全になくなるわけではないものの、かなり入力しやすくなる。

 

・Wordのレイアウトの変更

 でも、私はGoogle日本語入力に慣れているので、いまさら別の日本語入力システムに変えるのは面倒。

 ということで、Wordのレイアウトをいじってみる。「表示」のタブで、「印刷レイアウト」から「下書き」に変更。すると、ラグは全くなくなった。

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「下書き」の画面


[結論]

 完全に解決することはできなかったものの、レイアウトを「下書き」にすることでラグは解消できた。そもそも、「印刷レイアウト」で文章を作る必要はないことが多いので、これでだいたい大丈夫。

 Office for Macは何かとバグが多い。Mac版のOneNoteも、よそでコピーした文章をペーストするとフリーズするという致命的なバグを抱えている。結局、OfficeはWindowsで使え、ということ。MacでOfficeを使う場合は、妥協する覚悟が必要。

『Devilman crybaby』 食品サンプルのようなアニメ

Netflixで『Devilman crybaby』を見る。『デビルマン』の現代版リメイク。

その感想・批評。ネタバレあり。

 

 

 

【好きなところ】

・テンポがよくスピード感がある

 今どきのアニメらしく、リズムがあってスピード感があり、見ていて純粋に楽しい。

 湯浅監督は『マインドゲーム』で有名な人ですが、『マインドゲーム』同様に、独特なトリップ感のある映像が『crybaby』でも楽しめる。シンプルな絵だけどすっきりとしていて美しく、動きが豊富で見ていて魅了される。

 ただし、スピード感があるのは前半まで。後半はシリアスな展開に移行するので、流れは停滞する。

 

・魅力的なシーンが豊富

 不動明がアモンに憑依されるシーンは、このアニメのいわば「つかみ」だが、その表現は抜群のかっこよさ。あそこで心を鷲掴みにされて、10話を一気に見てしまった。

 他にも、ラッパーの男の子がミーコにラップで気持ちを伝える場面、ラストのモノクロの戦闘シーンの中でサイコジェニーが虹色の超音波を放つ場面など、アニメとして魅力的な場面はいっぱいあった。

 

 

【嫌いなところ】

・人物造形が浅い

 キャラクターの造形が浅いので、物語は回を重ねるごとに失速していく。

 了は明への好意とサタンとしての使命の間で揺れ動いていて、その葛藤が原作の魅力のひとつだった(サタンなのに人間味があるのがよかった)のに、このアニメではひたすらサタンとして暴君的な振る舞いしかしないこと。カメラマンの長崎を平然と殺したり、天才ランナーの幸田をハメてテレビの前でデビル化させたり、「現状に不満をもつ人間こそが悪魔だ」とテレビで言ったり、やってることは総じて鬼畜の所業。第10話の最後でちょろっと明の死を悼むんだけど、そこまでの行動と整合性がないので「なんで?」となる。君はさんざん明を裏切るような行動をしてきた男の涙に、どうすれば共感できるのか? 了はただただ「理解できない」存在でしかない。

 ヒロインの美樹もまた、「理解できない」存在である。原作の美樹は「男まさりのタフな女の子」だったが、このアニメでは「容姿端麗で純朴な女の子」に改変されている。美樹は明が悪魔であることを知ってもすんなりと受け入れるし、明が悪魔ではなくデビルマンであることをネットで真摯に訴えたりする。まさに聖人君子。あまりにも聖人君子すぎて、むしろ人間味がない。こいつ本当に人間か?

 よく考えてみよう。いくら自分の家族だからといって、悪魔化した人間をはいそうですかと受け入れられるか? 最初はとにかくその事実に驚いて、でも明は家族でもあり、信頼する相手であるから、葛藤するのが人間だろう。不安と信頼との間でもがき苦しむのが人間だろう。明はデビルマンとしての自分の存在に不安をもつが、それと同じくらいに、美樹も明との付き合い方で不安を抱えていいはずで、でもどうにかして不安を乗り越えて信頼に至るからこそ、美樹のパーソナリティも見えてくるだろう。特に今は、レイシズムやマイノリティ差別が取り沙汰されるのだから、そうした「自分とは違うもの」といかに出会い、いかに互いに受け入れていくのかは、原作以上にフォーカスされてもいいだろう。

 しかしアニメでは上記の通り、美樹はあっさりとパスする。しかもそのあとにネットでデビルマンの広報活動までしてやがる。こいつは菩薩か、はたまた天使か。友達のミーコが「美樹に嫉妬する」形で個性を出す一方で、美樹自身は「聖人」のオーラで完全武装し、あまりにも純白でつかみどころのない、理解を超越した存在になっている。

  キャラ描写が浅くても、物語そのものに力があれば問題はない。でも、このアニメは明確に、「自分とは異質なもの」と分かり合うことをテーマにしている。明が暴徒に語りかけて、分かり合おうとする場面に象徴されるように。だからこそ、キーとなるキャラクターの理解できなさ、分からなさは、そんな物語の核を虚しいものにしてしまう。このアニメの後半がはっきりと失速しているのはこのキャラの「分からなさ」のためだ。

 

 ・ファッションとしてのエロ

 女性の描き方には大いに不満あり。性の対象としての女性像が強すぎる。美樹はカメラマン長崎につきまとわれてヌードを撮られるし、豹変した明にクラスメイトの女子はバカっぽくキャーキャー言うし、ミーコはカメラマンにレイプされたのにその体験を引きずらずにケロリとしているし、悪魔シレーヌはアモンとセックスしたすぎてやたらとストリップするし、了の秘書は無意味にオッパイさらすし。

 とはいえ、こういう性的描写に何か意味があれば納得もできる。でもそういう意図らしいものは特に見当たらず。単に「エロ」として見せているだけ。思想も社会性もない。過激というレッテルを安易にまといたいがためのエロ。ファッションとしてのエロ。

 特に気持ち悪かったのは、ミーコの描き方。カメラマンにレイプされたあと、ミーコは自宅の部屋でなぜかオナニーする。エロゲーかよ。ああいう場面を平気で作れてしまう製作者のことを心底軽蔑する。その後、ミーコはデビルマン化するけど、レイプ体験を精算するような場面は皆無。10代女子にとってはレイプ体験など簡単に消化できるといわんばかり。上の「キャラクターの分からなさ」に関連することだが、エロと人物描写とがつながっていないのだ。単に映像を賑やかにするためだけのエロ要素にすぎず、人物造形に何も貢献していない。

 リメイクなのに、原作の永井豪の悪いところをそっくりそのまま引きずってどうすんの? むしろ、ヒロインの美樹の性格が「不良に喧嘩をふっかけるスケバン」タイプから「純朴で汚れを知らない乙女」タイプに変更されているところを見るに、原作から後退しているとすらいえる。

 古い作品を現代版としてリメイクし、全世界に向けて公開するのであれば、エロ描写に意味をもたせる必要は絶対にあるだろう。たしかに、永井豪の原作が発表された時代であれば、タブー視されていたエロを大胆に表現するということに意味はあっただろうけれど、現代で同じことを繰り返したら、それは単にただの疑似AV。何の社会的メッセージも物語性もないファッションエロを「過激」だと思っているのなら、それは社会の動きに適応できていない無神経さでしかない。

 

 

【総評】

  • 明がアモンに憑依される場面を代表に、滑り出しが素晴らしいアニメ。第1話を見たときは本当に魅了された。アニメとしての表現はすごく凝っていて、印象に残る場面はいっぱいあった。

 

  • でも物語としてはダメだろう。非常に悪意のある言い方をすれば、「レストランのショーウィンドーに飾られた食品サンプル」のようなアニメ。見た目はきれいだし食欲をそそるけど、噛めもしなければ味もしない。

『誰も語らなかったジブリを語ろう』 芯のある物語はそんなに必要とされているのか?

 

 

 批判することがタブー視されているジブリを、真正面から語ってみようという本。だから、批判できるところを探して批判する、という形になる。というわけで、どうしても批判は粗くなる。

 

 押井さんの批評のベースにあるのは、「宮崎アニメはキャラクターが描けておらず、一貫した物語が描けていない」という点。人物の行動理由を表現しきれていないので、話に脈絡がなく、点と点をつなげあわせたような内容になっている。だから観客が人物に共感できず、話にも入っていけない、と言っている。

 

 一方で、宮崎駿はアニメーターとしては天才だと述べている。人物が描けていないのに、それでもアニメがヒットするのは、宮崎監督の徹底したフェティシズムの賜物だという。優れた映像感覚と、それを表現するセンスが抜群だからこそ、観客の目をひきつけて離さないような映像を提供できているのだと。それは宮崎駿のような傑出したアニメーターだからこそできること。

 

 このように、押井氏は宮崎駿のアニメーターとしての実力は認めつつも、脚本を書く才能は上述のように酷評している。とりわけ人物の描き方に文句をつけていて、だからその作品には構造がない、つまり人物の行動に理由がないので読者が共感できず、物語に芯が通っていないと言う。

 

 だが問題は、観客は押井氏が言うほど、構造のしっかりとした物語を観たがっているのか?ということ。押井さん自身は自分をエンタメ作家だと言っていて、作家性を封じて観客の求めるものを作っていると述べている。そして、押井さんにとっての「観客の求めるもの」とは、共感できるキャラクターと、芯のある物語である。だから、宮崎アニメの批判点は、キャラクターの描写が甘く、物語に脈絡がない、というところになる。

 

 ただ、押井さんの評に反して、これだけジブリ映画がヒットしているという事実から考えるに、「芯のある物語」が作品に本当に必要なのかどうかは疑わしい。押井氏が自分をエンタメ作家と規定のであれば、エンタメ作品として空前の成功を収めているジブリ作品の「芯のなさ」を批判の拠り所にするのは矛盾しているように見える。

 

 ただ、押井氏の言いたいことも分からなくはない。というか、むしろかなり共感できる。ポストモダン文学が一昔前に流行して「脈絡のない物語」がウケた時代があったけれど、でもそのブームが一段落したときに結局、作り手が一番納得できるのは「共感できるキャラクター」を作ることだ、という本音は、たしかに核心をついている言葉だと思う。

 

 でも、作り手の意識はそうであっても、観客が求めているものはそうではない、というのが実情で、だからジブリアニメがエンタメとして普及しているというのが事実なのだろう。観客はもう完成された物語など求めていなくて、作り手のフェティッシュな部分をさらけだしたような表現を求めているというのが本当に近いのだろう。キャラクターに共感するとか、話に一貫性があるといったことはすでに求められていなくて、どれだけリアルにキャラが食べ物を食べるかとか、色鮮やかで儚さもある風景などを求めて、観客が映画館に通っているのだとしたら、そうした観客の傾向をとらえた映画作りをしている宮崎駿は、むしろ傑出したエンタメ作家だといえる。