つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

ティプトリー『愛はさだめ、さだめは死』 「接続された女」はSF史に残る傑作

 

 数年前の初読時は、なんだかよく理解できず、それでも理解できないと認めるのは悔しいので、分かった気になって感想を書いたけど、理解できていないので、結局書くことがなくていたずらに時間は過ぎていった記憶。

 今回はじっくり読んでみたが、ティプトリー作品をだいたいすべて読んだので、この作家の特徴というか、傾向が分かった気がする。

 ティプトリーは自分の体験を小説の中に混ぜている。よく出てくるのは、若い男女が恋仲になり、体の関係をもったが、不幸な別れ方をすること。ティプトリー自身、大学時代にそういう苦い経験を持っていて、子どもを作る機能を失っている。

 傑作だと思ったのは「接続された女」「愛はさだめ、さだめは死」「最後の午後に」の3作。特に「接続された女」は緊張感がみなぎっていて、SF短編としては珠玉。

 そして、じっくり読んでみると、時代遅れになっている作品も結構ある。「楽園の乳」「そしてわたしは失われた道をたどり、この場所を見いだした」「エイン博士の最後の飛行」あたりは、今では読むのがきついと感じる。「断層」は単発アイディアで挑んでるのがディックっぽいけど、ディックほどアイディアが洗練されていないので印象に残らない。ディックなら、なぜ時間をずらせるのかを最もらしく説明するだろうし、さらにもう一展開いれるだろう。

 「接続された女」は震えるほどの名作。物語も文章も素晴らしい。人形の中にバークの意識が少し残って、バークが死んだ後にも少し稼働するところは、凄まじいシーン。

 「愛はさだめ」も、独特なテーマを扱った名作。文体が凝っていて世界観を作っている。

 「最後の午後に」は初読時は読み飛ばしていたけど、じっくり読むとティプトリーの想像力がよく生きている。巨大生物の生態は昆虫を参考にしたのだろうか。男根を胸の前に掲げながら海を走って雌を追いかけてくる雄の映像が頭に浮かぶ。それに、主人公がかすかに心を通わせる異星の生物。設定がうまく融合して、奥行きのある短編になっている。

島尾敏雄『死の棘』 読書体験そのものが泥沼

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

 

 

・泥沼のごとき小説

作者の実体験をもとにした私小説。トシオの不倫がきっかけで妻のミホは精神のバランスを崩し、家庭が崩壊していく様子を描く。

 とにかく、しんどい。統合失調症のような症状を発症した妻との生活の話なので、物語そのものがしんどいのは当然なのだが、書き方にも問題がある。作者は起こった出来事をすべて書こうとしているので、話の展開がとてつもなく遅い。とにかく無駄が多いのだ。

 しかも表現がまどろっこしく、比喩を多用して詩的に仕上げようとしているのでイライラしてしまう。小説家だから詩的な表現を使いたいんだろうけど、そういう作為性は私小説とは根本的に合わない。生活の現実を描写する言葉が宙を浮いているので、そこだけ思案してひねりだしたような不自然さをまとう。物語の内容は真に迫るもののはずなのに、それを写し取る言葉に生々しさがないので、どうにも話に乗っていけない。

 それでも300ページくらいまではなんとか読み進めたのだが、これがあと300ページも続くかと思うと辛くなり、残りはパラパラとめくり読みをして読了。不思議なことに、めくり読みでも会話さえ拾っていけば話の内容はだいたい理解できた。それだけ無駄が多いということ。

 

・この小説を読むことこそが地獄

 錯乱した妻との生活の様子はまさに地獄だが、この小説を読む体験そのものが地獄なんではないかと思えてくる。同じような内容の反復、物語と噛み合わない表現、遅々として進まぬ物語、そうした泥沼のような内容の小説を読むことそのものが、トシオとミホの地獄の生活を追体験することなのだろう。

 だから小説としてのまどろっこしさも、作者の意図するところなのかもしれない。死ぬよりも過酷な生活をひとかけらでも読者に味あわせようとする作者のたくらみだとしたら、凄まじい実験小説である。

アイリッシュ『夜は千の目を持つ』 行き当たりばったりの適当サスペンス

 

推測される当初の構想

 『幻の女』で有名なウィリアム・アイリッシュが、「ジョージ・ホプリー」名義で1945年に発表した長編。

 読めば分かるが、これはサスペンスというよりはファンタジー。より正確に言うと、サスペンスを書こうとしたけど、収拾がつかなくなった結果、ファンタジーっぽくまとめた作品。正直いって出来はよくない!

 推測するに、アイリッシュは最初はサスペンスを書くつもりだったのだろう。実際、最初はサスペンスの文法どおりに話が進むし、続きが気になる展開を見せる。でも、サーカスのライオンが脱走したあたりから雲行きが怪しくなり、「あれ……これまとまらないんじゃないか……」という読者の不安はラストで不幸にも現実とものとなる。

 たぶん当初の執筆計画では、「超常現象かと思ったら、実は緻密に練られた殺人計画だった」という筋書きの長編だったのだろう。実際、アイリッシュの短編にはそういう内容の話がある(例えば「ただならぬ部屋」とか)。だからこの長編も、そういうどんでん返しのサスペンスとして構想したと思われる。

 でも、書いているうちに収拾をつけるのが難しくなって、「超常現象かと思わせておいて、実は殺人計画でしたと思わせといて、やっぱり超常現象でした」というオチに仕方なく変えたんだろう。そうでないと、途中で警察が組織ぐるみで捜査を始めたり、ジーンの父親の死がアイリッシュお得意の「死まで残り○時間」形式で語られる理由がなくなる。警察が懸命に調査をする中で、少しずつ手がかりが見つかっていき、最後はショーンが真相を暴く、というのが自然なプロットだけど、あまりにも風呂敷を広げすぎて畳めなくなったので、最初から畳む気なんてなかったフリをした作品、それが『夜は千の目を持つ』である。

 そういう行き当たりばったりさが一番出てるのが、サーカスからライオンが脱走したところだと思う。読者も「これは本筋と関係ないんだろうなあ」と思いながら読んだだろうし、作者も「これをどうやって本筋に絡めればいんだろう」と思いながら書いただろう。このサーカスの顛末は、本当に謎。たちの悪いページ稼ぎとしか思えない。

 

この小説の(数少ない)いいところ

 とはいえ、この小説に魅力がないかというとそうでもない。この話、刑事のショーンやジーン・リードではなくて、預言者トムキンズの物語として見ると、けっこうもの哀しい。末尾に「頭のどこかに、一点の熱い火を燃やしていた農家のせがれ」(p. 433)という形容があるが、まさにトムキンズの生涯はその形容通り。身分不相応な能力を与えられた人間が、それゆえに苦しみ、苦しみぬいたすえに、自殺を選択する。特異な力を望まずして持った人間の悲劇としては読める。

 あと、妙にリアリティがある場面があって、そこはアイリッシュだなと思う。一番ぐっときたのは、ドブズとソコルスキーという2人の刑事が一緒にトムキンズの住むアパートに行くシーン。2人は「空き部屋を探している2人組」を演じているので、途中の「空き室あります」という掲示に立ち止まり、どうせ断るのに一応入って部屋探しをしているフリをする。トムキンズのアパートにまっすぐ行くのではなくて、その前にちょっと寄り道して2人の刑事の性格付けをするこの場面は本当に上手いし、リアリティもある。

 

アイリッシュで読むべき作品

 この小説の出来にがっかりして、アイリッシュにダメ作家の烙印を押そうとしている人は、ちょっと待ってほしい。これは明確な失敗作だけど、アイリッシュには今読んでも楽しめる作品もある。例えば長編だと以下。

・『幻の女』:日本ではこれが有名。アイリッシュの叙情性が一番出てる。

・『暁の視線』:正統派のサスペンス。

・『喪服のランデブー』:哀しみに満ちた名品。

 上に挙げたのは長編だけど、アイリッシュの本質は短編作家だと思う。短編に名作が多い。絶版だけど、創元推理文庫から出ていたアイリッシュ短編集(全6巻)のうち、『裏窓』『わたしが死んだ夜』『ニューヨーク・ブルース』は名作がそろっていておすすめです。

ティプトリー『故郷から10000光年』 この読みにくさもティプトリーの魅力か

故郷から10000光年 (ハヤカワ文庫SF)
 

 

 ティプトリーの第一短編集。全体的に読みにくい。一つの作品にいろいろ詰め込みすぎるきらいがあり、そこが魅力にもなっているんだけれど、翻訳ということもあってなにぶん読みにくいのだ。たぶんこの読みにくさのせいで、ティプトリーは今では読まれなくなっている。名作は多いんだけども。ティプトリーで唯一『たったひとつの冴えたやりかた』が人気なのも、あれがティプトリーの中では圧倒的に読みやすいからなんだよな。

 以下、各短編についてのメモ。

 

・「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」And I Awoke nad Found Me Here on the Cold Hill's Side

 人間の性衝動をテーマとした話。

 歴史的に人間は、コミュニティの外側の人間と性交渉をしていくことでコミュニティを拡大するとともに、環境への適応能力を高めてきた。自分にはないものをもつ人々と交わって子孫を残していくことは、種としての強度を増す(種としての多様性やゆらぎが、その種の維持にとって重要であることについては、漫画『攻殻機動隊』の末尾で「人形使い」も語っている)。

 だから人間は、宇宙開発を進めて非地球人と出会った場合、本能として性交渉の欲求を持つ。しかし、生物学的なつくりが異なるので性交渉は成立せず、欲求が満たされることはない。非地球人を前にすると、人間は常におあずけを食らわされた飼い犬のような状態になる。

 ゆえに、宇宙に進出したすべての人間は堕落し、掃除夫や召使いとして非地球人に奉仕する身分に成り下がる。どんなに優れた地球人でも、本能には勝てないのだ――という話。

 この作品、不思議なのは、「異人との性交渉」への欲が地球人に限定のもの、と考えていること。なぜ地球人だけにそうした欲求があるのか?という疑問が当然浮かぶ。


・「雪はとけた、雪は消えた」The Snows Are Melted, the Snows Are Gone

 何らかの理由で欠陥遺伝子をもつグループに属する女(腕がない)が、凶暴だが頑健な肉体をもつ種族を捕まえて、遺伝子の改善を図ろうとする物語。

 他のティプトリーの短編と同じように、「性衝動の根本は種の保存」という考え方がここにもある。でも作品としては中途半端な印象。


・「ヴィヴィアンの休息」The Peacefulness of Vivyan

 話がけっこう複雑。その時代、テラを中心とする巨大な帝国が宇宙で覇権を握っていた。アトリスコという星でも、テラ系の王族が政権を握っており、アトリスコにもともと住んでいたアトリスコ人たちは迫害されていた。テラ系の王族の王子の名はカンコクストランで、別名コックス。コックスにはヴィヴィアンという名の弟がいた。

 そんなアトリスコで帝国への反乱が起き、テラ系の王族たちは大部分が殺された。コックスはその反乱のさなかに、反乱軍へと転向したが、弟のヴィヴィアンは帝国軍に囚われ、帝国軍のために働くスパイとして洗脳された。彼は今では、自分の周囲の重要人物について、帝国に逐一報告する密告者となっている。

 雑誌発表時の作者のコメントによると、この作品のユカタンに当たる人物は、現実にメキシコに存在していて、ティプトリーは会っているのだという。だが、ネットで調べてもそれが誰だったのかは出てこない。おそらくは要人の家族で、歴史として取り上げられるような大きな出来事ではなかったのだろう。


・「故郷へ歩いた男」The Man Who Walked Home

 この短編集の中では傑出の出来。

 時間旅行に成功したものの、帰還した際に発生したエネルギーの膨張によって研究所は大破、時間旅行者もふっとばされて時間の狭間を漂うことになる。分かりやすくいうと、時間旅行に失敗して、ドラえもんのタイムマシンが通るようなぐんにゃりとした世界を、時間旅行者はさまようこととなったのだ。しかも、彼に残された移動手段は、歩く、それだけ。彼は時間の狭間の中を、ただひたすらに歩いて、故郷である地球へ、一歩一歩進んでいくのだ。

 正直、なぜ彼の姿が研究所跡に1年周期で現れるのかはよく分からない。彼の歩む軌道と地球の公転軌道が交わる、って行っているけど、公転軌道と交わるところを歩いているのならもうそろそろ地球に到着するのでは? というか、彼の歩む軌道って公転軌道のような3次元空間なのか? ここらへんの設定がガバガバだけど、でもそれは気にならないくらいに、時間旅行者の孤独と生への執着とが伝わってくる。

 そして、なんだか話がよく分からないけどでもなんとなく分かるという、SFならではのゾクゾク感もこの短編にはある。これぞ傑作。


・「セールスマンの誕生」Birth of a Salesman

 宇宙で貿易が行われる時代には、地球からの輸出品が輸出先の星でアレルギー反応を引き起こさないかをチェックするために、あらかじめ地球の貿易管理局を通らないといけない。主人公はその機関の創設者で、いろんな異星人を雇って輸出品のチェックをしている。

 未来を舞台にしたシチュエーションコメディのような短編。


・「ビームしておくれ、ふるさとへ」Beam Us Home

 後の「男たちの知らない女」の原型となるような作品。息苦しい地球に膿み、スタートレックの世界に憧れている男が、軍隊に入って戦争に参加して病死し、ようやくこの汚い地球を逃れて宇宙へ旅立てました、という話。スタートレックに憧れている、というとんでもなく世俗的なところがティプトリーっぽくなくて新鮮。

『新語・流行語大全』 「なぜだ!」

新語・流行語大全1945‐2005―ことばの戦後史

新語・流行語大全1945‐2005―ことばの戦後史

 

 

 印象に残った言葉のみ以下にリストアップ。

 

・かつぎ屋

 戦後の闇物資の行商人のこと。


額縁ショー

 ストリップショーの元祖。西洋名画風の額縁の中に、上半身ヌードの女性を立たせるショー。動くと風俗壊乱になるので、モデルは額縁の中でじっとしている。


笠置シヅ子

 「ブギ」の女王。1956年、「自分が納得できる声がようでえしまへんので堪忍してや」と歌手を廃業。実際には、ブギが下火になっていたことも影響している。その後は俳優として活動した。


・老いらくの恋

 歌人川田順と歌弟子・鈴鹿俊子との不倫関係。川田は妻を亡くしていたが、鈴鹿には夫と3人の子がいた。


・銀座カンカン娘

 1949年に流行った映画。「カンカン」の意味は誰も分からない。


・兵隊の位に直すと

 当時はやった言葉。山下清徳川夢声に、「ぼくの絵は兵隊の位に直すと、どこへのぼっている?」と聞き、徳川は「佐官ぐらいだろう」と答えたのに由来。


・ミッチー・ブーム

 1959年の結婚を機に、ミッチー・ブームが到来。ミッチーみたさにテレビを買う人が多かった。


・ハンカチ・タクシー

 自家用車を使ったモグリのタクシー。普通のタクシーより2割ほど安く、乗車するとハンカチなどの景品をくれる。「商品を買ってくれた客に無料サービスをしている」というていで営業を行う。


・チ・37号

 チ=千円札、37号は偽札事件の通し番号。本物と見分けがつかないほどの精巧な偽札で、警察の捜査状況に応じて偽札にも改良が加えられていた。犯人は捕まらなかった。


・蒸発

 ある日突然、失踪してしまう人が、年間5000〜7000人はいるという。


・構造汚職

 政治・行政・産業・軍事などが結びつき、その関係自体が引き起こす汚職


ネズミ講

 天下一家の会という団体が、130万人の会員を集めて社会問題化。内村健一という首謀者が脱税容疑で逮捕された。


・なぜだ!

 三越百貨店の社長・岡田茂が叫んだ言葉。定例取締役会において、5件の議題がスムーズに片付けられた後、腹心の部下である杉田専務が「岡田社長の解任を提案します」と発する。茫然とする岡田を尻目に解任案は可決された。この議題については事前に会議参加者でリハーサルが行われていたという。


・セクシャル・ハラスメント

 この言葉が日本に浸透したのは、西船橋駅ホーム転落死事件がきっかけ。被害者がストリッパーという事実が、人びとの興味を集めた。

ポール・ウィリアムズ『フィリップ・K・ディックの世界』 ディックは病気

フィリップ・K・ディックの世界

フィリップ・K・ディックの世界

 


・自宅侵入事件を中心にしたインタビュー集

 1971年にディックは自宅の強盗被害に遭う。このインタビュー集はその自宅侵入事件が主なテーマ。ディックが、いったい誰が犯人なのかいろいろ推理する。

 このインタビューを読む限り、ディックは明らかに病気である。被害妄想が激しく、話している内容がどんどん飛躍する。本当にどうだったのかは分からないけれども、このインタビューを受けていたときのディックは明白に精神病を患っている。

 このインタビューが行われたのは1974年。自宅侵入事件の3年後であり、ディックは46歳である。2年前の1972年にディックは自殺未遂をしており、そのあとに薬物治療施設に入所している。1950〜60年代のディックは狂ったように小説を濫造していたが、1970年代になると急激に生産能力が落ち、作品の数が一気に少なくなる。その時期にはおそらく、精神的にも肉体的にも苦しい時代であったのだろう。

 そうした「苦しさ」は、当時の作品にも表れている。1974年刊行の『流れよわが涙、と警官は言った』と1977年刊行の『スキャナー・ダークリー』には、それまでの長編にはなかった憂鬱さがある。特に『スキャナー・ダークリー』は、ディックの実体験が多数盛り込まれていて、ドラッグによって精神が蝕まれていく様子が克明に描かれる傑作である。

 ただ、1970年代に、ディックが「おかしくなった」と言うのは正確ではない。ディックはもともとおかしい人間であり、1970年代になってそれがより顕著になった、というのが正しいと思う。おかしくなければ、5回結婚してそのすべてで離婚するなんてことはしないし、自分の名声を犠牲にしてまでも作品を粗製乱造したりはしない。彼の元妻たちの発言を聞いても、彼は「魅力のある人間」だが、しかし「一緒に暮らすのには耐えられない人間」だという。ディックは「破綻」を抱えて生きている人間だった。

 このインタビューは、そうしたディックの破綻を現に垣間見ることができる。自宅侵入事件について語る彼の言葉は偏執狂的で、彼の後期の作品(『ヴァリス』『聖なる侵入』など)にもつながるような神秘性がある。ディックはもともと夢見がちな作家という感じだったが、薬物の乱用や自殺未遂などを経て、その夢を現実と混同するようになったのではないか。後期の作品に見られる神学まがいの何かも、夢と現実とをついに区別できなくなったことに由来しているように思える。

アイリッシュ『幻の女』 幻の都市の雰囲気

 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』の感想。ネタバレあり。

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

・物語の作りは粗め

 サスペンスもの。冤罪で死刑を宣告された男スコットのために、真犯人を見つけるという筋書き。ただ作りは粗い。

 例えば冒頭、主人公が帰宅すると、刑事たちが部屋で待ち構えているけど、刑事たちは妻が殺されたことをどうやって知ったのか?

 また、真犯人はスコットの親友であるロンバートで、彼は「幻の女」の目撃者すべてを脅迫してその口を封じるのだけれど、一夜ですべての目撃者を探し出して脅迫するというのは非現実的。さらに、ロンバートはスコットの頼みを受ける形で新たな目撃者探しをするけど、その目撃者を殺す前に、わざわざ刑事を電話で呼んでいるのが謎。

 一番ずっこけるのは、「幻の女」が、事件後に精神に変調をきたして精神病院に収監されていました、というオチ。なんじゃそりゃ。

 

・「幻の都市」の雰囲気

 上で物語の粗さを指摘したけれど、アイリッシュの代名詞は叙情性。詩的な文章と劇的な構成が持ち味。なので、細部の粗は気にしてはいけない。

 この本の刊行は1942年で、当時はこういったエンタメ小説は読み捨てられる消費財。空き時間に読んで楽しめればそれで良しというものだったので、アイリッシュも細かい辻褄は気にしなかったのだろう。

 アイリッシュ作品はかなり読んでいるけど、粗を探せばキリがない。でも読んでしまうのは、戦前のニューヨークの雰囲気を味わえるような気がするから(あくまで「気がする」だけ)。実際のニューヨークがどうだったのかは知らないけれど、その小説を読むと、1920〜30年代の、高層ビルが次々に建てられていた華やかなニューヨークの中に身を浸すような感覚になる。

 といっても、実際のニューヨークはアイリッシュが描くような華やかな都市ではなかったろうし、アイリッシュは町の一風景を小説に似つかわしいように切り取っているのだろう。だから、アイリッシュの小説の中のニューヨークは幻想で、この小説のタイトル風にいえば「幻の都市」である。でもその幻の都市に住む孤独な人間たちの生きる様子が愛おしいし、ぐっとくる。

 

・しゃれた文章

 文章はしゃれていて、ときにカッコつけすぎにも感じる。でも次の文章などを読むと、鋭い人間観察の眼をもつ作家ということが分かる。引用は稲葉明雄訳より。

私室に入ると、正面の大きなデスクの向うに、肉づきがよくて、髪の赤い、中年のアイルランド女が腰をおろしていた。服飾デザイナーといった小粋な感じはどこにもなく、むしろどちらかというと、でっぷりした、だらしない印象のほうがつよかった。おそらく以前はキティ・ショウといった本名で、どこか裏街の安アパートにくすぶっていたのだろう。見たところ充分信用のおけそうな女だと、彼は察した。金儲けにかけては、たぶん魔法使いなみの手腕をもっていたにちがいない。ただ、それが身のほどしらずな成功だったため、このような不体裁なかっこうを人前にさらしているのだろう。第一印象としては、とても好感がもてた。

 

 死刑宣告前のスコットの語りもいい。以下、全文を引用。

「ぼくひとりだけが犯罪をおかさなかったと知っていても、みんなで口を揃えておまえがやったんだと言われて、ぼくになにを申し上げることがあるでしょう? それとも、ぼくの主張を聞いて、ぼくを信じてくれるような人が、どこかにいるんでしょうか。
 あなたはこれから、ぼくに死ななければならないと言おうとしています。あなたからそう言われれば、ぼくは死ななくてはなりません。ぼくは人並みに死を恐れていないつもりです。けれどもまた、同様に、死を恐れる気持も人並みにもっています。死ぬことはけっして楽ではありません、が、誤審のために死ぬのは、いっそう苦しいことです。ぼくは、自分が犯した罪のためではなく、誤った裁きのために死ぬことになるのです。およそ死と名のつくもののなかで、これほど苛酷な死はないでしょう。ですが、最後の時がきたら、ぼくは立派にそれを受けとめるつもりです。いずれにしろ、ぼくにできるのは、それだけなんですから。
 しかし、今こそぼくは、ぼくの言葉にまったく耳をかさず、ぼくの言葉を信じてくれなかったすべての方々に、はっきりと言っておきます。ぼくがやったのではありません。ぼくはやらなかったのです。どんな陪審によるどんな評決も、どこの法廷におけるどのような審理も、どこの電気椅子の上のどんな処刑も――たとえ世界中のどこへ行っても――やらなかったことを、やったとすることはできないのです。
 さて、裁判長閣下、ぼくにはもう判決をきく用意ができています。なんの心残りもありません」

 作家の筆が走りに走っているのが読んでいて伝わる。最高の場面なので、アイリッシュとしても力を入れて書いたのだろう。ぐっと身が引き締まるような気がする名文。