つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

『ソフトメタルヴァンパイア』 セクハラのシーンいる?


 『EDEN』『オールラウンダー廻』の遠藤浩輝の最新作。元素を操って戦うバトル漫画。設定は練られていて面白い。

 でも、「これ、いる?」というようなセクハラ場面が結構あって面喰らう。同じことは『オールラウンダー廻』でも気になった。

 男キャラがあまり親しくない女キャラに対してセクハラをする場面なんだけど、それが「男女のコミュニケーションの一種」みたいに描かれているんで気持ち悪い。そこだけ30年前の漫画みたいなノリ。『EDEN』の作者だし、Twitterを見ると割とリベラルな人なんだけど、どうしてこういう場面をわざわざ入れているのか、理由が気になる。

 ストーリーがシリアスになりすぎないように、「ユルさ」を出す意味で、そういう場面を入れているんだとしたら、まあ理解はできる。実際、『オールラウンダー廻』にも、ユルさを出したいがために、コミカルな場面や性的ハプニングの場面がちょいちょい入っていた。本作でも、ユルさを出すための手段として、性的ハプニングをちょいちょい入れているのだとしたら、そういうやり方でしかユルさを演出できないんだなということで納得できる。

 あるいは、この作者は、男と女が心理的な距離を縮めるためには、恋愛関係になる以外だとセクハラをするしかないと思っているのだろうか?

『音もなく少女は』 「愛の物語」に偽装された「ヘイトの物語」

音もなく少女は (文春文庫)

音もなく少女は (文春文庫)

 

 

 ボストン・テラン『音もなく少女は』の感想。ネタバレあり。

 

・愛の物語ではなく、ヘイトの物語

 この物語は、表面だけをなぞると「愛の物語」に見える。善良な人々が、悪意をもった男たちの攻撃にさらされて傷つきながらも、仲間からの愛に支えられ、最後には自由を勝ち取る。典型的な愛の物語に見える。

 でも、これは愛の物語ではなく、憎しみの物語であり、社会を覆う「ヘイト」の根源を内包している物語である。

 

・キャラの二極化

 この小説の構造のみを取り出してみると、イヴを中心に強い絆で結ばれたグループが、外敵の攻撃を受け、メンバーを失い傷つきながらも、たえず絆を再確認してより強く結ばれ、最終的には敵を排除し、社会的な地位を得る、という物語である。400ページを超える長編だが、書かれていることをとても単純化して言えば、「敵から攻撃されて、そのダメージを修復して反撃する」ことの繰り返しである。

 だから、登場人物も二極化している。「善良なグループ」と、それを攻撃する「敵」である。「善良なグループ」に属するのは、イヴ、クラリッサ、フラン、チャーリー、ミミ、ナポレオン、クウィーニー、ナタリーなど。そのグループを攻撃する「敵」は、ロメイン、ボビー・ロペスである。

 机の上を中央で区切って、右側に良いやつ、左側に悪いやつを並べるかのような、単純な対立構造である。良い世界と悪い世界とをはっきり区別してくれる親切設計であるとともに、悪を正義が討つ勧善懲悪の物語である。

 

・「社会による公正」ではなく「個人の正義」が優先

 小説の中で何度も強調されるのは、この社会は狂っているということ。本来なら罰を受けるべき人間が野放しになっていて、それを世間が疑問にも思わない状態が「狂っている」と主人公たちは言う。

 だから、イヴをはじめとするグループは、狂っている社会に背を向けて、自分たちの「正義」を優先する。クラリッサを殺したのはロメインで、チャーリーを殺したのはロペスだ。ただ証拠がないので、法は裁いてくれない。しかし、イヴたちは彼らが殺したことを「確信」している。彼らが殺したことは「間違いない真実」としてある。それなのに、社会は2人を裁いてくれない。そんな社会は馬鹿げているし、狂っている。

 たしかに、小説を読んでいる私たちにとっては、ロメインとロペスが殺したという事実は作中ではっきり語られているので、彼らの殺人は「真実」である。だからイヴたちの言い分も、読者である私たちにとっては正しい。

 けれども、作品の世界の中では、殺人の証拠はなく、真実は分からない。そんな状況で社会は裁きを下しようもない。真実を知っていると「思っている」のはイヴたちだけで、その真実というのも彼らの憶測に基づくものである。「あいつがやったに違いない」という憶測。

 「自分たちは真実を知っているのに、なぜ社会は裁いてくれないのか?」という怒りが、イヴたちを動かすし、その怒りがグループの結束を固める。けれどもこの怒りは、ヘイトとまったく同じものである。いま社会に蔓延するヘイト行為もまた、「世間の知らない、自分だけが知っている真実」のために、他者を断罪し攻撃する。

 だから、この小説は、イヴたちが愛によって仲間を守る物語ではなく、ヘイトによって他者を排除する物語なのだ。イヴたちは、彼らの憎しみによって敵を排除し、グループの結束を強化していく。その過程が、この作品では巧妙に隠蔽されて、絆によって結ばれた愛の物語として偽装されている。

 

・私刑の正当化

 これがもっともよく表れているのは、イヴによるロペス殺しである。社会がロペスを裁いてくれないので、イヴが個人の判断でロペスを裁く。イヴたちの「正義」が、ロペスに鉄槌を下すのだ。

 この私刑の正当化もまた、ヘイトに特徴的なふるまいである。ネット上での私刑行為は何度も繰り返されているが、その底にあるのは、社会が裁いてくれないから、その代わりに自分が裁くのだという勝手な正義感である。

 

・ヘイトは楽しい

 「ヘイトはいけない」と誰もが分かっているはずなのに、それでもヘイトが休みなく生産されているのは、ヘイトが楽しいからだ。ヘイトは快楽をともなうからこそ人をひきつける。本作のような、個人の正義を優先して私刑を正当化するような物語が、これ以外にもいくつも生み出されていくことは、その何よりの証拠である。

 ヘイトが楽しいのは、一つの「正義」を理由に敵を作り、その敵に鉄槌を下すことで、自分が有意義な行為を行っているという実感を得られるからである。正義を名目に人を攻撃できることほど気持ちいいことはない。しかもそれは、敵を自分たちの目の見えるところから排除することにつながるので、「正義」に属するグループの絆を再確認する行為にもなり、結束を強化する手段にもなる。場合によっては、社会的なステータスを手に入れることもある。例えば、この小説で、ロペス殺しで自首したフランが世間から同情され、共感を集めたように。

 ヘイトは快楽であり、だから広がっていく。麻薬のように。「愛の物語」に偽装された「ヘイトの物語」である本作が、それをよく表している。ヘイトは麻薬なのだ。

『何が私をこうさせたか』 不可解な人生を歩かされることへの困惑

 

・『不当逮捕』の記述

 本田靖春不当逮捕』の中に、朴烈事件の金子文子についての記述がある。『不当逮捕』を読んだ人は、この本も読みたくなるだろう。それくらい、『不当逮捕』の金子文子についての記述は心動かすものがある。

 私がこの本を読んだのは2017年7月。絶版だったので図書館で借りて読んだ。

 だがなんと、2017年12月に岩波文庫で復刊。「どうしてこのタイミングで?」と思いながら買った。

 そして今日、新聞で『金子文子と朴烈』という映画が公開されていることを知り、驚く。この映画、2017年6月に韓国で公開されている。岩波文庫から復刊されたのも、たぶんこの映画を受けてのものだったのだろうと今になって思う。

 

金子文子の「自伝」

 大正前後の日本は男性中心社会で、女性のライフコースとしては男性と結婚して子どもを産み家庭を築くのが主流だった。では、そのコースから外れた女性たちはどうなったのか? それを語るのが金子文子の「自伝」であるこの本である。

 あくまで手記であり、個人的な記録である。だからこれを安易に一般化することはできないのだが、それゆえに生々しい。なんて悲しい記憶なのだろう。この本を読んで胸につきあげるこの悲しみをどうすればいいのだろう。

 そしてこれを読んで思うのは、金子文子のように、疎外と抑圧の中で生きた人間というのは他にも結構いたであろうこと。でも、こうした手記を書けるのは、自分の経験を客観視する能力をもち、かつそれを言語化できるだけの能力を持つ人だけ。金子文子にはそれがあった。

 金子文子は23才で自殺している。この自伝や、彼女が判事の立松懐清に語った言葉を読む限り、彼女にとって人生とはただ苦しみばかりに満ちた不可解なものだっただろう。この自伝全体から感じるのは、そうした「不可解」な人生を歩かされることに対する、金子文子の困惑である。

 以下は、この手記のなかで最も印象に残った一節。

 でも私は何といっても子供だった。そんな苦しい目にあっていても、やはり外に出て遊びたかった。ある日も私は近所の子供と附近の土手下で遊んでいると、そこへ母がひょっくりと大儀そうな足どりでやって来て、私を呼びとめた。

 「なあに母ちゃん」と私が答えると母は力のない声で、そこいらに鬼灯の木がないかと訊いた。子供は親切である。みんなしてそこいらを探してくれた。そして容易にそれを直ぐ側の橋の下にあるのを見つけた。中にはとっくからそれを知っていて、それの大きくなるのを待っているものもあったのだが、自分でそれをひっこ抜いてくれた。

 「有りがとう」と母は言って、根もとからぽっきりと折って根を袂の中に入れて帰って行った。

 その夜私は、その鬼灯の黄色い根だけが古新聞にくるまれて、部屋の棚の豆ランプのわきに載せてあるのを見た。

 今から察すると、母は妊娠していたのだ。鬼灯の根で堕胎しようとしたのだ。

 

『食糧人類』 楽しいスプラッターSF

食糧人類?Starving Anonymous?(1) (ヤングマガジンコミックス)
 

 
 完結したので感想。全7巻。ネタバレあり。

 

 

・SF+スプラッター

 『2001年宇宙の旅』や『星を継ぐもの』といった伝統的なSFの要素を盛り込みつつ、ホラー風に味付けしたカオス作。

 最初の第1・2巻はスプラッター全開で、気持ち悪い怪物に人間が食われる場面は『GANTZ』っぽい。こういう怪物+スプラッター系の漫画を見るたびに、『GANTZ』の影響ってめちゃくちゃ大きいんだなあと思う。

 ただ読み進めていくと、単なる『GANTZ』フォロワーではないことは分かる。スプラッターは漫画としての味付けで、底にある設定はSF。そこに半分ギャグのような悪趣味で極端な展開が乗っかっている。

 ご都合展開ありまくりなので、粗を探そうと思えばいくらでも出てくるだろうけど、これはあくまでエンタメ漫画なので楽しめればそれでいいと思う。実際、エンタメ漫画としてはいろいろ工夫されていて、読んでて楽しかった。

 

・良いところ

①山引とかいうマッドサイエンティストのキャラが強烈

 マッドサイエンティストって使い古された人物造形だけど、山引のマッドさはかなり尖っている。たぶん作者の趣味の悪さが存分に生かされている。科学的な妥当性とか一切考えずにメチャクチャやってるのが面白い。山引が結婚した有希という女性に、猿のDNAを注入して人間と猿の合の子に変えた場面なんて最高。

②漫画としての表現力が高い

 単に絵が今風なだけでなく、漫画としての見せ方もしっかりうまい。イナベカズさん凄い。アングルが凝っていて飽きないし、映画的な演出もあったりして楽しい。

 

・悪いところ

①主人公のキャラが弱い

 話を引っ張っていくのは、天才科学者の山引と「増殖種」のナツネの2人。この超人2人に対して、主人公の伊江はごく普通の高校生。山引とナツネの異常さを引き立たせるために主人公はあえて普通にしているんだろうけど、そのせいで主人公の影が薄い。ついでに主人公の親友のカズはもっと薄い。主人公にもっと魅力があれば、ラストの葛藤がもっと生きたんでは。

②怪物がただ気持ち悪いだけ

 人間を食う怪物がただ気持ち悪いだけで、ヒールとしての個性に乏しい。怪物に悪役としてのかっこよさみたいなものがあれば、怪物狩りがもっとワクワクするものになったと思う。

STAP細胞事件の「なぜ?」を考える

・なぜ小保方氏はいまだに注目されるのか?

 小保方晴子氏はSTAP論文不正事件のあと、2冊の本を出している。『あの日』と『小保方晴子日記』である。本を書くだけでなく、瀬戸内寂聴と対談したり、グラビアを撮ったりもしている。今でも、彼女がなにかするたびに、世間はざわつく。まるでスターのようだ。

 いまだに小保方氏が世間の注目を集めるのは理由がある。それは、STAP事件の「真相」が、まだ明らかになっていないから。

 たしかに、「論文がいかに捏造されたか?」は調査によってある程度は明らかになり、一応の決着はついた。でも、「ではどうして捏造行為をしたのか?」という肝心のところは隠れたままである。

 肝心の謎が明かされていないから、いまだに小保方氏は世間の注目を集める。ひょっとしたら小保方氏が「なぜ?」への答えを語るのかも、と人は期待するからだ。「なぜ?」への答えを持っているのは小保方氏ただ一人なので、彼女の言葉には価値がある。

 でも、小保方氏が「なぜ?」に答えることは絶対にない。なぜなら彼女はSTAP現象を本気で信じていて、不正を不正だと認識していないからである。彼女にとってSTAP現象はまったき真実で、その真実に至るための道筋が少し歪んでいたことは些細な問題に過ぎないのである。だから、彼女は「なぜ?」への返答を期待する人々を横目にみつつ、核心からずれたゴミ同然の情報を供給してお金を稼ぎ、自尊心を満たし、しばらく姿を消す。

 以上の理由から、小保方氏に「なぜ?」の答えを期待してもしょうがない。本人しか分からないことを本人が語らないのだから。よって、このもやもやとした感情に片をつけるために、「なぜ?」について可能な限り推測してみることにする。というわけで、以下は、STAP論文をめぐる「なぜ?」についての、私の推測である。

 

・「STAP細胞」はどのように生まれたのか?

 小保方氏は2008年の夏から約1年間、ハーバード大のチャールズ・バカンティ教授の研究室で「胞子様細胞」の研究を始めている。胞子様細胞とは、バカンティが2001年の論文で唱えた仮説である(ただし、その存在は確認されていない)。この胞子様細胞が、STAP細胞の着想元であり、胞子様細胞の延長上にSTAP細胞があると考えてよい。実際、STAP論文の共著者として、チャールズ・バカンティとその弟のマーティン・バカンティ、小島宏司(バカンティの研究協力者)の3人の名前がクレジットされている。

 バカンティたちは「胞子様細胞」の存在を信じて、10年以上にわたって研究を続けている。ただ、上述のように、この細胞は仮説にすぎず、論文でその存在を証明できてはいないし、存在を示すようなデータもない。だが、バカンティのもとで学んだ小保方氏は、胞子様細胞の仮説をもとに、STAP細胞のアイディアを思いつき、それを「信じた」。

 私は、この「信じた」という部分が、STAP騒動の核心だと思う。彼女はSTAP論文の不正が認定されたあとに開いた記者会見で、記者の質問に答える形で「STAP細胞はあります」と発言した。この言葉は、正確な言葉に言い直すなら、「STAP細胞はあると私は信じています」だろう。小保方氏はずっと、STAP細胞の存在を信じていた。だから、記者会見で臆することなくあの発言ができたのだし、論文の不正も行えた。信じていたからこそ、不正をしたのである。

 小保方氏が、STAP論文での不正の認定後も、また博士論文での不正の認定後も、悪びれることなく常にSTAP現象の存在を主張できたのは、その存在を本当に信じていたからだ。論文における不正も、彼女にとっては、「悪意によるもの」ではなかった。なぜなら、STAP細胞は「ある」のであり、それを証明する方法がいくらか歪んでいたとしても、「ある」という事実に変わりはないからである。証明する手段が不正か否かは小保方氏にとっては重要ではない。「ある」という動かしがたい事実の前では些細なな問題である。だから彼女は、悪気なく、あくまでも「ある」という真実に至る方便として、実験結果を捏造し、画像に手を加えた。

 小保方氏はSTAP細胞を信じていたから不正ができたのだし、今でもその姿勢に変わりはないはず。彼女は論理よりも信仰を重視するスタンスであり、その点でアンチ科学者である。だから、小保方氏は科学的な真実を求める科学者というよりも、STAP細胞を無条件で信じる宗徒というのが現実に近い。

 普通であれば、そんなアンチ科学者の研究が表舞台に出てくることはない。トンデモ学説はたいてい地を這いつくばるものだ。しかし、STAP事件で特殊なのは、そんなトンデモ学説がみるうちに出世して正統性を獲得し、ついには「世紀の大発見」として理研から世界へ発表されたことである。

 なぜ、数多あるトンデモ学説の1つにすぎないSTAP現象が、ここまでの信頼性を獲得しえたのか?

 

・なぜSTAP細胞はあれだけ注目されたのか?

 STAP現象を信じた小保方氏は、一流の研究者を味方に引き込むことで、信頼性を獲得していった。1人目が若山氏、2人目が笹井氏である。ともに理研所属の研究者であり(若山氏は後に山梨大へ移動)、世界的に名前が知られている。

 小保方氏はまず若山氏に接触して、共同研究を提案する。若山氏はこれを快諾し、小保方氏は理化学研究所のCDB(発生・再生科学総合研究センター)の客員研究員となって、STAP細胞の研究に携わることになる。そこでの研究成果を論文にまとめ、2012年の4〜7月、3大誌(ネイチャー、セル、サイエンス)に立て続けに投稿するが、すべてで不採択。ちなみに、この最初の投稿の時点で、査読者から論文内の画像に不適切な修正があるという指摘をすでに受けている。

 不採択の結果を受け、2012年12月、小保方氏は笹井氏に接触する。笹井氏は論文執筆能力の高さに定評があったので、主に論文執筆でサポートを受けた。こうして修正されたSTAP論文は2013年3月、ネイチャーへと再投稿される。査読コメントに基づく2度の改訂を経たあと、その年の12月に無事採択され、2014年1月に雑誌に掲載された。

 この経緯を見ると、若山氏と笹井氏の2人が、STAP現象の正統性獲得に大きく貢献している。この2人の責任はきわめて大きい。STAP現象の中身が空っぽであることを見極めることができなかった2人は、いわばSTAP事件の共犯者と言える。実際この2人は、STAP事件がもとでそれぞれ所属先から責任を追及されることになる。

 ただ付言すると、若山氏は、小保方氏との共同実験で一度だけ成功したあと、小保方氏抜きで何度も追試を繰り返している。だがすべて失敗していて、STAP論文が掲載される時期にはかなりの焦りがあったという。論文の著者であるにもかかわらず、実験を再現できていないからである。しかし、この「追試が成功しない」という実体験があったからこそ、いちはやくSTAP論文の危うさに気づき、共著者の中で最初に論文撤回に動き出すことができたとも言える。

 一方で、笹井氏は、小保方氏の論文執筆をサポートし、STAP論文をネイチャー掲載へと導いた。なぜ笹井氏は、小保方氏を信じたのか? これは当時の理研CDBが置かれていた状況を考える必要がある。

 理研CDBの研究予算は年々減額されていた。理由は、CDBの主任務は基礎研究であり、再生医療のような応用研究に比べて重要性が低いと評価されたためである。CDBの副センター長であり、予算獲得の任にあった笹井氏は、基礎研究の重要性が理解されない状況を嘆きつつも、一方で減らされるばかりの予算を増額するアイディアを考える必要があった。

 そこで出会ったのがSTAP細胞である。STAP細胞再生医療に役立ちうる将来性を持っていたので、予算獲得にはうってつけの素材だった。CDBはあくまで基礎研究がメインだが、「再生医療に役立つ」研究を行うと打ち出せば、巨額の研究予算獲得につながる。だから、CDBは小保方氏を特別措置で研究ユニットリーダーとして抜擢し、STAP細胞の発見者としてメディアに売り込んだ。このあたりの経緯は、『捏造の科学者』に詳しい。

捏造の科学者 STAP細胞事件 (文春文庫)

捏造の科学者 STAP細胞事件 (文春文庫)

 

  つまり、小保方氏と笹井氏のつながりは、両者にとってメリットがあった。小保方氏としては、論文を採択してもらうために、笹井氏のノウハウと知名度を利用できた。一方で笹井氏も、CDBの予算獲得のために、STAP細胞という分かりやすい研究成果を得られた。小保方氏が笹井氏を必要としたように、笹井氏にもまた小保方氏が必要だったのである。だから笹井氏には、STAP細胞を「信じる」下地があった。その下地が笹井氏を盲目にして、STAP現象が空洞であることを隠してしまった。

 その結果、STAP細胞は、多数のメディアを招いての記者会見で大々的に発表されることとなる。この記者会見には笹井氏のバックアップが相当にあったようで、メディアに配布する資料も笹井氏自らが作成に関わっている。その資料では、iPS細胞と比較してSTAP細胞がいかに優秀かをイラスト付きでアピールしていた。

 

STAP細胞は宗教である

 こうして見ると、STAP論文をめぐる一連の騒動は、宗教が普及していくプロセスによく似ている。バカンティという本山から、一人の信徒(小保方氏)が独立して「STAP教」を開き、権力者(理研、若山氏と笹井氏)を取り込んで一気に信徒を獲得する。だが、「既得権益を守るのに必死な権力者たち」(メディア、理研、科学界)が、STAP教の神(STAP細胞)の存在を否定し、信徒たちを弾圧したことで、勢いは衰え、組織は瓦解し、STAP教を支えた1人の信徒は無念の自死を遂げた。

 けれども、開祖である小保方氏の言葉は、いまだに一部の人々の心をとらえて離さない。理性ではなく感情に訴えかける開祖の言葉を信じる人々はまだ一定数いる。それはどういう人かというと、彼女のカリスマ性なり容姿なり振る舞いなりに魅了された者、もしくは、メディアや政府がひた隠しにしている「真実」を自分だけが知っているという優越感に浸りたい馬鹿である。

 小保方氏は神の存在を真摯に訴え続け、その姿に心打たれた人々が新たな信徒となって彼女のもとに集まってくる。開祖は今は権力によって弾圧されて活動を制限されているが、ときどき世間の前に姿を現しては、信徒にありがたいお言葉を授けてくれる。

 小保方氏の著書『あの日』と『小保方晴子日記』2冊が、やけに詩的な文体で書かれていて、かつ作者のパーソナルな部分がふんだんに盛り込まれているのも、それが開祖の「言行録」であると考えると納得できる。信徒はその言行録を読み、彼女の人生を追体験することで、より信仰を深めていく。いま小保方氏が小説を書いているというのも、なるほど納得である。彼女の小説はきっと、一人の女性が「奇跡」を実現する物語になるのだろう。

 

 以上が、STAP事件についての、私なりの妄想である。事実の中に推測を混ぜて書いているので、あくまで想像の域を出ない。でも、最初に述べたように、小保方氏自身の口から真相を聞くことは絶対にないので、自分のなかのもやもやした感情は、このような妄想で片づけるほかない。

 とりあえずこの妄想で納得しておけば、今後、もし小保方氏がさらに何か行動を起こしても、暇を持て余した開祖のお戯れとして、笑って聞き流すことができる。

市橋達也『逮捕されるまで』 強烈な自己愛

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録

 

 

 市橋達也の手記。市橋はリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の犯人であり、2009年11月10日に逮捕され、2012年4月に無期懲役が確定し、収監されている。

 いまさらこれを読んだのは、市橋達也が逃走中に自らの手で整形手術を行ったこと、大阪の飯場で働き、稼いだ金で沖縄の島に滞在する生活を繰り返していたこと、ディズニーランドに一度行っていることなどをインターネットで知ったため。自分で整形をしたという事実からは「絶対に捕まりたくない」という覚悟を感じるが、それはディズニーランドへ行くという行動と矛盾する。どういう人間なのか興味が湧いたので読んでみた。

 

・「手記」としての真実味

 ところどころに直筆の絵があるのだが、その描写がかなり細かい。工事の作業過程をメモつきで詳しく描いている。

 こういった本はどれだけ本人が書いたのか疑わしいものが多いが、この絵を見る限りでは、市橋達也本人がかなりの程度、この本に関わっていることが分かる。少なくとも、ゴーストライターが書いたデタラメの本でない。

 

・逃げ切ってみせるという自信

 逃走中に、市橋達也はなぜか英語の学習をしている。『ライ麦畑でつかまえて』や『ハリーポッター』の原書を買って読んだり、TOEICTOEFLの単語集のリスニング音声を聞いたり、DVDプレイヤーで映画を英語字幕で見たりしている。

 こうした学習行為は、未来への希望が少しでもないとできないはず。単に暇つぶしがしたいのであれば、英語学習以外のことを選ぶだろう。市橋達也は「逃げ切れる」という自信があったに違いない。

 逃げ切るということが彼にとっての希望で、だから細心の注意を払っている。自分で整形するのもそうだし、警察の気配を感じたら住処を捨ててすぐに逃げるのもそうだ。

 英語学習は被害者のリンゼイさんとつながりが深い。市橋達也が本当にリンゼイさん殺害を後悔しているなら、英語学習を続けようとは思わないだろう。にもかかわらず逃走中に英語を熱心に学んでいるあたり、普通の人間ではないことが分かる。

 

・強烈な自己愛

 市橋は逃走中の多くの時期で、大阪の飯場で肉体労働をして過ごしていたが、そこで同僚と喧嘩をする場面がある。その喧嘩は事務所の人の仲裁が入って止められ、あとで相手に謝罪することになった。でもそのあと、「悔しくなって涙が止まらなかった」、という記述がある。喧嘩をして謝ったくらいで泣くというところに、プライドの高さが表れている。

 そして市橋達也は、「自分が他人にどう見られているのか」を異常なほどに気にしている。彼は自分が新聞やテレビでどう報道されているのかを細かくチェックしていて、ときにはコンビニのデタラメな内容の本も読んでいる。たしかに、逃走を続けていくうえで自分の情報が世間にどれだけ流れているかを調べるのは重要なのかもしれない。だが、わざわざコンビニの駄本にまで目を通す必要はないはず。また、彼はテレビで自分について芸能人がどんな発言をしたかをよく覚えていて、ビートたけしテリー伊藤が言及したセリフを手記に記してもいる。捜査情報とは別の部分で、「自分が他人にどう見られているのか」について異常に警戒している。

 中でもこれが強く表れているのは、「ゲイ」疑惑についての記述である。市橋達也は逃亡中、自分を特集するテレビの中で、「市橋達也は新宿の歌舞伎町で、ゲイ相手に体を売ってお金を稼いでいた」というデマを目にする。これに対する彼の反応は以下である。

 この番組を見て僕は部屋で固まっていた。とても混乱した。

 いったい、こいつら何を言っているんだ!?

 僕はそんなことしてない!

 そんな所に行っていない!

 たとえ生きるためだって、そんなことをするぐらいなら僕はもうとっくに死んでる!

 テレビが放送したことはうそだ。僕はそんなことしてないって言いたかった。でも逃げている僕が電話できるわけがない。やっぱり犯罪者には人権などないんだと思った。逮捕された自分の姿を想像した。こんなデタラメを全国に放送されて、逮捕されれば、人は僕を奇異の目で眺め、さらしものにするだろう。刑務所でどんな目にあわされるかわからない。

 想像することをやめた。絶対に捕まるわけにはいかない、と思った。誰がこんなシナリオを書いたのか。大声でしゃべり続けている番組の司会者が憎かった。

 僕は性的倒錯者じゃない。

 本当は、こんな話は口にするのも嫌だ。でもやってもいないことでさらしものになるのは耐えられない。 

 手記は全体的に淡々とした記述が続いているが、この箇所だけ感情的な文章になっている。ビックリマークを4回も使って当時の動揺を表現しているから、ここはまさに彼の本心そのものなのだろう。

 逃走中にもかかわらず、市橋達也は「自分が他人にどう見られているか」を異常なほど気にしている。「こんなデタラメを全国に放送されて、逮捕されれば、人は僕を奇異の目で眺め、さらしものにするだろう」と書いているが、彼は自分の殺人よりも、ゲイと思われることに羞恥を感じている。彼にとっては、人を殺すことよりも、他人にゲイと思われることが恥ずかしいのだ。逆に言うと、彼にとって「殺人」はそれほどの重みのある行為ではないということでもある。

 他者の目線に対する異常な執心は、強烈な自己愛の裏返しである。ここからさらに考えると、市橋達也が逃走中に整形を繰り返したのも、単に顔を変えて人相をごまかすという理由のほかに、もともと自分の顔にコンプレックスがあって、逃走を機に顔を変えたという風にも思える。逃走してすぐに自分の鼻を針で整形したのも、おそらく以前から自分の鼻に不満があったんではないか。

 市橋達也がこの本を書いたことも、自分をどのように見てもらいたいか表現するためである。「ゲイではない」と感情的に書いているように、彼はすでに捕まっている今でも他人の目を執拗に気にしている。四国の遍路の旅が、リンゼイさん殺害の「贖罪」のためだったと言っているのも後付けの理由だろう。

 この本から読みとれるのは、作者の強烈な自己愛と、それを隠して、「罪と罰のあいだで揺れ動く人間らしい自分」を演出する狡猾な殺人犯の姿である。

宮本常一『イザベラ・バードの旅』 地方に住む人々の話

 

 イギリスの女性イザベラ・バードは、1878年に日本を訪れ、その顛末を『日本奥地紀行』に記した。本書は、そのバードの著書をを手がかりに、宮本常一が地方に生きる人々の様子を語る講義録である。

 イザベラ・バードの旅は、東京から始まり、日光・新潟を経由して、最終的には北海道へと至る。伊藤という名前の通訳一人を従えての長い旅だった。その旅に寄り添うようにして、宮本常一が昔の日本の風景について論を展開していく。

 『イザベラ・バードの旅――『日本奥地紀行』を読む』という題名からすると、バードの『日本奥地紀行』の解説本のように見える。だが実際には、『日本奥地紀行』を一つの手がかりとして、宮本常一が「地方に住む人々」の姿を縦横無尽に語っている、というのがその内容に近い。宮本常一の豊富な調査経験がよく表れた本だし、講義録だけあって非常に読みやすい。

 以下、印象に残った箇所をスクラップ。

 

・「浅間山」は富士山のこと(p. 16)

 昔は富士山のことを一般に「せんげんさま」と言っていた。その影響で、関東平野には「浅間山」という名前の山がたくさんある。

 

・昔の日本は蚤がものすごくいた(p. 47)

 昔の日本では蚤に食われるのは当たり前のことだった。「ねぶた」(ねぷた)祭りはもともと「ねぶた流し」が始まりで、夏の夜は蚤に食われてなかなか眠れないので、その眠気を流してしまおうという催し。

 長らく日本人を悩ました蚤だが、戦後に殺虫剤DDT普及により一気に姿を消した。

 

・スリの話(p. 60)

 向井潤吉(1901-1995)という画家の子どものときの話。京都に住んでいたとき、旅をしたいと思って家出をした。名古屋あたりで一人の男と仲良くなった。男は「実は俺はスリなのだ」と言う。向井さんは自分のお金をとられると思って警戒するが、男は「俺だってお前のお金をとろうとは思わない。それでも心配なら、マッチ箱に札をたたんで入れて枕元に置いておきなさい。それはスリでもとらないから」と言ったという。実際にそうしたらお金はとられなかった。スリの世界にも不思議な道徳があったという話。

 

・田舎の人たちは不潔だった(p. 87)

 田舎の人たちは着物をめったに選択しなかった。繊維が弱く、破れやすかったため。また、着物の数も少なく、いつも同じものを着ていることが多かったので、不潔な状態が多く、それが元で病気になることもあったという。

 

・流れ灌頂(p. 122)

 昔は、妊娠中もしくは出産中に死ぬ女性が多かった。そうした女性を悼むために、「流れ灌頂」という供養をした。水辺に4本の棒を立てて、その上に布をしき、道行く人に柄杓で水をかけてもらう。布が破れたり、布の色が消えるまで水をかけないと、女性は極楽にいけないとされる。子どもを抱えたまま死ぬとなかなか極楽にいけないという言い伝えによる。宮本常一が日本を旅していたときにも、流れ灌頂をよく見かけたという。

 

・性病と盲(p. 163)

 江戸中期頃から、性病がもとで盲になる人が増えた。淋菌が目に入ると、盲になることが多い。売春婦や、その子が盲になった。東北のある漁村で、盲の人間が多い場所があったが、それは性病が原因。