つやだしのレモン

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『誰も語らなかったジブリを語ろう』 芯のある物語はそんなに必要とされているのか?

 

 

 批判することがタブー視されているジブリを、真正面から語ってみようという本。だから、批判できるところを探して批判する、という形になる。というわけで、どうしても批判は粗くなる。

 

 押井さんの批評のベースにあるのは、「宮崎アニメはキャラクターが描けておらず、一貫した物語が描けていない」という点。人物の行動理由を表現しきれていないので、話に脈絡がなく、点と点をつなげあわせたような内容になっている。だから観客が人物に共感できず、話にも入っていけない、と言っている。

 

 一方で、宮崎駿はアニメーターとしては天才だと述べている。人物が描けていないのに、それでもアニメがヒットするのは、宮崎監督の徹底したフェティシズムの賜物だという。優れた映像感覚と、それを表現するセンスが抜群だからこそ、観客の目をひきつけて離さないような映像を提供できているのだと。それは宮崎駿のような傑出したアニメーターだからこそできること。

 

 このように、押井氏は宮崎駿のアニメーターとしての実力は認めつつも、脚本を書く才能は上述のように酷評している。とりわけ人物の描き方に文句をつけていて、だからその作品には構造がない、つまり人物の行動に理由がないので読者が共感できず、物語に芯が通っていないと言う。

 

 だが問題は、観客は押井氏が言うほど、構造のしっかりとした物語を観たがっているのか?ということ。押井さん自身は自分をエンタメ作家だと言っていて、作家性を封じて観客の求めるものを作っていると述べている。そして、押井さんにとっての「観客の求めるもの」とは、共感できるキャラクターと、芯のある物語である。だから、宮崎アニメの批判点は、キャラクターの描写が甘く、物語に脈絡がない、というところになる。

 

 ただ、押井さんの評に反して、これだけジブリ映画がヒットしているという事実から考えるに、「芯のある物語」が作品に本当に必要なのかどうかは疑わしい。押井氏が自分をエンタメ作家と規定のであれば、エンタメ作品として空前の成功を収めているジブリ作品の「芯のなさ」を批判の拠り所にするのは矛盾しているように見える。

 

 ただ、押井氏の言いたいことも分からなくはない。というか、むしろかなり共感できる。ポストモダン文学が一昔前に流行して「脈絡のない物語」がウケた時代があったけれど、でもそのブームが一段落したときに結局、作り手が一番納得できるのは「共感できるキャラクター」を作ることだ、という本音は、たしかに核心をついている言葉だと思う。

 

 でも、作り手の意識はそうであっても、観客が求めているものはそうではない、というのが実情で、だからジブリアニメがエンタメとして普及しているというのが事実なのだろう。観客はもう完成された物語など求めていなくて、作り手のフェティッシュな部分をさらけだしたような表現を求めているというのが本当に近いのだろう。キャラクターに共感するとか、話に一貫性があるといったことはすでに求められていなくて、どれだけリアルにキャラが食べ物を食べるかとか、色鮮やかで儚さもある風景などを求めて、観客が映画館に通っているのだとしたら、そうした観客の傾向をとらえた映画作りをしている宮崎駿は、むしろ傑出したエンタメ作家だといえる。