つやだしのレモン

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『シェイプ・オブ・ウォーター』 オスカー狙い、あるいはデル・トロのオタク性

 ギレルモ・デル・トロ監督『シェイプ・オブ・ウォーター』(2018年)の感想・批評。

 

・デル・トロの作家性

 文春オンラインの『「シェイプ・オブ・ウォーター」は、インテリぶるには格好の映画だ』という批評、記事のタイトルは目を引くために大げさにしているが、書いてあることは非常に鋭い。『シェイプ・オブ・ウォーター』についての批評はいくつか読んだが、この批評記事が一番この映画の本質をついていると思う。何より、言葉の端々にデル・トロ愛が感じられるのがいい。

 この記事曰く、『シェイプ』は「今の映画人のスタンスを問う踏み絵」でありながら、かつ「デル・トロの個人的な葛藤を投影した映画」でもある、という。

 前者は言い換えれば、リベラルな映画人たちが好みそうなテーマを多数取り上げているということ。主人公たちはみなマイノリティーで社会的弱者であり、主人公たちの敵であるストリックランドは多数派側で権力を振りかざす大悪人である。「マジョリティーの暴力に反抗するマイノリティー」という分かりやすい物語は批評家に受けがよく、アカデミー賞の受賞作としてもふさわしい。

 後者はデル・トロという監督の作家性に踏み込んだ視点である。デル・トロはこの『シェイプ』や『パンズ・ラビリンス』のような人間ドラマも撮るが、一方で『ヘル・ボーイ』や『パシフィック・リム』のようなエンタメ大作を作れる監督である。それは彼が根っからの怪獣オタクであり、そのオタク性を映画として表現するのに長けた作家だからである。

 作家として優れた才能をもつ彼は一方で、オタクとしての劣等感を抱えている、と記事は指摘する。今でこそ『パシフィック・リム』のような映画で世界的な名声を手にしてはいるが、デル・トロの中には、怪獣オタクである自分の「未熟さ」「幼稚さ」(immature)を引け目に感じる部分があり、それが『パンズ』の大尉や『シェイプ』のストリックランドに表れているという。つまり、大尉やストリックランドは、「大人になりきれない」デル・トロを叱る「まっとうな大人」なのだと言う(実際、maturityは欧米ではかなり重視されているように思う。人を非難するときに「あなたはmatureではない」という言葉はよく使われる)。

 言われてみれば、『パンズ』と『シェイプ』はよく似た映画である。マイノリティの主人公が、権力の象徴である大人たちによって抑圧されながらも、なんとかそこから逃げ出そうとする、というのが物語の骨格になっている。

 その骨格の中で、デル・トロの個人的な問題が強く投影されるのは、自分を抑圧しようとする「大人」である。『パンズ』の大尉も、『シェイプ』のストリックランドも、強烈な個性をもつキャラクターとして主人公の前に立ちはだかる。彼らの存在感は主人公をはるかに凌いでいる。といってもそれは当たり前で、デル・トロにとっては彼らのような大人こそが憎き相手であり、映画の中で倒すべき敵だから、いくらでも肉付けができるのだ。しかし一方で、その大人たちが「矯正」しようとする主人公たちには、あまり魅力がない。強烈な「大人」がまずあって、そこから逆算するようにして「主人公」の肉付けがされるので、どうしても作りもの感がでてしまうからだ。抑圧する相手がまず存在して、そこから逆算する形で抑圧される主人公が作られている。だから、「大人」が明確な個性とリアリティーを備えているのに対して、その相手となる主人公たちは影の薄い存在にならざるをえない。

 こうした理由から、上の記事では、『シェイプ』が物語としての力に欠けていると言う。ストリックランドの強烈な個性に対して、主人公たちは「マイノリティ」のステレオタイプの枠内に収まってしまっており、したがって物語としての面白みが生まれていないと。この指摘は、デル・トロという映画作家の特徴をずばりと言い当てているように見える。『シェイプ』が、映画としてきれいにまとまってはいるが、しかし単なる優等生的な映画にも見えるのは、こうしたデル・トロの作家性に基づく部分が大きいだろう。

 けれども記事ではデル・トロの作家性が爆発することに期待している。最後のセリフは、デル・トロ愛に溢れていてとてもいい。

「オレは『シェイプ・オブ・ウォーター』は『前向きの失敗作』やと思う。いつの日かデル・トロは、『今度こそファンタジーの力で現実を打ち負かす』ために、もう一度同じモチーフの作品作りに挑戦するんやないやろうか。宮崎駿作品もそうやと思うけど、作り手が何度も何度も同じテーマ・モチーフに挑戦し、挫折を繰り返しつつも作品を深化させていく様を見守り続ける。それも映画を観る大きな喜びのひとつであり、観る側の教養にもなっていくと思うんや」

 

・『シェイプ』は結局ファンタジー

 以下では、小石氏の見方とは別に、私がこの映画をどう考えたかを書く。

 まず、この映画に対する私の感想を一言にまとめると、「誠実だが、退屈な映画」である。退屈に感じた理由は2つある。1つは「ストーリーが勧善懲悪であること」、もう1つは「マイノリティというテーマが物語の中で消化されていないこと」。

 1つ目の「勧善懲悪」は単純である。『シェイプ』は明確な勧善懲悪物語になっている。主人公たちは社会の弱者を代表する人々であるのに対して、それを抑え込もうとするストリックランドは悪の権化である。

 悪に対して正義が団結して対抗するという構図は物語に安定感を与えるが、しかしそうした単純な二分法が浮世離れしていることは言うまでもない。マイノリティがみんな善人で、マジョリティがみんな悪人かというと、そんなわけはないのだ。例えば2016年のアメリカ大統領選でトランプが勝利したとき、トランプ支持者たちには「移民を毛嫌いする保守的な白人」というレッテルが貼られたが、実際にはトランプ支持者たちも多様で、様々な人が色々な理由でトランプを支持していた。ヒラリー支持者が多様であったように、トランプ支持者たちも多様だったのだ。

 人間を善と悪とに分けることができたらどんなに楽だろうと思うが、実際の社会はそんなに単純ではないし、単純ではなく多様であるからこそマジョリティとマイノリティという区別が存在する。そして、Netflixドラマ『13の理由』が伝えているように、マイノリティだからといって常に社会的弱者として抑圧されているわけはなく、人は所属するコミュニティの中で様々に立場を変えているのだ。

 ただしこれは、勧善懲悪な映画が社会を単純化しすぎているから、すべてつまらないと言っているわけではない。勧善懲悪の映画にも傑作はある。例えば『マッドマックス 怒りのデスロード』(以下『マッドマックスFR』)がそう。『マッドマックスFR』は明白な勧善懲悪の物語ではあるが、映画としては最高に面白い。それはなぜかといえば、映画ではマイノリティの問題が物語としてしっかりと消化されていたからだ。

 ここで、『シェイプ』が退屈だった理由の2つ目に話がつながる。『マッドマックスFR』がマイノリティの存在をうまく物語の中に取り入れて消化しているのに対して、『シェイプ』はそれを中途半端な段階で放棄している。『シェイプ』では、主人公たちに「女性」「発話障害者」「ゲイ」「老人」「黒人」など様々なマイノリティのラベルが貼られており、その点で現代社会の諸問題をきれいに投影しているのだが、しかし彼らの問題は映画内では何ら解決されることなく、あくまで物語は個人の物語として終わってしまう。

 悪の権化であったストリックランドは、覚醒した半魚人の切り裂きによって虫の息となる。主人公のイライザと半魚人は、最後には人間社会を離れて、自分たち2人だけの世界へと旅立っていく。彼らは「恋」の魔法で2人だけの世界を作り出し、そこに自分たちを閉じこめることで決着をつける。

 こうした物語展開は、『マッドマックスFR』とははっきりと異なる。『FR』で主人公のフュリオーサは、一時は女たちとともに故郷に帰ろうとするが、しかし最終的にはシタデルに戻ってイモータン・ジョーと対決することを選ぶ。彼女は、社会を否定するのではなく社会を変えることを選び、マイノリティにも生きる権利が与えられる社会を勝ち取ろうとしたのだ。性的搾取をされる女性であったフュリオーサが、最終的に抑圧者のジョーを打ち倒すというストーリーは、「マイノリティの物語」として強い説得力があった。『マッドマックス』というタイトルにもかかわらず、「マックスの物語」にはならずに「フュリオーサの物語」であったのは、ジョージ・ミラーが社会的弱者を飾り物にしなかった証拠である。

 一方で『シェイプ』は、マイノリティを素材として用いつつも、いつしか話は2人の恋へとスライドし、最後は2人だけのファンタジー世界への旅立ちという形で幕が下りる。作品に当初与えられていた現代性は、物語が先に進むにつれて希薄になり、ラストは主人公2人のパーソナルな物語で完結している。「マイノリティの抑圧」の問題は宙に浮いたまま、主人公たちはファンタジーの世界へ行ってしまうのだ。主人公たちに仮託された社会性は、宙ぶらりんのままで放置される。

 物語がこのような結末を迎えるのは、上の記事にもあった「デル・トロのオタク性」につながっている。この映画は、オタクのオタク性を認めない世界にノーをつきつけて、オタクだけの世界へと自閉する話ではないのか。物語の前半で強調されたマイノリティの問題はいつしかオタク性へとすりかわり、自分だけのファンタジー世界へと閉じこもる話になっているように見える。

 物語にマイノリティという素材は埋め込まれているが、それは最後まで物語の中でまざることがない。作者がマイノリティというものを引き受けて、物語として消化しきれてはいないのだ。それは最後まで物語を彩る飾りでしかない。その意味でこの映画は「オスカー狙い」である。そしてこれが、上で述べた「勧善懲悪」からくる浮世離れ感と合わさって、私にはとても退屈な映画に見えた。