つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

湯浅誠『反貧困』 すべての人に居場所のある社会

 

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

 

 

「貧困=自己責任」は正しいのか

 筆者はまず、「貧困は自己責任である」という意見を切り崩していくことから始める。「貧困=自己責任」とは、以下のような考え方である。

 「貧しい暮らしに追い込まれてしまったのは、その人の責任である。遊ぶ時間を減らして、労働時間を増やしたり、よい職場を探したりしていれば、今のような貧困には陥らなかったはず。そうした努力を怠った結果が今の状況なのだから、自業自得である」

 こうした考え方は、過労自殺をめぐる議論の中でも目にする。2015年12月、電通の社員が過労のすえに自殺をしたが、彼女の自殺をめぐって、「なぜ自殺を選ぶ前に、仕事を辞めることを考えなかったのか?」という意見を目にした。過労で苦しんでいるなら、仕事をやめて、休養するなり、別の仕事に転職するなりすればいいのに、なぜよりにもよって自殺を選ぶのか。この意見は、「自殺をしない選択肢があったのに、それをしなかった」ことを問題視している。

 けれども、本当に「自殺をしない選択肢」はあったのか。連日の激務で心身ともに追い込まれて、目の前の一分一秒を生きるのにも必死という状況の人に、その選択肢が見えていたとは思えない。追い詰められた人間には、平時であればもっていたはずの選択肢が見えなくなる。そして選択肢を失うことで、人はさらに疲弊し、ついには絶望して「生きているよりも死んだほうが楽」と思うにいたる。「自殺をしないこともできたのに、それをしなかった」というのは、当事者ではない外野の人間の自分勝手な断定である。

 「貧困=自己責任」という等式の背後にあるのも、そうした「できるはずのことをしなかった」という安易な決めつけであると、この本の著者はいう。努力さえすれば貧困を避けられたのに、という声は、努力をできる環境にその人がいたかどうかを見ていない。低賃金でその日を生きるのに精一杯の人間には、その先の未来を考える時間も余裕もないのだ。

 

“溜め”が奪われた状態

 著者は、貧困問題の根底にあるのは「選択肢のない状態」だといい、それを「“溜め”が奪われた/失った状態」と表現する。“溜め”とは、例えば家族であったり、家であったり、福祉制度であったりする。人は“溜め”をもちながら生きているが、ふだんはその“溜め”は意識されないので、「自分は自立して生きている」と思いがちである。

 けれどもその“溜め”は、人が危機に陥ったときに顕在化する。例えば、仕事のストレスでうつ状態になったとき、「家族」という“溜め”がある人は、仕事をいったん休んで家族のもとで休養をとるという選択肢をとりうる。けれども、そうした“溜め”がない人は、うつ状態のままでも休むことができず、最終的に極端な手段に走ってしまう。

自分の部屋しか居場所を持たない人たちは、自分の部屋をも居場所ではなくしていってしまう。その意味では、人間というのは自宅と学校、会社、サークル、あるいはネットコミュニケーションなど、複数の居場所がないともたない生き物なのではないだろうか。(1945)

 どんな人も、“溜め”がある状態で生きていて、頼れる人、逃げ込める場所があって生活が成り立っている。そして、そうした“溜め”が相対的に少ない人は、危機に襲われたときに弱い。頼れる人、逃げ込める場所がないから、選択肢が限定され、貧困に陥っていく。

 貧困を招くのは、“溜め”が奪われた状態である。安易な自己責任論は、そうした“溜め”のあるなしを考慮していない。

健全な社会とは、自己責任論の適用領域について、線引きできる社会のはずである。ここまでは自己責任かもしれないが、ここからは自己責任ではないだろうと正しく判断できるのが、健全な社会というものだろう。(1204)

 

(引用のカッコ内の数字は、Kindleのページ番号)