つやだしのレモン

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本田靖春『疵』 極私的な戦後史

疵―花形敬とその時代 (ちくま文庫)

疵―花形敬とその時代 (ちくま文庫)

 


極私的な戦後史

 解説に、この本は著者の本田靖春による「極私的な戦後史」である、という記述があるが、まさにその通りの内容である。

 花形敬を語る本であるが、語られているのは花形敬だけではない。むしろ、その周辺、その時代を語ることにページが割かれている。著者自身が戦後にどう生きたかについても語られる。著者は花形と同じ世田谷区立千歳中学校に通い、花形の2年後輩だった。直接の接点はなかったが、同じ場所、同じ時代を生き急ぐようにして生きた花形に対して、当事者なりの思いがあったのだろう。

 それは逆に、花形敬についての語りの浅さにもつながる。花形敬が物語の軸にはなっているが、彼はこの本の執筆当時すでに過去の人であり、あまり情報が残されていない。だから、花形敬のパーソナルな部分については、十分に掘り下げられているとは言えない。彼の生涯を、遠くの地点から、望遠鏡で覗くようにして見るような本である。

 ところどころ、気になる記述はある。例えば、花形敬はマゾヒストの一面があって、自分の顔に傷をつけることがあったとか、花形が刑務所に収監されていたとき、暴れるようなことは全くなくて静かに読書していることが多かったとか。でも、記述はそこから先に踏み込むことはなくて、花形敬という人物の周りを、距離を置いてグルグル回るように続いていく。この本を読み終えても、その歯がゆい思いが解消されることはなかった。

 

戦後の東京

 花形敬についての記述が浅い代わりに、戦後の東京についての記述は分厚い。本書では、戦後の東京がまさに無法地帯だったことが描かれている。

 そもそも、花形敬のようなヤクザ者が登場したのも、戦後、既存の社会秩序に空白が生じたからである。公権力の失墜と、物資の欠乏とが合わさると、暴力がはびこる。本書を読んでいると、『マッドマックス』や『北斗の拳』のような世界が当時の東京で展開されていたことがわかる。

 『疵』に描かれる東京の姿は強烈である。

 例えば、戦後すぐの警察は頭数や装備が貧弱で、「三国人」(在日中国人・台湾人・韓国人)の暴力行為を扱いあぐねていた。当時、三国人は食糧や物資の売買で活躍していた。彼らは戦時中の抑圧に対する反動もあって、警察にも堂々と反発するようなことがたびたびあったという。安藤組の組長であった安藤昇の著書によれば、三国人は猟銃や拳銃で武装しており、戦勝国民の権利を掲げて暴力事件を起こすことがあったという。

 それに対し、装備で劣る警察は、ヤクザと組んで、三国人の勢力の押さえ込みを図る。1946年に「渋谷事件」という抗争が起きるが、これは渋谷警察署とヤクザが組んで、在日台湾人グループと衝突した事件であった。つまり、戦後すぐの東京では、ヤクザは警察が欠いていた武力を補う存在として価値を持っていた。

 

ヤクザ

 さらに、当時は今ほどにヤクザは組織化されておらず、一般人とヤクザとの境界線が曖昧だった。ヤクザが掲げる暴力は、一方では他者からの暴力を防ぐ役割ももっていた。権力とは、略奪する力であるとともに、他者からの略奪を防ぐ力でもある。東京で商売をする人間は、ヤクザを用心棒として雇い、よそからの暴力を防ぐことも役立てた。違法行為が横行する時代にあっては、ヤクザは必要悪といえる存在だった。

 そんな時代だから、ヤクザという集団も、様々なバックグランドをもつ人間で構成されていた。「食うものに困っていた人間が、選択肢がなくなって暴力の世界に走る」というオーソドックスな例もあっただろうが、特に貧しい家庭に育ったわけでもないのに、ヤクザの世界に入る人間もいた。実際、本書が取り上げる花形敬は、戦前は名の知られた名家の子どもであり、小学校時代は学業優秀で知られていた。そんな彼がアウトローの道へと進んだのも、明確な理由があるというよりは、そういう時代だったというしかない。

 

教育の空白

 時代の変わり目を象徴する話として、学校のエピソードが紹介されている。

 戦後、教育の方針がガラリと変わり、民主主義教育へと転換する。それまで教えていたこととはまるで違うことを教えることになった教員たちは、少なからず居心地の悪い思いをしながら教壇に立つことになる。

 また、戦前には学校に「軍事教練」という科目があり、軍隊関係者がその科目の教員を担当した。しかし、戦後はその科目が廃止されて、軍事教練担当の教員は教える科目がなくなってしまう。そこで、しかたなく、新たにできた「社会科」の授業を担当させられるようなことがあったという。けれども、それまで軍事教練の教官をしていたような人間に、社会科を教えられるはずがない。しかも、当時は教科書もまだ出揃っていなかったから、教員たちは何も武器をもたない状態で教室という戦場に投げ出されることになっていた。

 そんな教師たちを、生徒が尊敬できるわけもない。教員の権威は失墜して、授業のボイコットも行われるようになった。例えば、教室の出入り口を机でふさいで、教員が入れないようにすることがあったらしい。

 教育が力を失うとどうなるか。花形敬は学生時代から喧嘩に明け暮れ、街で大学生相手に暴れていたという。あって当たり前の教育がなかったことで、一部の学生は既定の道を外れて、裏の社会で生きることを選んだ。渋谷で活躍した安藤組がインテリヤクザと呼ばれて、商売っ気が強かったことも、教育の不在が影響しているのだろう。