ディック『小さな黒い箱』 「ラウタヴァーラ事件」「運のないゲーム」が名作
「ラウタヴァーラ事件」が結構好き。文化の違いをグロテスクに書いている。
「運のないゲーム」も結構いい味出してる。宇宙人にカモられる火星の人間たちに哀愁があるし、火星にいる希少な超能力者の少年の力が利用されてしまうという展開が斬新。
・小さな黒い箱 The little black box
電気羊の「共感ボックス」の元となったであろう短編。ディックは宗教とか禅とかを小説に盛り込むのが好きだが、宗教の内容自体はそんなに掘り下げないことが多い。どちらかというと、宗教を信じる人と信じない人との接触がポイントとなる。この短編もそう。
ただこの短編、「共感ボックス」という奇抜なアイディアを、うまく生かせていない。アイディアはおもしろいけど、それが話と噛み合っていないし、終わり方も適当だ。設定はとてつもなく面白いけど、でも話として見るとイマイチ、というディック短編にありがちのパターン。
・輪廻の車 The turning wheel
白人が下等人種とされる世界。
最後のオチ、現在の世界では当たり前のものが、未来のディストピア社会では貴重な技術になるというやつ、結構見た気がする。この短編の場合、その技術はペニシリン。
・ラウタヴァーラ事件 Rautavaara's case
事故死するはずだった人間を無理やりに生かした場合、その脳内にはどのようなイメージが展開されるか。宗教を絡めて人間の脳内を妄想する。
さらにそこに異星人が割り込んでくる。異星人の宗教では、救世主が信徒を食べる。キリスト教で、信徒が救世主の一部を食べるのとは逆だ。そして、そうした宗教をもつ異星人が人間を助けたことで、救世主が信徒を食べるという行為が、脳死状態の人間の脳内で行われることになる。イエス・キリストが信奉者を貪り喰らう場面、ぶっ飛んだ展開なのになぜかその映像が頭に浮かぶ。表情のないキリストが、口を大きく広げて信徒の頭を飲み込んでいくさまが。
・待機員 Stand-by
無能な人間が独裁者になる話。AIが政治をしている時代にも、「待機員」なる閑職があって、そこに組合の人間が割り当てられている、という設定が面白い。まず、組合というのが何の組合なのかが謎だ。そして、その待機員に選ばれるのが組合の一人というのも謎だ。なぜ政治経験のない人間が待機員にエントリーされるのか。ここらへんのガバガバ設定が平気で放置されるのがディックの特徴。
全世界で大人気のテレビ司会者ジム・ブリスキンというキャラも不思議だ。ディックは「テレビの司会者」にかなり執心していたようで、『流れよわが涙』の主人公もテレビの人気司会者である。
・ラグランド・パークをどうする? What'll we do with Ragland Park?
「待機員」の続編。「歌ったことが現実になる」というサイキック能力をもつラグランド・パークをめぐる話。
「思考したことが現実になる」というモチーフ自体は、『火星のタイムスリップ』『流れよわが涙』などにも出てくる。この短編では、ラグランド・パークが勝手に自殺するという斜め上の展開が度肝を抜く。普通なら対立陣営が権謀術数をめぐらしてパークの能力を封じ込めたり上手く利用したりという展開になるかと思うのだが、このあっさりとしたオチは何なのだろうか。
「八角維人」(ヤスミ・イト)とかいうやけにかっこいい名前の日本人博士が出てくるが、この名前の「イト」はおそらくディックが「伊藤」を名前だと勘違いして付けているのだろう。外国人が日本人の姓を名と勘違いして、妙な名前の日本人キャラクターを作ってしまうことはよくある。
・聖なる争い Holy Quarrel
自分を神だと信じるが、それを隠しているAIと、それを探り出そうとする人間の話。途中まではそういう話で面白いのだが、最後、無理にオチをつけようとして変な方向へいく。
おそらくこれも、AIの暴走という設定を生かしきることができずに、異星人の侵略というセカンドプロットでなんとかオチをつけたのだろう。
・運のないゲーム A game of unchance
火星の小さなコミュニティを食いつぶす宇宙サーカス軍団。よくもまあ、こんな突飛な設定を考えだしたものだ。
でも、マイクロロボットとそれを捕まえる罠は、今のコンピュータでいうとウィルスとウィルス対策ソフトに似ている。相手を騙してウィルスを送りつけて、そのウィルスを取り除くために対策ソフトが買われる、という構図そのもの。
・傍観者 The chromium fence
自然党と清潔党という2つの政党が骨肉の争いを繰り広げる。すべての国民はどちらかの政党の支持者とならなければいけないのだが、主人公はその争いに冷めている。
最後に、主人公が死ぬことを選ぶ場面はかっこいい。ロボットがわざわざ助けてくれたのに、それでは生きていく価値はないと判断してすっと死ににいく、そして警察官は不思議そうに彼を見ながら殺す、という一連のシーンはきれい。
・ジェイムズ・P・クロウ James P. Crow
ロボットが進化して人間を統治するようになる。ロボットが政治を行い、人間はそれを補佐するだけ。かつて人間がロボットによって作られたことは忘れられている。
でも、その忘れられているという設定がおかしい。普通忘れるか、そんな大切なことを? こういう、未来社会で過去の重要な出来事があっさりと忘れられていて、その出来事を「発見」するというオチで終わる短編は一つの定型としてあるけど、ちょっとこれは完成度が低い。
・水蜘蛛計画 Waterspider
ユーモアSF。未来世界では戦争が行われていて、地球側はある技術がどうしても必要。それを得るためには、過去の世界のプレコグと接触する必要がある。プレコグは、未来世界について予知能力があり、その能力を使って一時期活発に活動していたが、次第に弾圧されて皆殺しにされ、姿を消した。で、そのプレコグは、実はSF作家のことでした、という内輪向けのギャグ。ディックの名前も何度か出てくる。SFファンに向けたエンタメ小説だったのだろう。
ラスト、時間旅行をしたSF作家が、旅行先の世界を記したメモを、単なる小説のアイディアと思ってオークションに売ってしまうのはさすがの展開。
・時間飛行士へのささやかな贈物 A little something for us tempunauts
この短編は以前も読んだが、そのときも設定が理解できなかった。輪廻の輪に囚われるメカニズムが分からない。どうすれば同じ時間内をぐるぐると回ることになるのか。
ディックの小説では、こうした奇妙な設定にも、ディックなりの奇想天外な理由づけがあって、その奇想天外さに思わずうっとりしてしまうのだけれど、この短編ではそんな理由づけさえも放棄されていて、ただ「同じ時間をずっと繰り返している」の一点張り。
たぶんディックは、繰り返しを生み出すメカニズムのアイディアが思い浮かばなかったので、それを誤魔化すために、最後を切なめのオチにしたんだと推測する。かなり粗い短編。そのくせなぜか評価が高いのは、タイトルがかっこいいからだろう。