つやだしのレモン

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『さよならもいわずに』 生々しさと客観性

さよならもいわずに (ビームコミックス)

さよならもいわずに (ビームコミックス)

 

 

・生々しい夫婦のやりとり

 2人でベッドに入り、妻が「少しは枯れろよ!」と言い、「枯れんよ!」と夫(作者)が応える。夫が「生ちちいい?」と聞いて、妻の胸を直に触る。このシーンの生々しさ。

 このあと、妻のキホは病死する。普通なら、こういう生々しいやりとりは省いて、「平凡な家庭」の枠にきれいに収まるくらいの描写で済ますもの。でも、実際にあったであろうこの生々しいやりとりを描くことに、漫画家としてのプライドを感じる。

 そのあとの、妻の死を漫画化することに対しての、

まして自分は表現者だ、これを描かずにいられるだろうか。
いや、あえて俗っぽく言うなら、
表現者にとっての「おいしいネタ」を描かぬ手はない。

という文章、腹をくくっている。

 

・生々しさと、客観性

 28-29ページで、作者は「主観と客観のバランス」について書いている。

 妻の葬儀が終わったあと、作者はすぐにネームを書いたが、「それは生々しく、客観性を欠いていた」。この「客観性を欠いていた」というのが、具体的にどういうところを指しているのかは分からない。そのときの感情をただ伝えているだけで、漫画的な演出が足りていない、ということだろうか。

 そう思って読むと、たしかに、妻の死のあとは、漫画的な演出がけっこう盛り込まれている。作者はおそらく、そうした演出が、妻の死というあまりに重い話題を作品のテーマとするうえで必要だと判断したのだろうが、一人の読者として、率直な意見を述べるとするなら、最初の、生々しい作品を読んでみたい気もする。

 例えば、病院で妻の死が確定したあと、「その瞬間 世界は意味を無くした」という一文が入るが、そうした比喩は、死という残酷さを読者から遠ざけて、フィクションの世界に入れてしまっている。そのときのリアルの感情ではなく、あとから考えた客観だからだ。表現としての作為性が強く感じられてしまうからだ。

 逆に、妻のキホが鬱病を抱えていて、死の直前にも鬱の波がきていて、ふさぎ込みに鳴っっていたことに対して、「こまったな やっかいだな めんどうだな」と作者が思う場面は、生々しい。そのときの感情をそのまま伝えているように見えるから。でも、こうした生々しさは、書くことに勇気がいるだろう。なぜならそれが、妻の死に対する感情が悲しみだけではないことを表現することになりかねないから。だから作者は、綱渡りをするようにして、自分の感情を書いている。