つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

福田ますみ『でっちあげ』『モンスターマザー』

 

 ともに「モンスターペアレント」を題材にしたノンフィクション。モンスターペアレントが「いじめ」を口実に学校を執拗に攻撃し、その虚言に生徒の家族やメディアや世間が振り回されるさまを描いている。

 嘘で塗り固めた言葉で他人を糾弾するモンスターペアレントの様子は、もはや「虚言癖」という言葉では片付けられないものがある。彼らは自分の子どもが「いじめによってPTSDになっている」ことを示すために、精神科に行ってありもしない症状を語って診断書を作ってもらったりしている。子どもの病気を偽造するのはミュンヒハウゼン症候群を連想させる。

 

●モンスターを信じるのは誰か?

 「モンスターペアレント」という言葉のとおりに、この2つの事件に登場する生徒の親はまさに「モンスター」のごとくである。他人に誹謗中傷を浴びせ、メディアにも平気で嘘をつくだから、読んでいるとどうしてもそのモンスターっぷりに目がいってしまう。

 でも著者が繰り返し強調しているのは、そうしたモンスターの周りには、 モンスターの嘘を信じ込んで拡散してしまう存在がいること。それは「いじめ」を報道する新聞や週刊誌などのメディアであり、モンスターを弁護する弁護士であり、モンスターの言いなりで診断書を出す精神科医であり、ニュースを見ている私たち世間である。つまり、モンスターを信じてしまうのは私たちである。モンスターの嘘を信じてしまうことで、私たちはモンスターに加担している。

 痛感するのは、人は「事実」よりも「感情」を優先しがちであるということ。人は事実を見ているつもりでも、その事実は感情によって大きく歪められたりする。事実を見ているつもりが、「事実であってほしいと自分が思っているもの」を信じていることがある。

 例えば高校生が自殺をして、その親が「学校でいじめがあったが対応してくれなかった。子どものノートにもいじめを示唆するメモがある」と言ったとする。その話を聞いて、「本当だろうか?」と疑える人はどれくらいいるだろうか。親の言葉が嘘で、事実は別のところにあると冷静に判断できる人はどれくらいいるだろうか。

 生徒がいじめの被害者で、学校はいじめを隠蔽する悪、という構図は「組織に潰される個人」なので、人の共感を得やすい。個人が組織の勝手な都合の被害者になり、かつその被害が隠蔽されるというのはどこの世界にもありそうで、かつ自分の身にも降りかかりうるから、多くの人が信じやすいフォーマットである。モンスターはそのフォーマットを利用して、たくみに嘘を事実のように見せる。だから人はその嘘を信じやすい。

 

●事実を追求すべきプロでさえ、容易に感情に流される

 モンスターの嘘はプロでさえ容易に騙す。この2作のノンフィクションには、本来は事実を追求するプロであるはずの人々が、簡単に感情に流されてモンスターの嘘を信じ込んでしまうさまが描かれている。

 筆頭はメディア。メディアが事件を取材する場合はまず「当事者」の言葉を拾い、かつ明確な結論が出ていない場合には「両論を併記」すべきである。だが、この2事件では一部のメディアが「いじめ被害があったが、教師・学校が隠蔽している」という言葉を鵜呑みにして、当事者への取材をせずに記事を書いたために、それが「事実」となって拡散し、「加害者」とされた側が誹謗中傷で苦しむこととなった。例えば最初の事件では、「いじめを他の子供たちが見ていない」と証言する保護者が結構いた。『でっちあげ』には以下の一節がある。

 しかし、第一報を“スクープ”しながら、自身への取材には消極的な市川を始め、西岡や野中、栗田らが、はたしてどれだけの聞き込みをしたのかは疑問である。もし、一通りのことをやっていれば、浅川親子の良くない評判が保護者の間に広まっていた以上、いやでも耳に入ったはずで、少なくとも、あのような一方的な報道にはならなかったのではないかと思わざるをえないのだ。(『でっちあげ』Kindle版3058)

 次に弁護士。「いじめ被害者」側の証言は嘘が大量に含まれているので、その内容を事前に精査していれば矛盾があることに気づけたはず。だが実際には、福岡の事件では550名もの弁護士が原告側に名を連ね、長野の事件では弁護士が法的根拠がないにもかかわらず校長を殺人罪で告訴している(のちにその弁護士は懲戒処分された)。

 医者もまた事件に加担している。福岡の事件ではPTSD、長野の事件ではうつ病の診断書が提出されたが、それは子どもの言葉ではなくその親の言い分によって作られたものである可能性がきわめて高い。本を読んで思うのは、診断書はわりと簡単に手に入るのだということ。子どもにそのような症状がないのに、親の言葉だけでPTSDうつ病の診断書がもらえるのには驚く。

 

●結局、「事実」を見ようとする態度しかない

 「事実」を見ようとしなかったプロたちを、著者は以下のように糾弾する。

 子供は善、教師は悪という単純な二元論的思考に凝り固まった人権派弁護士、保護者の無理難題を拒否できない学校現場や教育委員会、軽い体罰でもすぐに騒いで教師を悪者にするマスコミ、弁護士の話を鵜呑みにして、かわいそうな被害者を救うヒロイズムに酔った精神科医。そして、クレーマーと化した保護者。

 結局、彼らが寄ってたかって川上を”史上最悪の殺人教師”にでっちあげたというのが真相であろう。(『でっちあげ』Kindle版3158)

 マスコミの一人である著者が、上のように強い言葉で関係者を糾弾する気持ちも分かる。

 ただ一方で、本来なら事実を見るべき専門家が、そろいもそろって感情に流されて事実を軽視してしまうということは、それだけ人が感情に流されやすいのだということを痛感させる。

 ひょっとすると自分は将来、この事件で「体罰教師」と決めつけられた教師のように「嘘の被害者」となることがあるかもしれない。でもそれ以上に、自分が「嘘の加害者」になる可能性のほうがよっぽど高い。当時の自分がこの事件を新聞やメディアで知ったとすれば、「いじめがあった」「隠蔽があった」と単純に信じてしまっていたであろうことは間違いない。事実を見るべき専門家ですら簡単に騙されるのだからなおさらである。著者も以下のように書いている。

 私が、この事件の真相に少しでも肉迫することができたとすれば、川上に長時間話を聞けたことが大きい。さらに、それに先立つ聞き込みによって、既存の報道から受けた先入観を払拭し、ニュートラルな気持ちで取材に臨めたことも幸いした。この幸運がなければ、私もまた、川上を体罰教師と決めつけた記事を書いていたかもしれない。その差はほんの紙一重だ。(『でっちあげ』Kindle版3449)

 

 ということで、心がけないといけないのは、常に「事実」を見ようとする態度を崩さないこと。すごく平凡で当たり前すぎる結論だが、でもそれがとてつもなく難しいことであるということは、この事件の関係者たちが示している。