つやだしのレモン

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『妻を帽子とまちがえた男』 「普通」と「普通ではない」の雑な切り分け方

 間違いなく興味深い本。同じ著者の『火星の人類学者』も名著。

 ただ、注意が必要だと思うのは、著者の考え方。オリヴァー・サックスは「普通」の人間の定義を雑に持っていて、そこから外れた人間を「普通ではない」ものとして扱い、哀れんだり「深みがない」と言ったりする。

 例えば以下の箇所。

この哀れな男は誰であり、何であり、どこへ行くのか、と思いめぐらすのだった。また、このように記憶をもたず、連続性を失った存在ははたして「存在」といえるかどうか、いぶかりもしたのだった。(Kindle版、No.746)

だがそもそも、この記憶のない人間に、深みなどというものが――感情においても思考においても――ありうるのだろうか? 彼は、関連性のない印象や事柄をただ機械的にならべるだけの存在、ヒュームのいうたわいない存在に堕してしまったのではないだろうか?(No.889)

スーパー・トゥレット症患者は、真の人間、あくまでも「個」たる存在として生きるために、たえず衝動と戦わざるをえない。ごく幼いころから彼は、真の人間となるのをはばもうとする、おそるべき障壁に直面することになろう。(No.2739)

  「深み」とか「真の人間」のような、人間を形容するときの言葉が粗雑で、こういう雑な切り分け方で「普通ではない」存在へと区分けされて、その生が悲劇であるかのように描かれているのには違和感があり、野蛮を感じる。

 実はこういう著者の考え方は『火星の人類学者』の「訳者あとがき」でも指摘されていた。アメリカの書評からの引用で、「科学という口実によって正当化された医学的のぞき趣味に傾く危険」(p. 374)とある。患者を「普通ではない」存在として異化し、差異を強調するのはたしかにのぞき趣味に近い。

  例えば自閉症は、今は「スペクトラム」として、ゼロかイチかではなく程度の問題として考えられている。これと同様に、『妻を帽子とまちがえた男』の患者の状態も、「普通」の人間の延長線上に考えるべきだし、そのほうが実態に迫れるはずである。

 この本は今から35年前の1985年に出版された本であり、当時はまだ患者を「異質」な存在と捉える見方が強かったのかもしれない。その10年後の1995年に刊行された同著者の『火星の人類学者』は、こうした「のぞき趣味」的な記述はぐっと減り、はるかに読みやすくなっていることを最後に付け足しておく。