つやだしのレモン

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ディック『小さな黒い箱』 「ラウタヴァーラ事件」「運のないゲーム」が名作

小さな黒い箱 ディック短篇傑作選 (ハヤカワ文庫SF)

小さな黒い箱 ディック短篇傑作選 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 「ラウタヴァーラ事件」が結構好き。文化の違いをグロテスクに書いている。

 「運のないゲーム」も結構いい味出してる。宇宙人にカモられる火星の人間たちに哀愁があるし、火星にいる希少な超能力者の少年の力が利用されてしまうという展開が斬新。


・小さな黒い箱 The little black box

 電気羊の「共感ボックス」の元となったであろう短編。ディックは宗教とか禅とかを小説に盛り込むのが好きだが、宗教の内容自体はそんなに掘り下げないことが多い。どちらかというと、宗教を信じる人と信じない人との接触がポイントとなる。この短編もそう。

 ただこの短編、「共感ボックス」という奇抜なアイディアを、うまく生かせていない。アイディアはおもしろいけど、それが話と噛み合っていないし、終わり方も適当だ。設定はとてつもなく面白いけど、でも話として見るとイマイチ、というディック短編にありがちのパターン。

 

・輪廻の車 The turning wheel

 白人が下等人種とされる世界。

 最後のオチ、現在の世界では当たり前のものが、未来のディストピア社会では貴重な技術になるというやつ、結構見た気がする。この短編の場合、その技術はペニシリン

 

・ラウタヴァーラ事件 Rautavaara's case

 事故死するはずだった人間を無理やりに生かした場合、その脳内にはどのようなイメージが展開されるか。宗教を絡めて人間の脳内を妄想する。

 さらにそこに異星人が割り込んでくる。異星人の宗教では、救世主が信徒を食べる。キリスト教で、信徒が救世主の一部を食べるのとは逆だ。そして、そうした宗教をもつ異星人が人間を助けたことで、救世主が信徒を食べるという行為が、脳死状態の人間の脳内で行われることになる。イエス・キリストが信奉者を貪り喰らう場面、ぶっ飛んだ展開なのになぜかその映像が頭に浮かぶ。表情のないキリストが、口を大きく広げて信徒の頭を飲み込んでいくさまが。

 

・待機員 Stand-by

 無能な人間が独裁者になる話。AIが政治をしている時代にも、「待機員」なる閑職があって、そこに組合の人間が割り当てられている、という設定が面白い。まず、組合というのが何の組合なのかが謎だ。そして、その待機員に選ばれるのが組合の一人というのも謎だ。なぜ政治経験のない人間が待機員にエントリーされるのか。ここらへんのガバガバ設定が平気で放置されるのがディックの特徴。

 全世界で大人気のテレビ司会者ジム・ブリスキンというキャラも不思議だ。ディックは「テレビの司会者」にかなり執心していたようで、『流れよわが涙』の主人公もテレビの人気司会者である。

 

・ラグランド・パークをどうする? What'll we do with Ragland Park?

 「待機員」の続編。「歌ったことが現実になる」というサイキック能力をもつラグランド・パークをめぐる話。

 「思考したことが現実になる」というモチーフ自体は、『火星のタイムスリップ』『流れよわが涙』などにも出てくる。この短編では、ラグランド・パークが勝手に自殺するという斜め上の展開が度肝を抜く。普通なら対立陣営が権謀術数をめぐらしてパークの能力を封じ込めたり上手く利用したりという展開になるかと思うのだが、このあっさりとしたオチは何なのだろうか。

 「八角維人」(ヤスミ・イト)とかいうやけにかっこいい名前の日本人博士が出てくるが、この名前の「イト」はおそらくディックが「伊藤」を名前だと勘違いして付けているのだろう。外国人が日本人の姓を名と勘違いして、妙な名前の日本人キャラクターを作ってしまうことはよくある。

 

・聖なる争い Holy Quarrel

 自分を神だと信じるが、それを隠しているAIと、それを探り出そうとする人間の話。途中まではそういう話で面白いのだが、最後、無理にオチをつけようとして変な方向へいく。

 おそらくこれも、AIの暴走という設定を生かしきることができずに、異星人の侵略というセカンドプロットでなんとかオチをつけたのだろう。

 

・運のないゲーム A game of unchance

 火星の小さなコミュニティを食いつぶす宇宙サーカス軍団。よくもまあ、こんな突飛な設定を考えだしたものだ。

 でも、マイクロロボットとそれを捕まえる罠は、今のコンピュータでいうとウィルスとウィルス対策ソフトに似ている。相手を騙してウィルスを送りつけて、そのウィルスを取り除くために対策ソフトが買われる、という構図そのもの。

 

・傍観者 The chromium fence

 自然党と清潔党という2つの政党が骨肉の争いを繰り広げる。すべての国民はどちらかの政党の支持者とならなければいけないのだが、主人公はその争いに冷めている。

 最後に、主人公が死ぬことを選ぶ場面はかっこいい。ロボットがわざわざ助けてくれたのに、それでは生きていく価値はないと判断してすっと死ににいく、そして警察官は不思議そうに彼を見ながら殺す、という一連のシーンはきれい。

 

・ジェイムズ・P・クロウ James P. Crow

 ロボットが進化して人間を統治するようになる。ロボットが政治を行い、人間はそれを補佐するだけ。かつて人間がロボットによって作られたことは忘れられている。

 でも、その忘れられているという設定がおかしい。普通忘れるか、そんな大切なことを? こういう、未来社会で過去の重要な出来事があっさりと忘れられていて、その出来事を「発見」するというオチで終わる短編は一つの定型としてあるけど、ちょっとこれは完成度が低い。

 

・水蜘蛛計画 Waterspider

 ユーモアSF。未来世界では戦争が行われていて、地球側はある技術がどうしても必要。それを得るためには、過去の世界のプレコグと接触する必要がある。プレコグは、未来世界について予知能力があり、その能力を使って一時期活発に活動していたが、次第に弾圧されて皆殺しにされ、姿を消した。で、そのプレコグは、実はSF作家のことでした、という内輪向けのギャグ。ディックの名前も何度か出てくる。SFファンに向けたエンタメ小説だったのだろう。

 ラスト、時間旅行をしたSF作家が、旅行先の世界を記したメモを、単なる小説のアイディアと思ってオークションに売ってしまうのはさすがの展開。

 

・時間飛行士へのささやかな贈物 A little something for us tempunauts

 この短編は以前も読んだが、そのときも設定が理解できなかった。輪廻の輪に囚われるメカニズムが分からない。どうすれば同じ時間内をぐるぐると回ることになるのか。

 ディックの小説では、こうした奇妙な設定にも、ディックなりの奇想天外な理由づけがあって、その奇想天外さに思わずうっとりしてしまうのだけれど、この短編ではそんな理由づけさえも放棄されていて、ただ「同じ時間をずっと繰り返している」の一点張り。

 たぶんディックは、繰り返しを生み出すメカニズムのアイディアが思い浮かばなかったので、それを誤魔化すために、最後を切なめのオチにしたんだと推測する。かなり粗い短編。そのくせなぜか評価が高いのは、タイトルがかっこいいからだろう。

アイリッシュ『シルエット』 哀愁あふれる短編集

 
 アイリッシュ短編集4。1974年刊行。

 印象に残ったのは「窓の明り」「秘密」。特に「窓の明り」は哀愁あふれる名短編。


・毒食わば皿 Murder always gathers momentum

 金に困った男が、ほんのはずみで人を殺し、そこから連鎖するように殺人を重ねていく話。警官に胸を撃たれながらも必死で目的地へ行こうとする描写に緊張感がある。最後のオチはO・ヘンリーのよう。


・窓の明り The light in the window

 戦争帰りの男が、付き合っていた女の不貞を疑う話。最後まで読んだ後に、また始めに返って読むと、全然違う味になる。

 PTSDも絡んでいる。アイリッシュは兵士のPTSDを作品のモチーフとして使っていて、例えば短編「踊り子探偵」にもそれがでてくる。

 元兵士が女性を殺す場面の描写がいい。アイリッシュは殺しの場面を描かせたら超一流。

 目には涙があふれてきたが、それ以外に女は苦痛のしるしを見せなかった。首をふりうごかしても、ほとんどそれとわからぬほど小さな動作だった。どんな幻影のような矛盾さえ、そんなありもしないことにあてはめるには実体がありすぎる、といいたげであった。

 最後の文、意味はよくわからないのだが、それでも何度も読ませるだけの力がある。

死はぜんぶいっしょでなく、ばらばらにおとずれた。

 

・青ひげの七人目の妻 Bluebeard's seventh wife

 サスペンスに寄ったアイリッシュ。いい意味でスリル満点、悪く言うと読み捨てられる小説。

 

・死の治療椅子 Death sits in the dentist's chair

 「自由の女神事件」と同様に、ユーモアに満ちた一編。主人公が歯医者を怖がるさまが面白いし、刑事のセリフもいい。ドアの鈴にイライラするという描写もリアル。

 

・殺しのにおいがする He looked like murder

 「親友にかけられた疑いを晴らす」という筋書きの短編。この筋はアイリッシュが好んで使っていて、「送って行くよ、キャスリーン」や『幻の女』にも見られる。

 

・秘密 Silent as the grave

 妻の葛藤。アイリッシュには主人公が女性である作品が結構ある。「命あるかぎり」「死の接吻」など。ただ、他の作品では「男からの暴力に脅える女」という構図だったが、この作品では「男への信頼が揺らいで疑心暗鬼になる女」が描かれている点で特徴的。

 同じ一文が何度もリフレインするのは、アイリッシュが得意とする手法。「いつもと変わらぬ夜だった。月はなく、星も出ていない」という文が3度、出てくる。ラストの女のセリフも、最初の繰り返しになっている。

 ストーリーは、普通に考えても結構おかしい。結婚するときに、殺人の告白を平然と受け入れられた時点でもうおかしい。もっと動揺しろ。

 

・パリの一夜 Underworld trail

 少しおバカな船夫2人組が、パリの町で麻薬組織のアジトに踏み込んで若くてキレイな女性を救う話。あらすじだけ言うと限りなくチープで、実際かなりチープだが、主人公2人組の人物造形にユーモアがあって面白い。その点では「死の治療椅子」とトーンは似ている。

 

・シルエット Silhouette

 クリスティー検察側の証人』に影響を受けているであろう短編。

 いろいろとツッコミどころはあるが、一番は弁護士が悪どすぎることか。殺人をもみ消すことにノリノリの弁護士はなかなかいないだろう。それに、死人の髪をセットする美容師というのもおかしい。

 

・生ける者の墓 Graves for the living

 生き埋めにされることを極度に恐れる男と、生き埋めをネタに金をむしりとる秘密組織とが出会う話。

 秘密組織は詐欺集団で、薬をつかって人を仮死状態にし死亡診断書を出させ、そのまま生き埋めにした後に掘り返して、「私たちの力であなたは生き返った」と言って大金を寄付させる、という手法で金を稼いでいる。こう書いただけでも手口が込み入りすぎていて、まともに実現しそうにない。でも、「一度死んでいるのだから、あなたは不死になった」という発想は面白い。

アイリッシュ『黒衣の花嫁』 未亡人の復讐物語

黒衣の花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

黒衣の花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 アイリッシュの「ブラックもの」第1作。夫を殺された妻が、復讐のために連続殺人に手を染めていく話。

 以下、ネタバレあり。

 

 

 アイリッシュは設定がガバガバであることが多く、この作品でもそのガバガバさはいかんなく発揮されている。まるで関係なさそうな事件の関係性になぜか気づく警察が優秀すぎるとか、夫を殺した真犯人である男が都合よくすぐそばにいたとか、その真犯人が人目の多い結婚式場で暗殺しようとしていたのはなぜかとか、粗を探せばいくらでも出てくる。

 でもそういう粗は「時代だからね」という一言で軽く流しつつ、この作品の良さを探してみると、殺人に哀しみがあるところだろうか。夫を失った妻が、その「負債」を返すために、たったひとりで5人の男を一人ずつ殺していく。自分の人生は諦めて、夫の復讐にすべてを捧げる切なさが、いかにもアイリッシュ節。

 ところどころの筆運びもうまい。例えば以下は、主人公が男をテラスから突き落とす場面。

 彼女は背後から歩みよると、礼拝の儀式のときのようなかっこうで、両の手のひらを外へむけた。それからまた素早くうしろに退った。かるく彼の身体に触れたらしく、声にならぬ声のようなものが、彼女の口から洩れた。それは説明と呪詛と贖罪とをひとつに合わせたような響きだった。

 「殺し」の場面なのに、その殺しの瞬間を直接描写しない、というのはアイリッシュがよく使うテクニック。

 

 このブラックものは、このあと『黒いカーテン』『黒いアリバイ』『黒い天使』『喪服のランデヴー』とつながっていく。

『喪服のランデヴー』は、『黒衣の花嫁』と物語の骨格は同じ。ただ、『喪服のランデヴー』のほうがずっと洗練されているし、話の展開もスムーズでうまい。物語の導入も円熟味のうまさを感じる。アイリッシュの長編では一番の出来と言っていいかもしれない。

 ただ、この『喪服のランデヴー』にも、アイリッシュならではのガバガバ設定があり、それはそれで楽しめる(日付変更線についての勘違い)。

ジャン・ユンカーマン『沖縄 うりずんの雨』 3つの差別

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うりずんの雨』パンフレット

 

はてなダイアリー2015/08/01より再録)

 

 神保町の岩波ホールで観た。

 この映画では、「沖縄」をめぐる問題の根底にある、様々な差別意識が語られている。映画の中で、証言者を通じて浮き彫りにされていた差別意識は、あえて大まかに言うならば以下のようなものである。

・「アメリカ人」が、「日本人」を差別する
・「日本人兵士」が、「沖縄の人々」を差別する
・「男性」が、「女性」を差別する

 沖縄の問題では、アメリカと日本の2つの政府間の思惑によって、沖縄に住む人々の生活が侵害されているということが話題の中心にあり、この映画でももちろん、その点にクローズアップして話は進んでいくのだが、映画の中で証言する人々の言葉を聞いていると、「アメリカと日本」という2つの国の間の問題というだけでは収まらないような、より根本的でより個別的な問題があるということに気づく。

 

アメリカ人」が、「日本人」を差別する

 2004年の8月13日、アメリカ軍のヘリが沖縄国際大学のキャンパス内に墜落する事故があった。事故が生じてすぐに、アメリカ軍の海兵隊員たちがフェンスを乗り越えてキャンパスを占拠し、事故現場を撮ろうとする報道関係者たちはアメリカ軍兵士たちによってシャットアウトされた。この映画の冒頭では、ペリー率いる艦隊が沖縄の那覇港に寄港した事実が語られるが、100年以上前の時代と変わらずに、未だに沖縄ではアメリカ軍に実質的な治外法権が保証されているわけである。

 アメリカ軍が海外へ派兵する兵士の多くは、生れた町から出たことがないような若者たちであり、彼らにとっては「アジア、エキゾチックな国としての日本」というイメージがいまだに息づいている。アメリカが沖縄の基地を決して手放そうとしないという大元の事実や、アメリカ軍兵士による日本人女性への性暴力は、アメリカ人による日本人への差別意識がいまだに消えていないことを意味しているのだろう。


「日本人兵士」が、「沖縄の人々」を差別する

 沖縄戦では、それに参加した日本軍兵士だけでなく、沖縄に住んでいた住民たちも数多く犠牲になった。沖縄に派兵された日本軍兵士たちは、そこで沖縄の人々の生活を目にするわけだが、当時の沖縄の人々の食事は、芋やタピオカ、豚肉などが中心であり、日本人兵士の眼には、そのような沖縄の人々の生活は、「大和民族」とは異質なものとして映ったのだと、元日本軍兵士は語っていた。食事だけでなく、言葉の違いも大きかっただろう。そして、沖縄の人々が自分たちとは異質な人間なのだという兵士たちの意識が、その後の日本兵による住民殺害事件や集団自決での被害につながったのだと言う。


「男性」が、「女性」を差別する

 米軍基地の兵士たちによる、日本人女性のレイプ事件は、沖縄に基地が誕生した日以来の問題である。アメリカ軍の元海兵隊員は、沖縄に配属された時、上官から「沖縄には米軍兵士とほぼ同じ数の売春婦がいる」と言われたと語っている。1995年の女子小学生暴行事件の加害者は、映画内のインタビューで、仲間からの「レイプしよう」という言葉に乗って女子小学生を拉致・強姦したんだと言う。この事件が恐ろしいのは、3人のアメリカ人兵士が、レイプという犯罪行為に自ら進んで加担していることである。単独犯ではないのだ。3人のアメリカ人が、幼い日本人女性をレイプするという共通の目的のもとで一致して協力しているという恐ろしさ。日本人女性を性的に搾取することが、彼らにとっていかに当たり前の行為だったのかが分かる。元陸軍憲兵隊の隊員も、レイプが「いつも起こっていて、大したことだとはされていなかった」と映画内で証言している。

 また、この性暴力は、アメリカ人兵士により日本人女性に対して行われるだけではなく、アメリカ軍内部にも存在していることを、この映画は伝えている。アメリカ軍内部の女性兵士らは長らく、男性兵士たちの性的搾取の対象にされてきたのだという。映画内では、そのような性暴力の被害者となった(元)兵士たちが、自らのレイプ体験と、それをもみ消そうとする軍隊内部の圧力について、涙ながらに語っている。アメリカ軍の調査によれば、日本の米軍基地内では、過去8年間で、約270件の性暴力が報告されているとのことである。

 

 学校で日本史を学んだ時、昔は身分が分かれていて、差別意識が強くあって、それが人々の生活を縛っていたということを教わるが、そうしたことはすでに過去に置いてきたことなのではなくて、差別の眼は、歴史の流れの中で形を変えながらもいまだに人間の中に潜み棲んでいることを、2時間を超えるこのドキュメンタリー映画は伝えている。

 この映画で印象的なのは、今の沖縄の問題について歴史的な背景を説明しながら語っているとともに、沖縄の問題の根底にあるはずの根強い差別意識を明らかにしていることである。そして、差別は、単にアメリカ人から日本人に向かって存在しているだけではなくて、日本人の間にもあるし、アメリカ人の間にもある。アメリカ軍の兵士内では、白人による黒人差別もあっただろうし(1995年の女子小学生暴行事件の加害者3人はいずれも黒人である)、日本の「本土」に住む人々が沖縄の人々を差別しているという側面もあるだろう。こうした様々な差別の連なりが、沖縄の問題をこれ以上ないほどに複雑にしている。

ティプトリー『愛はさだめ、さだめは死』 「接続された女」はSF史に残る傑作

 

 数年前の初読時は、なんだかよく理解できず、それでも理解できないと認めるのは悔しいので、分かった気になって感想を書いたけど、理解できていないので、結局書くことがなくていたずらに時間は過ぎていった記憶。

 今回はじっくり読んでみたが、ティプトリー作品をだいたいすべて読んだので、この作家の特徴というか、傾向が分かった気がする。

 ティプトリーは自分の体験を小説の中に混ぜている。よく出てくるのは、若い男女が恋仲になり、体の関係をもったが、不幸な別れ方をすること。ティプトリー自身、大学時代にそういう苦い経験を持っていて、子どもを作る機能を失っている。

 傑作だと思ったのは「接続された女」「愛はさだめ、さだめは死」「最後の午後に」の3作。特に「接続された女」は緊張感がみなぎっていて、SF短編としては珠玉。

 そして、じっくり読んでみると、時代遅れになっている作品も結構ある。「楽園の乳」「そしてわたしは失われた道をたどり、この場所を見いだした」「エイン博士の最後の飛行」あたりは、今では読むのがきついと感じる。「断層」は単発アイディアで挑んでるのがディックっぽいけど、ディックほどアイディアが洗練されていないので印象に残らない。ディックなら、なぜ時間をずらせるのかを最もらしく説明するだろうし、さらにもう一展開いれるだろう。

 「接続された女」は震えるほどの名作。物語も文章も素晴らしい。人形の中にバークの意識が少し残って、バークが死んだ後にも少し稼働するところは、凄まじいシーン。

 「愛はさだめ」も、独特なテーマを扱った名作。文体が凝っていて世界観を作っている。

 「最後の午後に」は初読時は読み飛ばしていたけど、じっくり読むとティプトリーの想像力がよく生きている。巨大生物の生態は昆虫を参考にしたのだろうか。男根を胸の前に掲げながら海を走って雌を追いかけてくる雄の映像が頭に浮かぶ。それに、主人公がかすかに心を通わせる異星の生物。設定がうまく融合して、奥行きのある短編になっている。

島尾敏雄『死の棘』 読書体験そのものが泥沼

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

 

 

・泥沼のごとき小説

作者の実体験をもとにした私小説。トシオの不倫がきっかけで妻のミホは精神のバランスを崩し、家庭が崩壊していく様子を描く。

 とにかく、しんどい。統合失調症のような症状を発症した妻との生活の話なので、物語そのものがしんどいのは当然なのだが、書き方にも問題がある。作者は起こった出来事をすべて書こうとしているので、話の展開がとてつもなく遅い。とにかく無駄が多いのだ。

 しかも表現がまどろっこしく、比喩を多用して詩的に仕上げようとしているのでイライラしてしまう。小説家だから詩的な表現を使いたいんだろうけど、そういう作為性は私小説とは根本的に合わない。生活の現実を描写する言葉が宙を浮いているので、そこだけ思案してひねりだしたような不自然さをまとう。物語の内容は真に迫るもののはずなのに、それを写し取る言葉に生々しさがないので、どうにも話に乗っていけない。

 それでも300ページくらいまではなんとか読み進めたのだが、これがあと300ページも続くかと思うと辛くなり、残りはパラパラとめくり読みをして読了。不思議なことに、めくり読みでも会話さえ拾っていけば話の内容はだいたい理解できた。それだけ無駄が多いということ。

 

・この小説を読むことこそが地獄

 錯乱した妻との生活の様子はまさに地獄だが、この小説を読む体験そのものが地獄なんではないかと思えてくる。同じような内容の反復、物語と噛み合わない表現、遅々として進まぬ物語、そうした泥沼のような内容の小説を読むことそのものが、トシオとミホの地獄の生活を追体験することなのだろう。

 だから小説としてのまどろっこしさも、作者の意図するところなのかもしれない。死ぬよりも過酷な生活をひとかけらでも読者に味あわせようとする作者のたくらみだとしたら、凄まじい実験小説である。

アイリッシュ『夜は千の目を持つ』 行き当たりばったりの適当サスペンス

 

推測される当初の構想

 『幻の女』で有名なウィリアム・アイリッシュが、「ジョージ・ホプリー」名義で1945年に発表した長編。

 読めば分かるが、これはサスペンスというよりはファンタジー。より正確に言うと、サスペンスを書こうとしたけど、収拾がつかなくなった結果、ファンタジーっぽくまとめた作品。正直いって出来はよくない!

 推測するに、アイリッシュは最初はサスペンスを書くつもりだったのだろう。実際、最初はサスペンスの文法どおりに話が進むし、続きが気になる展開を見せる。でも、サーカスのライオンが脱走したあたりから雲行きが怪しくなり、「あれ……これまとまらないんじゃないか……」という読者の不安はラストで不幸にも現実とものとなる。

 たぶん当初の執筆計画では、「超常現象かと思ったら、実は緻密に練られた殺人計画だった」という筋書きの長編だったのだろう。実際、アイリッシュの短編にはそういう内容の話がある(例えば「ただならぬ部屋」とか)。だからこの長編も、そういうどんでん返しのサスペンスとして構想したと思われる。

 でも、書いているうちに収拾をつけるのが難しくなって、「超常現象かと思わせておいて、実は殺人計画でしたと思わせといて、やっぱり超常現象でした」というオチに仕方なく変えたんだろう。そうでないと、途中で警察が組織ぐるみで捜査を始めたり、ジーンの父親の死がアイリッシュお得意の「死まで残り○時間」形式で語られる理由がなくなる。警察が懸命に調査をする中で、少しずつ手がかりが見つかっていき、最後はショーンが真相を暴く、というのが自然なプロットだけど、あまりにも風呂敷を広げすぎて畳めなくなったので、最初から畳む気なんてなかったフリをした作品、それが『夜は千の目を持つ』である。

 そういう行き当たりばったりさが一番出てるのが、サーカスからライオンが脱走したところだと思う。読者も「これは本筋と関係ないんだろうなあ」と思いながら読んだだろうし、作者も「これをどうやって本筋に絡めればいんだろう」と思いながら書いただろう。このサーカスの顛末は、本当に謎。たちの悪いページ稼ぎとしか思えない。

 

この小説の(数少ない)いいところ

 とはいえ、この小説に魅力がないかというとそうでもない。この話、刑事のショーンやジーン・リードではなくて、預言者トムキンズの物語として見ると、けっこうもの哀しい。末尾に「頭のどこかに、一点の熱い火を燃やしていた農家のせがれ」(p. 433)という形容があるが、まさにトムキンズの生涯はその形容通り。身分不相応な能力を与えられた人間が、それゆえに苦しみ、苦しみぬいたすえに、自殺を選択する。特異な力を望まずして持った人間の悲劇としては読める。

 あと、妙にリアリティがある場面があって、そこはアイリッシュだなと思う。一番ぐっときたのは、ドブズとソコルスキーという2人の刑事が一緒にトムキンズの住むアパートに行くシーン。2人は「空き部屋を探している2人組」を演じているので、途中の「空き室あります」という掲示に立ち止まり、どうせ断るのに一応入って部屋探しをしているフリをする。トムキンズのアパートにまっすぐ行くのではなくて、その前にちょっと寄り道して2人の刑事の性格付けをするこの場面は本当に上手いし、リアリティもある。

 

アイリッシュで読むべき作品

 この小説の出来にがっかりして、アイリッシュにダメ作家の烙印を押そうとしている人は、ちょっと待ってほしい。これは明確な失敗作だけど、アイリッシュには今読んでも楽しめる作品もある。例えば長編だと以下。

・『幻の女』:日本ではこれが有名。アイリッシュの叙情性が一番出てる。

・『暁の視線』:正統派のサスペンス。

・『喪服のランデブー』:哀しみに満ちた名品。

 上に挙げたのは長編だけど、アイリッシュの本質は短編作家だと思う。短編に名作が多い。絶版だけど、創元推理文庫から出ていたアイリッシュ短編集(全6巻)のうち、『裏窓』『わたしが死んだ夜』『ニューヨーク・ブルース』は名作がそろっていておすすめです。