つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

ティプトリー『故郷から10000光年』 この読みにくさもティプトリーの魅力か

故郷から10000光年 (ハヤカワ文庫SF)
 

 

 ティプトリーの第一短編集。全体的に読みにくい。一つの作品にいろいろ詰め込みすぎるきらいがあり、そこが魅力にもなっているんだけれど、翻訳ということもあってなにぶん読みにくいのだ。たぶんこの読みにくさのせいで、ティプトリーは今では読まれなくなっている。名作は多いんだけども。ティプトリーで唯一『たったひとつの冴えたやりかた』が人気なのも、あれがティプトリーの中では圧倒的に読みやすいからなんだよな。

 以下、各短編についてのメモ。

 

・「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」And I Awoke nad Found Me Here on the Cold Hill's Side

 人間の性衝動をテーマとした話。

 歴史的に人間は、コミュニティの外側の人間と性交渉をしていくことでコミュニティを拡大するとともに、環境への適応能力を高めてきた。自分にはないものをもつ人々と交わって子孫を残していくことは、種としての強度を増す(種としての多様性やゆらぎが、その種の維持にとって重要であることについては、漫画『攻殻機動隊』の末尾で「人形使い」も語っている)。

 だから人間は、宇宙開発を進めて非地球人と出会った場合、本能として性交渉の欲求を持つ。しかし、生物学的なつくりが異なるので性交渉は成立せず、欲求が満たされることはない。非地球人を前にすると、人間は常におあずけを食らわされた飼い犬のような状態になる。

 ゆえに、宇宙に進出したすべての人間は堕落し、掃除夫や召使いとして非地球人に奉仕する身分に成り下がる。どんなに優れた地球人でも、本能には勝てないのだ――という話。

 この作品、不思議なのは、「異人との性交渉」への欲が地球人に限定のもの、と考えていること。なぜ地球人だけにそうした欲求があるのか?という疑問が当然浮かぶ。


・「雪はとけた、雪は消えた」The Snows Are Melted, the Snows Are Gone

 何らかの理由で欠陥遺伝子をもつグループに属する女(腕がない)が、凶暴だが頑健な肉体をもつ種族を捕まえて、遺伝子の改善を図ろうとする物語。

 他のティプトリーの短編と同じように、「性衝動の根本は種の保存」という考え方がここにもある。でも作品としては中途半端な印象。


・「ヴィヴィアンの休息」The Peacefulness of Vivyan

 話がけっこう複雑。その時代、テラを中心とする巨大な帝国が宇宙で覇権を握っていた。アトリスコという星でも、テラ系の王族が政権を握っており、アトリスコにもともと住んでいたアトリスコ人たちは迫害されていた。テラ系の王族の王子の名はカンコクストランで、別名コックス。コックスにはヴィヴィアンという名の弟がいた。

 そんなアトリスコで帝国への反乱が起き、テラ系の王族たちは大部分が殺された。コックスはその反乱のさなかに、反乱軍へと転向したが、弟のヴィヴィアンは帝国軍に囚われ、帝国軍のために働くスパイとして洗脳された。彼は今では、自分の周囲の重要人物について、帝国に逐一報告する密告者となっている。

 雑誌発表時の作者のコメントによると、この作品のユカタンに当たる人物は、現実にメキシコに存在していて、ティプトリーは会っているのだという。だが、ネットで調べてもそれが誰だったのかは出てこない。おそらくは要人の家族で、歴史として取り上げられるような大きな出来事ではなかったのだろう。


・「故郷へ歩いた男」The Man Who Walked Home

 この短編集の中では傑出の出来。

 時間旅行に成功したものの、帰還した際に発生したエネルギーの膨張によって研究所は大破、時間旅行者もふっとばされて時間の狭間を漂うことになる。分かりやすくいうと、時間旅行に失敗して、ドラえもんのタイムマシンが通るようなぐんにゃりとした世界を、時間旅行者はさまようこととなったのだ。しかも、彼に残された移動手段は、歩く、それだけ。彼は時間の狭間の中を、ただひたすらに歩いて、故郷である地球へ、一歩一歩進んでいくのだ。

 正直、なぜ彼の姿が研究所跡に1年周期で現れるのかはよく分からない。彼の歩む軌道と地球の公転軌道が交わる、って行っているけど、公転軌道と交わるところを歩いているのならもうそろそろ地球に到着するのでは? というか、彼の歩む軌道って公転軌道のような3次元空間なのか? ここらへんの設定がガバガバだけど、でもそれは気にならないくらいに、時間旅行者の孤独と生への執着とが伝わってくる。

 そして、なんだか話がよく分からないけどでもなんとなく分かるという、SFならではのゾクゾク感もこの短編にはある。これぞ傑作。


・「セールスマンの誕生」Birth of a Salesman

 宇宙で貿易が行われる時代には、地球からの輸出品が輸出先の星でアレルギー反応を引き起こさないかをチェックするために、あらかじめ地球の貿易管理局を通らないといけない。主人公はその機関の創設者で、いろんな異星人を雇って輸出品のチェックをしている。

 未来を舞台にしたシチュエーションコメディのような短編。


・「ビームしておくれ、ふるさとへ」Beam Us Home

 後の「男たちの知らない女」の原型となるような作品。息苦しい地球に膿み、スタートレックの世界に憧れている男が、軍隊に入って戦争に参加して病死し、ようやくこの汚い地球を逃れて宇宙へ旅立てました、という話。スタートレックに憧れている、というとんでもなく世俗的なところがティプトリーっぽくなくて新鮮。

『新語・流行語大全』 「なぜだ!」

新語・流行語大全1945‐2005―ことばの戦後史

新語・流行語大全1945‐2005―ことばの戦後史

 

 

 印象に残った言葉のみ以下にリストアップ。

 

・かつぎ屋

 戦後の闇物資の行商人のこと。


額縁ショー

 ストリップショーの元祖。西洋名画風の額縁の中に、上半身ヌードの女性を立たせるショー。動くと風俗壊乱になるので、モデルは額縁の中でじっとしている。


笠置シヅ子

 「ブギ」の女王。1956年、「自分が納得できる声がようでえしまへんので堪忍してや」と歌手を廃業。実際には、ブギが下火になっていたことも影響している。その後は俳優として活動した。


・老いらくの恋

 歌人川田順と歌弟子・鈴鹿俊子との不倫関係。川田は妻を亡くしていたが、鈴鹿には夫と3人の子がいた。


・銀座カンカン娘

 1949年に流行った映画。「カンカン」の意味は誰も分からない。


・兵隊の位に直すと

 当時はやった言葉。山下清徳川夢声に、「ぼくの絵は兵隊の位に直すと、どこへのぼっている?」と聞き、徳川は「佐官ぐらいだろう」と答えたのに由来。


・ミッチー・ブーム

 1959年の結婚を機に、ミッチー・ブームが到来。ミッチーみたさにテレビを買う人が多かった。


・ハンカチ・タクシー

 自家用車を使ったモグリのタクシー。普通のタクシーより2割ほど安く、乗車するとハンカチなどの景品をくれる。「商品を買ってくれた客に無料サービスをしている」というていで営業を行う。


・チ・37号

 チ=千円札、37号は偽札事件の通し番号。本物と見分けがつかないほどの精巧な偽札で、警察の捜査状況に応じて偽札にも改良が加えられていた。犯人は捕まらなかった。


・蒸発

 ある日突然、失踪してしまう人が、年間5000〜7000人はいるという。


・構造汚職

 政治・行政・産業・軍事などが結びつき、その関係自体が引き起こす汚職


ネズミ講

 天下一家の会という団体が、130万人の会員を集めて社会問題化。内村健一という首謀者が脱税容疑で逮捕された。


・なぜだ!

 三越百貨店の社長・岡田茂が叫んだ言葉。定例取締役会において、5件の議題がスムーズに片付けられた後、腹心の部下である杉田専務が「岡田社長の解任を提案します」と発する。茫然とする岡田を尻目に解任案は可決された。この議題については事前に会議参加者でリハーサルが行われていたという。


・セクシャル・ハラスメント

 この言葉が日本に浸透したのは、西船橋駅ホーム転落死事件がきっかけ。被害者がストリッパーという事実が、人びとの興味を集めた。

ポール・ウィリアムズ『フィリップ・K・ディックの世界』 ディックは病気

フィリップ・K・ディックの世界

フィリップ・K・ディックの世界

 


・自宅侵入事件を中心にしたインタビュー集

 1971年にディックは自宅の強盗被害に遭う。このインタビュー集はその自宅侵入事件が主なテーマ。ディックが、いったい誰が犯人なのかいろいろ推理する。

 このインタビューを読む限り、ディックは明らかに病気である。被害妄想が激しく、話している内容がどんどん飛躍する。本当にどうだったのかは分からないけれども、このインタビューを受けていたときのディックは明白に精神病を患っている。

 このインタビューが行われたのは1974年。自宅侵入事件の3年後であり、ディックは46歳である。2年前の1972年にディックは自殺未遂をしており、そのあとに薬物治療施設に入所している。1950〜60年代のディックは狂ったように小説を濫造していたが、1970年代になると急激に生産能力が落ち、作品の数が一気に少なくなる。その時期にはおそらく、精神的にも肉体的にも苦しい時代であったのだろう。

 そうした「苦しさ」は、当時の作品にも表れている。1974年刊行の『流れよわが涙、と警官は言った』と1977年刊行の『スキャナー・ダークリー』には、それまでの長編にはなかった憂鬱さがある。特に『スキャナー・ダークリー』は、ディックの実体験が多数盛り込まれていて、ドラッグによって精神が蝕まれていく様子が克明に描かれる傑作である。

 ただ、1970年代に、ディックが「おかしくなった」と言うのは正確ではない。ディックはもともとおかしい人間であり、1970年代になってそれがより顕著になった、というのが正しいと思う。おかしくなければ、5回結婚してそのすべてで離婚するなんてことはしないし、自分の名声を犠牲にしてまでも作品を粗製乱造したりはしない。彼の元妻たちの発言を聞いても、彼は「魅力のある人間」だが、しかし「一緒に暮らすのには耐えられない人間」だという。ディックは「破綻」を抱えて生きている人間だった。

 このインタビューは、そうしたディックの破綻を現に垣間見ることができる。自宅侵入事件について語る彼の言葉は偏執狂的で、彼の後期の作品(『ヴァリス』『聖なる侵入』など)にもつながるような神秘性がある。ディックはもともと夢見がちな作家という感じだったが、薬物の乱用や自殺未遂などを経て、その夢を現実と混同するようになったのではないか。後期の作品に見られる神学まがいの何かも、夢と現実とをついに区別できなくなったことに由来しているように思える。

アイリッシュ『幻の女』 幻の都市の雰囲気

 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』の感想。ネタバレあり。

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

・物語の作りは粗め

 サスペンスもの。冤罪で死刑を宣告された男スコットのために、真犯人を見つけるという筋書き。ただ作りは粗い。

 例えば冒頭、主人公が帰宅すると、刑事たちが部屋で待ち構えているけど、刑事たちは妻が殺されたことをどうやって知ったのか?

 また、真犯人はスコットの親友であるロンバートで、彼は「幻の女」の目撃者すべてを脅迫してその口を封じるのだけれど、一夜ですべての目撃者を探し出して脅迫するというのは非現実的。さらに、ロンバートはスコットの頼みを受ける形で新たな目撃者探しをするけど、その目撃者を殺す前に、わざわざ刑事を電話で呼んでいるのが謎。

 一番ずっこけるのは、「幻の女」が、事件後に精神に変調をきたして精神病院に収監されていました、というオチ。なんじゃそりゃ。

 

・「幻の都市」の雰囲気

 上で物語の粗さを指摘したけれど、アイリッシュの代名詞は叙情性。詩的な文章と劇的な構成が持ち味。なので、細部の粗は気にしてはいけない。

 この本の刊行は1942年で、当時はこういったエンタメ小説は読み捨てられる消費財。空き時間に読んで楽しめればそれで良しというものだったので、アイリッシュも細かい辻褄は気にしなかったのだろう。

 アイリッシュ作品はかなり読んでいるけど、粗を探せばキリがない。でも読んでしまうのは、戦前のニューヨークの雰囲気を味わえるような気がするから(あくまで「気がする」だけ)。実際のニューヨークがどうだったのかは知らないけれど、その小説を読むと、1920〜30年代の、高層ビルが次々に建てられていた華やかなニューヨークの中に身を浸すような感覚になる。

 といっても、実際のニューヨークはアイリッシュが描くような華やかな都市ではなかったろうし、アイリッシュは町の一風景を小説に似つかわしいように切り取っているのだろう。だから、アイリッシュの小説の中のニューヨークは幻想で、この小説のタイトル風にいえば「幻の都市」である。でもその幻の都市に住む孤独な人間たちの生きる様子が愛おしいし、ぐっとくる。

 

・しゃれた文章

 文章はしゃれていて、ときにカッコつけすぎにも感じる。でも次の文章などを読むと、鋭い人間観察の眼をもつ作家ということが分かる。引用は稲葉明雄訳より。

私室に入ると、正面の大きなデスクの向うに、肉づきがよくて、髪の赤い、中年のアイルランド女が腰をおろしていた。服飾デザイナーといった小粋な感じはどこにもなく、むしろどちらかというと、でっぷりした、だらしない印象のほうがつよかった。おそらく以前はキティ・ショウといった本名で、どこか裏街の安アパートにくすぶっていたのだろう。見たところ充分信用のおけそうな女だと、彼は察した。金儲けにかけては、たぶん魔法使いなみの手腕をもっていたにちがいない。ただ、それが身のほどしらずな成功だったため、このような不体裁なかっこうを人前にさらしているのだろう。第一印象としては、とても好感がもてた。

 

 死刑宣告前のスコットの語りもいい。以下、全文を引用。

「ぼくひとりだけが犯罪をおかさなかったと知っていても、みんなで口を揃えておまえがやったんだと言われて、ぼくになにを申し上げることがあるでしょう? それとも、ぼくの主張を聞いて、ぼくを信じてくれるような人が、どこかにいるんでしょうか。
 あなたはこれから、ぼくに死ななければならないと言おうとしています。あなたからそう言われれば、ぼくは死ななくてはなりません。ぼくは人並みに死を恐れていないつもりです。けれどもまた、同様に、死を恐れる気持も人並みにもっています。死ぬことはけっして楽ではありません、が、誤審のために死ぬのは、いっそう苦しいことです。ぼくは、自分が犯した罪のためではなく、誤った裁きのために死ぬことになるのです。およそ死と名のつくもののなかで、これほど苛酷な死はないでしょう。ですが、最後の時がきたら、ぼくは立派にそれを受けとめるつもりです。いずれにしろ、ぼくにできるのは、それだけなんですから。
 しかし、今こそぼくは、ぼくの言葉にまったく耳をかさず、ぼくの言葉を信じてくれなかったすべての方々に、はっきりと言っておきます。ぼくがやったのではありません。ぼくはやらなかったのです。どんな陪審によるどんな評決も、どこの法廷におけるどのような審理も、どこの電気椅子の上のどんな処刑も――たとえ世界中のどこへ行っても――やらなかったことを、やったとすることはできないのです。
 さて、裁判長閣下、ぼくにはもう判決をきく用意ができています。なんの心残りもありません」

 作家の筆が走りに走っているのが読んでいて伝わる。最高の場面なので、アイリッシュとしても力を入れて書いたのだろう。ぐっと身が引き締まるような気がする名文。

堀尾省太『刻刻』 見せ方がとにかく巧い漫画

刻刻(1) (モーニングコミックス)

刻刻(1) (モーニングコミックス)

 

 ・緻密な設定

 設定がとにかく緻密。物語の中でのルールが確立されていて、そのルールに則ったうえでの読み合いが熱い。『ジョジョ』とか『ハンターハンター』のよう。

 

・見せ方がうまい

 漫画として見せ方がうまい。とにかくうまい。いやらしいほどにうまい。

 第1巻で、主人公のOLが自宅に入ると、父がぼーっとしていて、兄がテレビゲームに興じている。二人ともうつろな眼をしていて、ただ時間が過ぎていくことを待って生きているような感じ。このコマだけで、父と兄の2人の人物がどういう性格なのかが分かる。

 しかも、ページ半分を使ったそのコマの下に、テレビゲームの画面のコマを入れて、そのさらに下のコマで主人公に「お父さん それ見て面白い?」と言わせている。いったんテレビのコマを挟むそのセンスも素晴らしいし、「主人公がこの2人の怠惰な生活にもう慣れてしまっている」ことが分かるセリフも素晴らしい。このページを見ただけで、この漫画を書いている人は超ウマい漫画家だということが分かる。

 このあとも、幼稚園に真を迎えに行った翼が変質者に勘違いされる場面(樹里があえて嘘をつく)、真と翼が誘拐される場面(誘拐犯が翼の視線をそらす)、カヌリニが初登場する場面(左腕が建物にめりこんでいる)など、感心のため息しか出ないような巧い描写が続く。

 

・惜しむらくは、キャラクターの個性がやや弱いこと

 キャラクターに魅力がそれほどないので、そこは少し不満。割とみんな、頭が良すぎるというか、危機的な状況なのにいやに冷静に考えるし、論理を徹底的に積み重ねて結論に至ろうとするしで、人間味がないように見えてしまう。

 これは岩明均の漫画でも同じことを感じる。あまりにもキャラの頭が良すぎて、共感する隙がないんだよね。たぶん、作者が賢すぎて、細かく展開を考えられるがゆえなのだろう。

ポン・ジュノ『殺人の追憶』 笑いと哀しみの絶妙なバランス

 

・懐かしさのある映画

 この映画にはジブリ映画のような懐かしさがある。何度見ても味があるというか、たくさん噛んでも味がするというか。

 その理由は2つあって、1つは風景が美しいこと。韓国の田舎の風景が見事に切り取られている。『母なる証明』でも風景の捉え方が抜群だった(最近のポン・ジュノ映画がやや魅力に欠けるのは、この田舎の風景がなくなっているからだと思う)。その風景の美しさの中で、凄惨な事件が繰り返されるというギャップもまた美しい。

 懐かしさを感じる2つ目の理由は、人間の描き方がうまいこと。欲に正直な人間たちを、糾弾するのではなく、でも一方的に肯定するのでもなく、ブラックな笑いで温かく包み込んでいる。その人間への視点が抜群に心地よいので、何度見ても飽きない。

 

・欲

 この映画は食事シーンが多い。食べ方も独特で、「味わう」というよりも、単に食欲を満たすために「むさぼる」というのに近い。その食べ方に意地汚さを感じてしまうのは、食欲を満たす姿をとりつくろうとしないことを原始的に感じるからだろう。

 主人公の刑事パク・トゥマンをはじめ、この映画の登場人物は欲に対して赤裸々で、それを隠そうともしないし、その欲を満たすためには手段を選ばない。パク刑事は事件を解決するためには拷問も厭わないし、連続殺人の犯人は性欲を満たすために通り魔的に強姦する。

 そうした赤裸々に生きる人々の赤裸々さを際立たせるために、彼らとは対照的な人物として、ソウルから派遣されたソ・テユン刑事が配置されている。テユンはパク刑事とは違って拷問に頼らず、「書類」に書かれたデータをもとに犯人に迫ろうとする。

 けれども、そんなテユンも、いざ真犯人を追い詰めようとするときは、暴力に頼ってしまう。どんなにデータを積み重ねて犯人に迫っていても、事件の凄惨さを前にしては我を失い、暴力によって片をつけようとする。そのとき、パクとテユンの立ち位置は逆転して、拷問が体に染みついているパクが、テユンの暴力を止める。誰しもが暴力への引き金を心の奥に持っていて、ふだんはそんなものがないように振る舞っていても、感情が揺さぶられることで簡単に表面に出てくる。テユンは事件に追い詰められたことで、犯人と同じところにたどり着いてしまったのだ。

 と、こう書くと、なんだかとても古典的な結末のように思える。でも、この映画がうまいのは、こうした人間の欲の発露を、単に原始的だと糾弾するのではなくて、それも人間の一部であり、それこそが人間であると、温かく描いているところである。パク刑事なんて、拷問はするわトンチンカンな推理はするわで散々だが、けれどもどこか憎めないところがある。おじさんだけれど、愛らしさがある。そうした人間の描き方がとにかく上手くて、だから何度も見たくなるような魅力が、この映画にはある。

 

・笑いと哀しみの絶妙なバランス

 ポン・ジュノ映画の特徴は、ブラックな笑いと人間の哀しみにある。ただブラックなだけでなく、ただ哀しいだけでなく、その両者がうまい具合に混ぜ合わされているのが、ポン・ジュノの凄みだと思う。片方だけだと見ていてしんどいけれど、それが混ぜ合わされているので味に深みが出るのだ。

 ポン・ジュノ映画の中でも、『殺人の追憶』は群を抜いて笑いと哀しみのバランスがとれている。ポン・ジュノは他の映画も面白いけど、でも『殺人の追憶』ほどバランスのとれた映画はないように思う。『母なる証明』と『グエムル』は哀しみが強すぎて見ていてしんどいし、『スノーピアサー』と『オクジャ』は設定が凝りすぎていて入りにくい。

手塚治虫『メタモルフォーゼ』 けなげな弱者

メタモルフォーゼ (手塚治虫文庫全集)

メタモルフォーゼ (手塚治虫文庫全集)

 

 
 手塚治虫は「けなげな弱者」を描くのが好きだ。手塚治虫作品では「泣かせる」作品が結構あるけど、その多くはけなげな弱者のパターンに沿っている。

 「弱者」は人間だったり、動物だったりする。社会的に弱い立場にある人だったり、人に飼われている動物だったり。この短編集でいうと、「おけさのひょう六」で、猫が飼い主の優しさに応えて、その死まで寄り添う。

 ときには、弱者は植物だったりロボットだったりする。植物のパターンは「夜よさよなら」のサボテン、ロボットのパターンは「ダリとの再会」の看護婦ロボット。本来ならば意思や感情をもたないはずの存在が、人間のように振る舞うところに感動のポイントがある。

 話の展開としてはいわゆる浪花節的なパッケージなので、新規性とかはないのだが、やはり漫画としての見せ方がうまいので、ベタな展開でも感動させられる。

 この短編集で特にぐっとくるのは「おけさのひょう六」。領主を諷刺する踊りを踊る農民、笠をかぶって踊る猫など、話のパーツにオリジナリティがあって引き込まれる。

 あと手塚治虫の描く猫は他のどの漫画家よりも可愛い。