つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

堀尾省太『刻刻』 見せ方がとにかく巧い漫画

刻刻(1) (モーニングコミックス)

刻刻(1) (モーニングコミックス)

 

 ・緻密な設定

 設定がとにかく緻密。物語の中でのルールが確立されていて、そのルールに則ったうえでの読み合いが熱い。『ジョジョ』とか『ハンターハンター』のよう。

 

・見せ方がうまい

 漫画として見せ方がうまい。とにかくうまい。いやらしいほどにうまい。

 第1巻で、主人公のOLが自宅に入ると、父がぼーっとしていて、兄がテレビゲームに興じている。二人ともうつろな眼をしていて、ただ時間が過ぎていくことを待って生きているような感じ。このコマだけで、父と兄の2人の人物がどういう性格なのかが分かる。

 しかも、ページ半分を使ったそのコマの下に、テレビゲームの画面のコマを入れて、そのさらに下のコマで主人公に「お父さん それ見て面白い?」と言わせている。いったんテレビのコマを挟むそのセンスも素晴らしいし、「主人公がこの2人の怠惰な生活にもう慣れてしまっている」ことが分かるセリフも素晴らしい。このページを見ただけで、この漫画を書いている人は超ウマい漫画家だということが分かる。

 このあとも、幼稚園に真を迎えに行った翼が変質者に勘違いされる場面(樹里があえて嘘をつく)、真と翼が誘拐される場面(誘拐犯が翼の視線をそらす)、カヌリニが初登場する場面(左腕が建物にめりこんでいる)など、感心のため息しか出ないような巧い描写が続く。

 

・惜しむらくは、キャラクターの個性がやや弱いこと

 キャラクターに魅力がそれほどないので、そこは少し不満。割とみんな、頭が良すぎるというか、危機的な状況なのにいやに冷静に考えるし、論理を徹底的に積み重ねて結論に至ろうとするしで、人間味がないように見えてしまう。

 これは岩明均の漫画でも同じことを感じる。あまりにもキャラの頭が良すぎて、共感する隙がないんだよね。たぶん、作者が賢すぎて、細かく展開を考えられるがゆえなのだろう。

ポン・ジュノ『殺人の追憶』 笑いと哀しみの絶妙なバランス

 

・懐かしさのある映画

 この映画にはジブリ映画のような懐かしさがある。何度見ても味があるというか、たくさん噛んでも味がするというか。

 その理由は2つあって、1つは風景が美しいこと。韓国の田舎の風景が見事に切り取られている。『母なる証明』でも風景の捉え方が抜群だった(最近のポン・ジュノ映画がやや魅力に欠けるのは、この田舎の風景がなくなっているからだと思う)。その風景の美しさの中で、凄惨な事件が繰り返されるというギャップもまた美しい。

 懐かしさを感じる2つ目の理由は、人間の描き方がうまいこと。欲に正直な人間たちを、糾弾するのではなく、でも一方的に肯定するのでもなく、ブラックな笑いで温かく包み込んでいる。その人間への視点が抜群に心地よいので、何度見ても飽きない。

 

・欲

 この映画は食事シーンが多い。食べ方も独特で、「味わう」というよりも、単に食欲を満たすために「むさぼる」というのに近い。その食べ方に意地汚さを感じてしまうのは、食欲を満たす姿をとりつくろうとしないことを原始的に感じるからだろう。

 主人公の刑事パク・トゥマンをはじめ、この映画の登場人物は欲に対して赤裸々で、それを隠そうともしないし、その欲を満たすためには手段を選ばない。パク刑事は事件を解決するためには拷問も厭わないし、連続殺人の犯人は性欲を満たすために通り魔的に強姦する。

 そうした赤裸々に生きる人々の赤裸々さを際立たせるために、彼らとは対照的な人物として、ソウルから派遣されたソ・テユン刑事が配置されている。テユンはパク刑事とは違って拷問に頼らず、「書類」に書かれたデータをもとに犯人に迫ろうとする。

 けれども、そんなテユンも、いざ真犯人を追い詰めようとするときは、暴力に頼ってしまう。どんなにデータを積み重ねて犯人に迫っていても、事件の凄惨さを前にしては我を失い、暴力によって片をつけようとする。そのとき、パクとテユンの立ち位置は逆転して、拷問が体に染みついているパクが、テユンの暴力を止める。誰しもが暴力への引き金を心の奥に持っていて、ふだんはそんなものがないように振る舞っていても、感情が揺さぶられることで簡単に表面に出てくる。テユンは事件に追い詰められたことで、犯人と同じところにたどり着いてしまったのだ。

 と、こう書くと、なんだかとても古典的な結末のように思える。でも、この映画がうまいのは、こうした人間の欲の発露を、単に原始的だと糾弾するのではなくて、それも人間の一部であり、それこそが人間であると、温かく描いているところである。パク刑事なんて、拷問はするわトンチンカンな推理はするわで散々だが、けれどもどこか憎めないところがある。おじさんだけれど、愛らしさがある。そうした人間の描き方がとにかく上手くて、だから何度も見たくなるような魅力が、この映画にはある。

 

・笑いと哀しみの絶妙なバランス

 ポン・ジュノ映画の特徴は、ブラックな笑いと人間の哀しみにある。ただブラックなだけでなく、ただ哀しいだけでなく、その両者がうまい具合に混ぜ合わされているのが、ポン・ジュノの凄みだと思う。片方だけだと見ていてしんどいけれど、それが混ぜ合わされているので味に深みが出るのだ。

 ポン・ジュノ映画の中でも、『殺人の追憶』は群を抜いて笑いと哀しみのバランスがとれている。ポン・ジュノは他の映画も面白いけど、でも『殺人の追憶』ほどバランスのとれた映画はないように思う。『母なる証明』と『グエムル』は哀しみが強すぎて見ていてしんどいし、『スノーピアサー』と『オクジャ』は設定が凝りすぎていて入りにくい。

手塚治虫『メタモルフォーゼ』 けなげな弱者

メタモルフォーゼ (手塚治虫文庫全集)

メタモルフォーゼ (手塚治虫文庫全集)

 

 
 手塚治虫は「けなげな弱者」を描くのが好きだ。手塚治虫作品では「泣かせる」作品が結構あるけど、その多くはけなげな弱者のパターンに沿っている。

 「弱者」は人間だったり、動物だったりする。社会的に弱い立場にある人だったり、人に飼われている動物だったり。この短編集でいうと、「おけさのひょう六」で、猫が飼い主の優しさに応えて、その死まで寄り添う。

 ときには、弱者は植物だったりロボットだったりする。植物のパターンは「夜よさよなら」のサボテン、ロボットのパターンは「ダリとの再会」の看護婦ロボット。本来ならば意思や感情をもたないはずの存在が、人間のように振る舞うところに感動のポイントがある。

 話の展開としてはいわゆる浪花節的なパッケージなので、新規性とかはないのだが、やはり漫画としての見せ方がうまいので、ベタな展開でも感動させられる。

 この短編集で特にぐっとくるのは「おけさのひょう六」。領主を諷刺する踊りを踊る農民、笠をかぶって踊る猫など、話のパーツにオリジナリティがあって引き込まれる。

 あと手塚治虫の描く猫は他のどの漫画家よりも可愛い。

『カリブ諸島の手がかり』 ジャンルを超越する快感

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

カリブ諸島の手がかり (河出文庫)

 

 
推理小説というよりは、雰囲気を楽しむ小説

 カリブ諸島の雰囲気を楽しむ小説。

 読後感は『半七捕物帳』と近い。あれも推理小説と銘打たれているけど、実際は江戸時代の雰囲気を楽しむ風俗小説である。

 ただ、「ベナレスへの道」だけは、ちょっと他の物語とは違う。

 

・人種のステレオタイプ

 末尾の解説にも書かれているが、人種のステレオタイプがかなり強く出ていて、今読むと時代遅れに感じる箇所が多い。1929年の本というのを差し引いても、ちょっとその臭いがきつすぎて、読んでいてけっこう困った。

 

・「ベナレスへの道」が白眉

 そんな本を我慢して読んだのは、「ベナレスへの道」の評判を聞いていたから。推理小説の世界でも屈指の問題作といわれているらしいので、いったいどんなもんなのか楽しみにして最後まで読んだ。

 読後の感想としては、その期待に応える内容を持っていた。読み終わったあとにゾクリとする感覚。本を読む経験を重ねると、こういう感覚とはなかなか出会えなくなって、すでに知っていることの再確認か、知っていることの変奏を聞くことが多くなるけど、これはちょっと予想外だった。

 以下、ネタバレ。

 

 

 「ベナレスへの道」の舞台は、カリブ諸島の一つトリニダード・トバゴ。この小説が書かれた時点ではイギリスの植民地であり、同じくイギリスの植民地であるインドからの移民が多かったらしい。

 主人公は、そんなトリニダード・トバゴに旅行にきていた中年男性で、名をポジオリという。アメリカの大学で心理学を教えている教授で、当時は心理学は「人間の心理を自在に解き明かす学」と思われていたので、ことあるごとに犯罪事件の捜査に駆り出されることになる。本書には5つの短編が収録されているが、すべて主人公はポジオリで、彼が探偵役として、事件の解決に貢献する。

 トリニダード・トバゴのとあるヒンドゥー教寺院で、結婚式が行われる。結婚したのは中年の商人と、まだ10代半ばの少女。2人ともインド系で、結婚をお膳立てしたのは、新郎の伯父であるヒーラ・ダースという富豪である。

 結婚の翌日、まだ幼い新婦は、寺院で首を切られて殺されている状態で発見される。インド系の移民の間では、夫が妻を殺す事件が過去にも多く起こっていたため、嫌疑は新郎に向かう。しかし、新郎は結婚当日には寺院には泊まっておらず、確実なアリバイがあった。

 すると、疑いの矛先は主人公のポジオリに向かう。ポジオリは事件当日、ホテルに予約し宿泊していたが、昼間に見た寺院での結婚式に物珍しさを感じ、その夜にホテルを抜け出して僧院に泊まっていた。彼のその行動は現地の警察には不可解に映り、ポジオリは逮捕され、監獄に入れられる。

 獄中で、ポジオリは推理する。彼は僧院に泊まったとき、悪夢を見た。不可思議な夢で、自分がヒンドゥーの神と一体化するような感覚があった。この獄中でも、彼は同じような夢を見る。自分が神と混ざり合い、一つになるような感覚。獄中という危機的な環境と、神との一体化という理性の及ばぬ境地とが合わさって、ポジオリは一つの結論に達する。それは論理に導かれたのではなく、真実への飛躍である。

 その結論とは次の通り。犯人は新郎の伯父であるヒーラ・ダース。彼は大富豪だが、富を築く過程で青春を犠牲にしたことをずっと後悔していた。もう一度、生まれ変わることができたなら、富を追いかけるのではなく、青春時代を謳歌することを望んでいた。ヒーラ・ダースの欲求は募り、ついには本当に輪廻転生を実現しようとまで思う。けれども、自殺ではその願望は成就しない。彼は自殺以外の方法で死ぬ必要があった。

 そこで彼は、まだ幼き新婦の首を切断して殺害した。寺院でのこの殺人により、自分が処刑されることを確信していたからである。さらに、ヒーラ・ダースが新婦を殺害したのには、もう一つ理由があった。生まれ変わった世界で、彼の青春の伴侶となる女性が必要であり、その女性として、彼は若き新婦を選んだのである。

 こうして、ヒーラ・ダースは、生まれ変わるために死ぬことと、生まれ変わった後の伴侶を手に入れることを、同時に成し遂げたのた。

 この結論に、超自然的な力で達したポジオリは、真相を告げるために、独房の外にいる看守を呼ぶ。看守に、事件の犯人を告げると、「すでにヒーラ・ダースは自首していて、近々処刑されることが決まっている」と返される。

 ではなぜ、犯人ではない自分はいまだに監禁されているのかとポジオリは詰め寄る。すると看守が答える。「あまりに申し訳なかったので、言うに言えなかったのです。すでにあなたには死刑が宣告されて、とっくに処刑されていたのですから」。

 

 

 なんかこのようにあらすじを書いてしまうと、いかにも安っぽい、キテレツな展開を求めて突っ走った小説のように思われるかもしれないけど、実際に読んでいると、宗教的な雰囲気がよく書かれているので、この結末までの流れはかなり自然。すんなり読める。だからこそ、最後のジャンルを超越するような語りに衝撃を受ける。

 ただ、この筋書きを見れば分かるように、ここにも、人種のステレオタイプが潜んでいる。「インド人の世界ってこうなんですよ」という作者の押し付けが感じられて醒める。これは「インド人」「ヒンドゥー教」という、日本人にとってもあまり縁のない世界のことなので、それっぽく読めてしまうけど、でもこの「インド人」「ヒンドゥー教」は簡単に「日本人」「仏教/神道」にとって換えることができると思うと、首をひねらざるをえない。

 その意味では、完全に時代遅れの小説。ただ、筆の運びや、ジャンルを飛び越える快感にはグッとくる。特に本作は、シリーズものの短編集の末尾の一作ということで、それまでの4編でせっかく積み上げてきた物語の筋道や人物設定を、最後の最後ですべてひっくり返す。現実ではできないこういう跳躍こそが、まさに読書の醍醐味。

本田靖春『疵』 極私的な戦後史

疵―花形敬とその時代 (ちくま文庫)

疵―花形敬とその時代 (ちくま文庫)

 


極私的な戦後史

 解説に、この本は著者の本田靖春による「極私的な戦後史」である、という記述があるが、まさにその通りの内容である。

 花形敬を語る本であるが、語られているのは花形敬だけではない。むしろ、その周辺、その時代を語ることにページが割かれている。著者自身が戦後にどう生きたかについても語られる。著者は花形と同じ世田谷区立千歳中学校に通い、花形の2年後輩だった。直接の接点はなかったが、同じ場所、同じ時代を生き急ぐようにして生きた花形に対して、当事者なりの思いがあったのだろう。

 それは逆に、花形敬についての語りの浅さにもつながる。花形敬が物語の軸にはなっているが、彼はこの本の執筆当時すでに過去の人であり、あまり情報が残されていない。だから、花形敬のパーソナルな部分については、十分に掘り下げられているとは言えない。彼の生涯を、遠くの地点から、望遠鏡で覗くようにして見るような本である。

 ところどころ、気になる記述はある。例えば、花形敬はマゾヒストの一面があって、自分の顔に傷をつけることがあったとか、花形が刑務所に収監されていたとき、暴れるようなことは全くなくて静かに読書していることが多かったとか。でも、記述はそこから先に踏み込むことはなくて、花形敬という人物の周りを、距離を置いてグルグル回るように続いていく。この本を読み終えても、その歯がゆい思いが解消されることはなかった。

 

戦後の東京

 花形敬についての記述が浅い代わりに、戦後の東京についての記述は分厚い。本書では、戦後の東京がまさに無法地帯だったことが描かれている。

 そもそも、花形敬のようなヤクザ者が登場したのも、戦後、既存の社会秩序に空白が生じたからである。公権力の失墜と、物資の欠乏とが合わさると、暴力がはびこる。本書を読んでいると、『マッドマックス』や『北斗の拳』のような世界が当時の東京で展開されていたことがわかる。

 『疵』に描かれる東京の姿は強烈である。

 例えば、戦後すぐの警察は頭数や装備が貧弱で、「三国人」(在日中国人・台湾人・韓国人)の暴力行為を扱いあぐねていた。当時、三国人は食糧や物資の売買で活躍していた。彼らは戦時中の抑圧に対する反動もあって、警察にも堂々と反発するようなことがたびたびあったという。安藤組の組長であった安藤昇の著書によれば、三国人は猟銃や拳銃で武装しており、戦勝国民の権利を掲げて暴力事件を起こすことがあったという。

 それに対し、装備で劣る警察は、ヤクザと組んで、三国人の勢力の押さえ込みを図る。1946年に「渋谷事件」という抗争が起きるが、これは渋谷警察署とヤクザが組んで、在日台湾人グループと衝突した事件であった。つまり、戦後すぐの東京では、ヤクザは警察が欠いていた武力を補う存在として価値を持っていた。

 

ヤクザ

 さらに、当時は今ほどにヤクザは組織化されておらず、一般人とヤクザとの境界線が曖昧だった。ヤクザが掲げる暴力は、一方では他者からの暴力を防ぐ役割ももっていた。権力とは、略奪する力であるとともに、他者からの略奪を防ぐ力でもある。東京で商売をする人間は、ヤクザを用心棒として雇い、よそからの暴力を防ぐことも役立てた。違法行為が横行する時代にあっては、ヤクザは必要悪といえる存在だった。

 そんな時代だから、ヤクザという集団も、様々なバックグランドをもつ人間で構成されていた。「食うものに困っていた人間が、選択肢がなくなって暴力の世界に走る」というオーソドックスな例もあっただろうが、特に貧しい家庭に育ったわけでもないのに、ヤクザの世界に入る人間もいた。実際、本書が取り上げる花形敬は、戦前は名の知られた名家の子どもであり、小学校時代は学業優秀で知られていた。そんな彼がアウトローの道へと進んだのも、明確な理由があるというよりは、そういう時代だったというしかない。

 

教育の空白

 時代の変わり目を象徴する話として、学校のエピソードが紹介されている。

 戦後、教育の方針がガラリと変わり、民主主義教育へと転換する。それまで教えていたこととはまるで違うことを教えることになった教員たちは、少なからず居心地の悪い思いをしながら教壇に立つことになる。

 また、戦前には学校に「軍事教練」という科目があり、軍隊関係者がその科目の教員を担当した。しかし、戦後はその科目が廃止されて、軍事教練担当の教員は教える科目がなくなってしまう。そこで、しかたなく、新たにできた「社会科」の授業を担当させられるようなことがあったという。けれども、それまで軍事教練の教官をしていたような人間に、社会科を教えられるはずがない。しかも、当時は教科書もまだ出揃っていなかったから、教員たちは何も武器をもたない状態で教室という戦場に投げ出されることになっていた。

 そんな教師たちを、生徒が尊敬できるわけもない。教員の権威は失墜して、授業のボイコットも行われるようになった。例えば、教室の出入り口を机でふさいで、教員が入れないようにすることがあったらしい。

 教育が力を失うとどうなるか。花形敬は学生時代から喧嘩に明け暮れ、街で大学生相手に暴れていたという。あって当たり前の教育がなかったことで、一部の学生は既定の道を外れて、裏の社会で生きることを選んだ。渋谷で活躍した安藤組がインテリヤクザと呼ばれて、商売っ気が強かったことも、教育の不在が影響しているのだろう。

昔、マクドナルドの公式ウェブサイトで公開されていたflashゲーム

 今日、突然、冒険@mc島というゲームを思いだした。自分が昔パソコンで遊んでいたゲーム。

 マクドナルドの公式ウェブサイトで公開されていたflashゲームで、小学生の一時期にハマり、しばらくプレイしていた。マクドナルドの主要キャラであるドナルドやグリマスやハンバーグラーが出てきていた。ジャンルはアドベンチャーゲームで、画面をクリックしてアイテムを集めていく。子ども心を絶妙にくすぐる作りだった気がする。

 親にプレステやゲームキューブを買ってもらえなかった子どもである自分は、何でもいいからゲームというものに触れてみたくて、マクドナルドの公式ホームページで見つけたそのゲームに夢中になった。

 曖昧な記憶だが、そのゲームの中には、「パスワード」を入れないと手に入らないアイテムがあったような気がする。そのパスワードは、マクドナルドのお店に行かないと手に入らなくて、だから自分は親にせがんでマクドナルドに連れて行ってもらったような。でも、そのパスワードがお店のどこに書かれているのか分からなくて、虚しい思いをして帰ったような。

 今日、仕事でマクドナルドについて調べているときに、ふと、そのゲームで遊んでいた小学生時代を思い出した。ゲームの名前が思い出せず、Googleの検索欄に「マクドナルド flashゲーム 昔」などのキーワードを入れて検索するも出ず、いろいろと試しているうちに以下のサイトを見つけた。

 

makion.net! - Web&CD-ROM

 

 ゲームの製作者(イラストレーター)の方のウェブサイトで、ゲームについて詳しく書いてある。

 これだ。自分が遊んでいたのはこのゲーム。たしかにこういう画面だった。「冒険@Mc島」というタイトルにも見覚えがある。

 でも、いまこの名前で検索をかけても、情報がまるで出てこない。2000年初頭は今ほどインターネットが普及していなかったので、このゲームで遊んでいた子ども自体がそんなにいなかったのだろうか。

 あのゲームをもう一度やってみたいのだけれど、もうできない。shockwave.comもそうだけど、インターネット上のコンテンツは、規格が古くなるともう二度とプレイできなくなってしまうのが悲しい。これがプレステやゲームキューブなら、中古ショップでソフトを買えばプレイできるけど、ネットで公開されていたものはそうもいかないのだ。

 同級生がスマブラをやっているのを横目に、自分はマクドナルドの公式サイトでflashゲームをプレイしていたのかと思うと、なんか辛い。しかもそのゲームはもう二度とプレイできないのだ。

 たぶん同級生たちは同窓会で、スマブラにはまっていた小学生時代を思い返して談笑するのだろう。でも自分が遊んでいたのは、冒険@Mc島というゲームで、それを遊んだ友だちもいないし、今ではもうろくに情報も手に入らないのだ。

湯浅誠『反貧困』 すべての人に居場所のある社会

 

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

 

 

「貧困=自己責任」は正しいのか

 筆者はまず、「貧困は自己責任である」という意見を切り崩していくことから始める。「貧困=自己責任」とは、以下のような考え方である。

 「貧しい暮らしに追い込まれてしまったのは、その人の責任である。遊ぶ時間を減らして、労働時間を増やしたり、よい職場を探したりしていれば、今のような貧困には陥らなかったはず。そうした努力を怠った結果が今の状況なのだから、自業自得である」

 こうした考え方は、過労自殺をめぐる議論の中でも目にする。2015年12月、電通の社員が過労のすえに自殺をしたが、彼女の自殺をめぐって、「なぜ自殺を選ぶ前に、仕事を辞めることを考えなかったのか?」という意見を目にした。過労で苦しんでいるなら、仕事をやめて、休養するなり、別の仕事に転職するなりすればいいのに、なぜよりにもよって自殺を選ぶのか。この意見は、「自殺をしない選択肢があったのに、それをしなかった」ことを問題視している。

 けれども、本当に「自殺をしない選択肢」はあったのか。連日の激務で心身ともに追い込まれて、目の前の一分一秒を生きるのにも必死という状況の人に、その選択肢が見えていたとは思えない。追い詰められた人間には、平時であればもっていたはずの選択肢が見えなくなる。そして選択肢を失うことで、人はさらに疲弊し、ついには絶望して「生きているよりも死んだほうが楽」と思うにいたる。「自殺をしないこともできたのに、それをしなかった」というのは、当事者ではない外野の人間の自分勝手な断定である。

 「貧困=自己責任」という等式の背後にあるのも、そうした「できるはずのことをしなかった」という安易な決めつけであると、この本の著者はいう。努力さえすれば貧困を避けられたのに、という声は、努力をできる環境にその人がいたかどうかを見ていない。低賃金でその日を生きるのに精一杯の人間には、その先の未来を考える時間も余裕もないのだ。

 

“溜め”が奪われた状態

 著者は、貧困問題の根底にあるのは「選択肢のない状態」だといい、それを「“溜め”が奪われた/失った状態」と表現する。“溜め”とは、例えば家族であったり、家であったり、福祉制度であったりする。人は“溜め”をもちながら生きているが、ふだんはその“溜め”は意識されないので、「自分は自立して生きている」と思いがちである。

 けれどもその“溜め”は、人が危機に陥ったときに顕在化する。例えば、仕事のストレスでうつ状態になったとき、「家族」という“溜め”がある人は、仕事をいったん休んで家族のもとで休養をとるという選択肢をとりうる。けれども、そうした“溜め”がない人は、うつ状態のままでも休むことができず、最終的に極端な手段に走ってしまう。

自分の部屋しか居場所を持たない人たちは、自分の部屋をも居場所ではなくしていってしまう。その意味では、人間というのは自宅と学校、会社、サークル、あるいはネットコミュニケーションなど、複数の居場所がないともたない生き物なのではないだろうか。(1945)

 どんな人も、“溜め”がある状態で生きていて、頼れる人、逃げ込める場所があって生活が成り立っている。そして、そうした“溜め”が相対的に少ない人は、危機に襲われたときに弱い。頼れる人、逃げ込める場所がないから、選択肢が限定され、貧困に陥っていく。

 貧困を招くのは、“溜め”が奪われた状態である。安易な自己責任論は、そうした“溜め”のあるなしを考慮していない。

健全な社会とは、自己責任論の適用領域について、線引きできる社会のはずである。ここまでは自己責任かもしれないが、ここからは自己責任ではないだろうと正しく判断できるのが、健全な社会というものだろう。(1204)

 

(引用のカッコ内の数字は、Kindleのページ番号)