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紀田順一郎『東京の下層社会』 急速な近代化の犠牲者

東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)

東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)

 

  主に明治時代の日本の「下層社会」の実態を明かす本。国が進める急速な近代化の犠牲となり、使い捨ての労働者として泡のように散っていった人々の話である。

 当時は福祉の概念もまだ確立されていなかったので、人間の命の扱われ方がとにかく雑。いくらでも代えのきく便利な道具くらいの認識で人間が消費された。

 以下、本書でも特に印象に残った部分をピックアップ。カッコ内のページ数はKindle版の数字。

 

・近親相姦

 明治時代の中頃、東京には各所にスラム(貧民街)があった。日雇い労働者や物乞いが、狭い家屋にひしめくようにして暮らしていた。こうしたスラムの様子は、当時も松原岩五郎『最暗黒之東京』(1893)や横山源之助『日本の下層社会』(1899)にも描かれている。

 スラムの家屋の多くは長屋で、無灯火であったため、近親相姦や強姦が多発した。親子間、きょうだい間での近親相姦や、一人暮らしの女性の強姦の事例が紹介されている。

 中でも、「井上おはつ」という女性は、内縁の夫がありながらも、弟や実子と近親相姦し、さらに隣室の男とも通じていたため、夫に殺害されたという(p. 236)。

 

・物々交換の飴屋

 大阪の「名護町」という場所の貧民街の話。

 流し売りの「飴屋」という仕事がある。飴を入れた箱を引いて街を歩き、物々交換で飴をあげる代わりに物をもらい、それを売って生活する。

 飴の代わりにもらうのは「蝶番、欠けた水晶玉、針金、雪駄の打ち金、鍋のつる、柄の抜けた柄杓、蝙蝠傘の柄」(p. 486)など。

 

・ゴミ山の甘味

 ゴミの埋立地で焼却されようとしているゴミをあさり、金目のものを集める仕事。

 ゴミには生ゴミも混じっているので虫がたかっている。「スーッと腕を一撫でしただけでも、掌いっぱいの蝿をつかむことができる」(p. 652)ほど。

 こうしたゴミあさりに慣れた人間だけが味わえる「甘味」がある。ゴミ山をあさっていると、果物が発酵してドロドロになったものがたまに出てくる。ゴミあさりはそれにむしゃぶりついて味わうという。とても甘いらしい。

 

・ゴミ箱に住む浮浪者

 宿に困った浮浪者の中は、ゴミ箱に住む者がいたという。

 特に雨の日や冬などには、野宿の場所に困る。ゴミ箱に入ると、ゴミが体を覆って温めてくれるので、野宿よりも快適らしい。

 しかも、ゴミ箱の中には生ゴミもあり、それを食べれば食にも困らない。ある浮浪者は、夜になるとゴミ箱の中に入って、投げ入れられる生ゴミを食べるのを習慣にしていた。

 

・もらい子殺し

 当時は中絶の手段が乏しく、「しかたなく生んだ子」が多かった。そうした子は「養子」として出され、いくばくかの養育費とともに別の人にもらわれることがあった。

 これを悪用して、何人もの子どもを養子としてもらって養育費を受け取ったあと、子どもは片っ端から殺してしまうという、いわゆる「もらい子殺し」を行った人間がいた。明治以降、大量のもらい子殺し事件は少なくとも4件発生したという(p. 1467)。


・浅草の有名な娼婦「お金」

 「お金」という名の娼婦は浅草では有名な人物で、「彼女の洗礼を受けぬ者は労働者でない」(p. 2267)と言われたほど。

 もともとは江戸幕府直参の武士の長女だったが、倒幕後の生活苦ゆえに16歳のときに娼婦として売られたという。当初は色街で人気の娼婦として活躍したが、加齢とともに街娼として街に立つようになり、50歳ころまでそれを続けた。

 晩年はアルコール依存症となり、寺の床下を寝床にして物乞いをして暮らした。物乞いは浅草ではなく日暮里や南千住で行っていたが、「なぜ浅草公園で物乞いをしないのか」と人に問われると次のように答えた。

「旦那、こうまで落ちぶれた姿をあの盛り場のエンコ(公園)でさらしたくはありません。これでも昔は知られたお金ですよ……ボロをさげケンタ(門づけ)になったと笑われるのも嫌ですからエンコには行きません」(p. 2274)

 

・酷使される女工

 明治時代の女工の酷使は有名。女工の惨状をつづった『女工哀史』はたしか日本史の教科書にも載っていたはず。

 女工が働く工場は織物工場が多かった。織物を生産するという関係上、工場内は換気されることが少なく不潔だったため、気管支系の病気や眼の病気が多発した。中でも「トラホーム」という伝染性の目の病気がひどく、失明する女工も多数生じた。

 

・なぜ福祉政策が遅れたか

 明治時代の日本の福祉政策が極めて低水準だった背景は、「働かざる者食うべからず」という思想があった。著者は以下のように語る。

そもそも日本人の多くがこのように“働かざる者食うべからず”のスローガンをかかげ、火の玉のように精進してきたのが近代の歴史といえるからだ。しかし、貧困を倫理面だけでとらえることによりその構造的理解が阻まれ、あまつさえ低福祉政策を維持しようとしてきた明治以来の制作に口実を与えていることに気づかなかった。昭和戦前までの社会福祉が欧米先進国に比して著しく遅れた一因として、国民総生産の比がアメリカの100に対して日本が3(1940年度)にすぎないという国力の差も考えなければなるまいが、根本的には日本人の意識の奥深いところにある貧者に対する倫理的な蔑視ということにも大きな原因があったと思われる。(p. 1295)