つやだしのレモン

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VALIS

フィリップ・K・ディック ヴァリス(創元SF文庫)


○あらすじ

 麻薬中毒のホースラヴァー・ファットは、自殺願望をもつ友人グロリアを救おうと尽力するも、結局は報われずグロリアは命を絶った。そのことが契機となってファットは精神のバランスを崩し、頽廃的な生活へと陥るが、麻薬でトラップ中に「神」に出会う。それ以来ファットの世界観は激変し、神からの啓示を「秘密経典」として日誌につけはじめる。そんなある日、友人に誘われて観に行った映画ヴァリスに「世界の真理」の兆しを見出し、映画製作者のもとを尋ねて「世界の救済者」と会うことを試みる……。

 フィリップ・K・ディック晩年の問題作。「神学」をテーマにした作品ということで敬遠していましたが、やっと読みました。
 以下ネタバレ



○意味不明、でも所々で魅力的

 この小説は読み方が難しい。麻薬のやりすぎで頭がイカれてしまったディックが自分の神学を小説に垂れ流したのか、それとも小説全体がディック流のレトリックなのか。どうやら読者の判断は前者のようで、私も「ドラッグは人を壊すんだなあ」なんて能天気に考えながら読んでいました。
 とはいっても、流石ディックという箇所はいくつもあり、丹精込めて練り上げられた力作なのだなという感は伝わってきます。

 “閉塞”はファットがよくつかう言葉だ。狂気、非常識、不合理、精神異常、調子っぱずれ、ヤクづけ、ラリパッパ等の意味をすべてふくんでいる (p99)

 訓練もなく、独力で、個人は致命的な文章を人にあたえる方法を知る (p103)

 現実とはそれを信じるのをやめたときもなくなってしまわないものだ (p119)

 中でもとりわけ印象深いのは、ケヴィンという登場人物が聖ソフィアに言われたセリフ。ケヴィンは自分の猫が走っている車に突っ込んで死んでしまってから精神を病み、「宇宙にまつわるあらゆるシンボルが猫になる」ほどの諦観をもつようになっていた。そんなケヴィンが、「なぜ僕の猫は死なねばならなかったのか?」という問いを、世界の救済者である2歳児ソフィアに尋ねたとき、返ってきた答えは「その猫はバカだった」。なんとも単純な、でも的を射た答えです。「神はあの猫を愛するあまり、ケヴィンよりも自分の手元においておきたかったのだ」といった子供騙しの説明ではなく、「走っている車に頭からつっこんでいくような猫は、存在してもしかたがない」という答えの力強さは印象的です。そして、それを答えを与えたのが世界を救う2歳の子どもだという点も。
 

○絶対的な悪と、自己への信仰

 ディックの小説群の中では「異端」の書として位置づけられる『ヴァリス』ですが、私の読後の舌触りとしては、それ以前のディック作品とそれほど違ってはいないという印象です。たしかに奇怪な神学が小説全体に渡って展開され、肝心な部分への説明は少ないくせに余計な描写はうんざりするほど多く、結末もなんだか分かりません。ミステリアスでほんのりと示唆的な小説であるのは確かだが、単なるディックの麻薬妄想を書き連ねているだけじゃあないのか。そんな感想には強く共感します。

 ただ、本書にもディックの哲学は色濃く出ています。それは、世界には「絶対的な悪」があって、それから自分を守るために私たちは「自己への信仰」を持たなければならない、というもの。『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』や『ユービック』で取り上げられているテーマです。世間には自分を傷つけるような存在が至るところに潜んでいて、無防備に外を歩けば私たちは幾多の攻撃に晒されて壊れてしまう。自分の身を守る盾として、私たちに必要なのは信仰だが、その信仰の対象は神様ではなく自分自身で、自己への信仰が私を守ってくれる。

 ホースラヴァー・ファットが組み上げた神学は、傍から見れば奇妙で奇怪な妄想に過ぎないものでも、ファット本人にとっては「自分を守る盾」として必要なものであり、その神学の助けによって頽廃的生活から這い出すことができた。『ヴァリス』は主人公ファットが独自の神学によって自己を再発見するまでを描いた成長物語であり、さらに言えば作者ディックの自伝(の一部)です。

 それ以前のディックの小説では、奇抜なアイディアとディックの変態性がギリギリのバランスをとって傑作へと昇華されていましたが、『ヴァリス』は後者の要素で満たされてしまって舵取りがなされていません。安定した印税収入を得て生活に余裕ができはじめたディックが、商業的成功を度外視して小説を書いてみた結果がコレ、という感じ。『ユービック』や『スキャナー・ダークリー』といった傑作における「正気と狂気がせめぎあう様相」に心奪われますが、あれはディックが読者を楽しませるために創意工夫して書いた小説であって、むしろディックの本気は『ヴァリス』にあるのかもしれません。