白土三平『忍者武芸帳 影丸伝』
・あらすじ
1959〜1962年にかけて出版されていた貸本漫画。当時は相当売れた作品らしい。
『カムイ伝』と並び称される白土三平の代表作。なのだが、白土三平は子ども向けに書いた漫画が結構ある(例えば『サスケ』)ので、これもそうではないかと読む前は思っていた。タイトルが「忍者武芸帳」だし。
でも読んでみるとそれは誤解だった。漫画のタイプとしては、『カムイ伝』ほど小難しくなく、かといって『サスケ』ほど柔らかくもない、ギリギリの娯楽性を保っているような作品。
ストーリーは白土漫画の定跡通りで、何ものにも属さない忍者「影丸」を軸に、武士や僧侶や百姓たちが繰り広げる不毛な争いが描かれる。時は戦国時代で、織田信長が天下統一を目指して奮戦するさなかの話。
様々な登場人物が各々の思惑で動き、交差するのがこの漫画のおもしろいところで、剣士の結城重太郎・林崎甚助・上泉信綱、忍者の影丸・無風道人・坂上主膳、戦国大名の織田信長・明智光秀などが主なキャラクター。
・影丸と影の一族
超人的な力をもち、架空の永遠の正義感をふりまわし、非現実的な行動に終始する英雄なんてものは、存在しないと思っている。従って、そういった人物を主人公に、ドラマを展開させることはできない。……(中略)……そして歴史は、個人の力で動かしうるものではない。だが、ある決定的瞬間に、個人の力が大きく全体に影響をあたえることもある。ある個人なり階層に、時代が大きな超人的行動を要求する場合もある。だからこの物語の場合も、あの戦国の世を戦いぬき、時代を前進させる原動力となった人びとを、影丸という人物にしぼって現してみたかっただけだ。
――『忍者武芸帳』第16巻下
主人公である忍者「影丸」は、百姓一揆を煽動し、信長ら大名たちに立ち向かって抗戦を続けた怪物的人物。
だが、その生い立ちは大半が謎で、影の流れに属する忍者・無風道人の弟子であること以外は全くといっていいほど語られない。3巻分(9〜11巻)を費やしてその生い立ちが説明された「影の一族」とは正反対。影丸は影の一族の7人を自分の影武者として使い、幾多の難所を切り抜けていくのだが、その人物イメージは「百姓のために戦う正義の象徴」でしかなく、人間味がない。まるで、人々の中にある「正義」が寄り集まって一つの生物となって動いてるかのよう。
それに対し、影丸に仕える「影の一族」の七人衆はそれぞれが個性的で、生まれと特性についても詳細に語られているので、影の一族のほうがキャラとしてははるかに魅力的。そのミステリアスな登場の仕方もいいし、一芸に特化した容姿の異形さもいい。正義の権化のような影丸に、暗い生い立ちをもつ7人が命を犠牲にして奉仕する構図は、妙に美しい。7人の壮絶な最期も美しい。
影丸は自分の理想の実現に対してストイックなんだけど、何が彼をそこまで動かしているかが分からない。だから共感しづらいし、人間味を感じづらい。でもそのセリフはときとして鋭い。以下は、影丸が「武士と百姓の区分」について、剣客の林崎甚助に向かって言ったセリフ。
林崎甚助「しかし武士は武士、百姓は百姓、天から与えられた定めを破ることは出来ぬはず……」
影丸「フハハハハ、おぬし川に落ちたらなんとする。おぬしの言いようでは泳がずとも助かるものは助かる、死ぬものは死ぬ……人は何もせずともよいことになるな……」
・無風道人
影丸の師匠である老僧「無風道人」は一匹狼で、権力者の暗殺を生業とする。「窮乏する百姓を救う」という姿勢は影丸と同じ。
でも影丸と決定的に違うのは、影丸が「闘争によって階級の区分を取り払う」という思想のもとで一揆を煽動したのに対して、無風は「カネで世を動かす」ことを目論んだこと。「一人の首のために多くの人々の命が救われる」と考えるので、足利義輝や北畠具教を賞金目当てで暗殺していく。褒章金のためには自らの弟子である影丸の首でさえ狙う。
しかし無風は、孤児たちが作った小さな共同体が内部崩壊した様子を目の当たりにして、カネでは全てを解決しきれないことを悟り、自分の生き方に疑問を持ち始めることになる。こういう人物設定は『カムイ伝』の夢屋七兵衛を思わせる。夢屋の原型が無風にあるのは間違いない。
常に揺るがぬ信念をもつ影丸に対して、無風はひょうひょうとした人物ながらも自分の立ち位置に迷い、ときに弱さを見せる。影丸に比べて実に人間臭いキャラクターで、曲線的に物語に絡んでくる。
そんな無風の「敵」として登場する柳生の師・小泉信綱は、無風らの「勝つためには手段を選ばない」剣法を忌み嫌っていて、無風の暗殺を何度か試みるものの失敗。一方の無風は、信綱らの「己の心の非を斬る」剣法を「偽善」とあざ笑い、信綱に果し合いを挑む。この無風 vs 信綱の決戦は『影丸伝』の見所の一つ。
無風と甚助が交わしたセリフは印象的なので以下に引用。
無風「百姓は米を作りわれら食う……特に武士は何もせず人の作ったものを喰らっている……
元気に土地を耕し、良い米を作り、丈夫な賢い子を育て、無事に、そして幸せな一生を送りたい……これじゃ百姓の願いは……
誰が……好きこのんであのような目に会いたいと思うかな……
みすみす負けると分かっている百姓がなぜ一揆を起こすのかね……
どうじゃね変だろう……
どっかが狂ってるとは思わんかね……
もしお前さんが百姓であってもきっと一揆をおこしてるじゃろう……
なぜじゃろう……?
林崎甚助「知らぬ。私は百姓ではない……」
無風「フハハハ、分からぬはずはなかろう、ただ知らぬふりをしているのさ……
朝早くから暗くなるまで土と汗にまみれ、作った米は人が食い、自身はヒエやアワを食い……
病気をすれば治せずに死んじまう。天候が狂えばすぐ餓死をする。
子供か生まれれば死ぬ前に殺さにゃならん。年貢を遅らせば首が飛ぶ……
一揆がおきなかったら不思議なくらいじゃ」
甚助「それがどうしたというのです。それと私と、なんの…………」
無風「フフフフ……
関係がないと言うのかね……
それじゃこの世に百姓が一人もおらなかったらどうかね……
この世から米が一粒もなくなっちまったらさぞ愉快じゃろうて……
人々のために一番役立っていながら、一番ひどいめに会わねばならない。なんちゅうこっちゃ…………
よく見るのじゃ、殺されていく者の顔をな…………」
・結城重太郎と林崎甚助
『影丸伝』に出てくる正統派の剣客は2人。結城重太郎と林崎甚助。
両者とも「坂上主膳」を自らの仇として追うが、その思いはなかなか果たせない。最初の頃は、この2人のキャラ被ってるよなーと思いながら読んでいたが、話が進むにつれて2人は異なる方向へ進んでいく。同じ境遇の人間でも、少しの違いで別の生き方を選ぶことになるということを示すかのよう。
林崎甚助の印象深い場面は、仇である坂上主膳を斬る箇所。甚助は仇を討てて満足し、その後は自分の人生を歩み始めることになるが、実は討たれた主膳は主膳ではなかった。正確に言えば、「甚助の仇である坂上主膳ではなかった」。その人物は、生まれは「長助」という名の百姓で、百姓という身分でありながらも武士であることを志し、日々剣法の修行をしているところ、一人の武士に出会い、命を救われ、「坂上主膳という名前で生きてゆけ」と言われます。その通りに「主膳」という名で道場に通うようになり、剣術の腕を磨き、主君によく仕え、妻を娶り、子どもを持つ身になった。しかし、その頃から彼は「身に覚えのない仇討ち」の挑戦にあうようになり、坂上主膳として、本心ではないながらも自分に挑みかかってくる剣士たちを返り討ちにしていく。そんな中、林崎甚助の挑戦を受けて、その剣の前についに倒れることになった。
皮肉なのは、この仇討ちによって影武者である主膳の人生は終わったが、林崎甚助は目的を達して新たな人生をスタートさせていること。真相を知る影丸も、あえて甚助に仇が影武者であったことを告げずに去っていく。でも考えてみると、その影武者は甚助の踏み台になるために生きてきたようなものである。影武者を斬って満足した甚助と、武士としての地位を築いたものの理不尽に斬られた元百姓。
・総評
ページ数を稼ぐための引き伸ばしや、一部で急に絵が雑になるなど、貸本漫画特有の粗さはある。でもそういう欠点を補って余りあるほどの、登場人物の魅力と物語のスケールの大きさ。
それでは最期に影丸の言葉。
「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ……」