つやだしのレモン

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Confessions of a Crap Artist

 フィリップ・K・ディック 『戦争が終り、世界の終りが始まった』晶文社


○概要

 SFの鬼才ディックの非SF小説SF小説ではないので、「未来を予知する能力者」や「服用すると現実世界を変えてしまうドラッグ」や「人間の脳波を探知して飛んでいく小型ミサイル」なんかは出てきません。その代わり、奇人変人がわんさか登場して物語を掻き乱していきます。



○幾度も繰り返される夫婦喧嘩

 重要な登場人物は4人。知恵遅れのジャックと、その妹のフェイ、その夫のチャーリーと、フェイの不倫相手のネーサン。物語はこの4人のそれぞれの視点をいったりきたりしながら進んでいきます。

 ディックはしばしば「夫婦問題」をテーマに小説を書いています。『逆まわりの世界』『火星のタイムスリップ』『去年を待ちながら』などがそう。その全てが、「倦怠期の夫婦が不倫に手を染めるが、結局は元の鞘に収まって生きていくことを決意する」という筋道を辿っています。本作もそんな感じなのかなーと思って読み進めていたら、まるで違っていたので驚きました。

 話はフェイという女性を中心に回ります。このフェイ、男を惑わす魔性の女で、夫のチャーリーが心臓発作で入院している間、自分よりも3歳若いネーサンという大学院生と不倫関係を結びます。自由奔放な女性が主人公という点ではトルストイアンナ・カレーニナと同じ設定ですが、フェイはアンナ・カレーニナから上品さを奪って図々しさをてんこ盛りにしたような女。知的で好奇心旺盛、男と見れば征服せいずにはおけないというタイプで、チャーリーやネーサンを泥沼へと引きずり込んでいきます。タチが悪いのは、フェイ本人には「世界を自分で回している気になっている」ことに対する罪悪感が全く欠如していること。常に打算的に振る舞い、自分のために他人を犠牲にすることを屁とも思わない。夫のチャーリーの健康状態が優れないことが分かると、すぐにその代わりになるような男性を探し始めるようなクズ人間です。

 ただ興味深いのは、フェイは決して「悪人」ではないということです。なぜなら、フェイ以外の登場人物も充分にアクが強いからです。正常な人間など一人もいません。皆が皆、異常な人格を持っている中で、フェイはとりわけ強烈なパーソナリティを備えているというわけです(本編の後についている「解題」を読むと、フェイのモデルがディックが結婚しようとしていた女性のようです)。

 正直に言って、小説としてはそれほど面白くはありませんでした。「普通の人間はみんな異常性を備えているから、知恵遅れのジャックこそが実は正常な人間なんだよ」みたいなことを言いたいのかなーなんて思いましたが、そんなテーマは普通すぎてPKDらしくない。SFらしくないテーマをSFで描くところに「ディックらしさ」があると個人的には思うので、ディックの純文学にはあんまりワクワクしませんでした。



○タイトルに騙されてはいけない

 『戦争が終り、世界の終りが始まった』なんて仰々しいタイトルがついていますが、内容的には夫婦喧嘩を扱った擬似恋愛小説です。原題は「Confessions of a Crap Artist」で、翻訳すれば『インチキ芸術家の告白』。出版社がこのタイトルでは売れないと判断して『戦争〜』という邦題にしたんでしょうが、あまりにカッコつけすぎ。『インチキ芸術家の告白』みたいな変なタイトルのほうがディックらしくて良かったのに。