つやだしのレモン

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伊豆の踊子

 川端康成 伊豆の踊子 (新潮文庫


○印象と感想

伊豆の踊子」「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」の短編4作を収録。

 川端文学の特徴は、第一に文章が美しいこと、第二にテーマが残酷であること。

 文章の美しさに関してはとりたてて説明するまでもない。日本文学でも屈指の文章家で、淀みがなくすらりと美しい。志賀直哉の影響を受けた文体だと感じるが、志賀直哉が淡々とした冷徹な文章を書くのに対して、川端康成は情緒のある柔らかい文章である。ところどころに詩的な遊び心が垣間見えて、物語にアクセントをつけている。だが、それを「臭い」という人もいるだろう。「温泉宿」の冒頭の文などは、いかにも「作った文」という印象を受ける。けれども、そういう抒情性をたたえた文章の方が温かみがあり、何度も読み返したいと思わせる力があり、それが作家の作家らしさだろう。

 第二にテーマ性。4つの短編の中では、「温泉宿」「禽獣」に驚いた。特に「温泉宿」。地方の静かな温泉宿にまつわる人々にスポットを当てているが、物語はやや分かりにくく筋を追いにくい。「温泉宿」というタイトルだが、田舎の情緒溢れる宿屋を描いているわけでは決してない。柔らかい文章だが、物語そのものは冷たく空しい。

 表題作の伊豆の踊子では、「将来の目的に苦悩する青年」という、近代文学では頻出のテーマを軸に、旅の情緒と踊り子の清純さでもって味付けした佳品だが、「温泉宿」はそれとは真逆の志向性をもつ。本当に同じ作者の作品なのかと疑うほど、後者には人間的な温かみが欠けている。登場人物の賑やかさとは裏腹に、小説全体の物寂しさは胸を打つ。

 日常生活の機微とか、細やかに揺れ動く感情、心の奥の深い深い部分など、人間の内面へと下っていくのが小説の醍醐味であるという先入観がある。小説に思想を求め、生の目的とか人生観とかを読み取ろうとするのは読者の模範だ。けれでも、「温泉宿」にはそういった要素がない。登場人物の生活には、形而上学的な小難しいことを考える隙間が存在せず、水が上から下へと流れ落ちるように一日一日を通り過ぎていく。単純で、本能に従順な女性たちの生。「自由奔放」というわけでもない。社会的な束縛や共同生活のルールはもちろん存在していて、だがそれに苦悩してもがく姿はなく、まるで全てを諦めているかのように振舞っている。最初から人生を捨てているかのようである。

 、私たちは自分の中に出来るだけたくさんのモノを詰め込もうとするが、それはよそから空っぽだと思われたくないからである。入れられるものならとりあえずは放り込んでみて、たっぷりと入っているように見せようと心がける。それは人の本質だ。読書を趣味とするような人であれば尚更そうだろう。けれでも、「温泉宿」の人たちはそういうことに無頓着で、中身がないことに対しての怖れをもっていない。いやそもそも、自分が空っぽであることを意識の上に上らせることさえしない。冒頭の一文にあるように、「彼女等は獣のように、白い裸で這い廻っていた」だけだ。そのテーマは皮肉っぽく残酷である。その皮肉は、人間の内へと深く切り込もうとする近代文学へ向けられているとともに、私たち読者に対しても手厳しい。苦悩する人間の内面を描く近代文学が、事実は飽くなき向上心と上昇志向に裏打ちされていることを匂わせるのだ。無気力で怠惰な生活。ただただ空しいが、むしろこのような小説の方が本質をついていることを、近代文学の読者は確かに知っていて、だが知らないふりをしていたのである。