つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

アーシュラ・K・ル・グィン『世界の合言葉は森』(ハヤカワSF文庫、1990年)

●メモ

  • 中編が2つ入っている。「世界の合言葉は森」(The World for World Is Forest, 小尾芙佐訳)と、アオサギの眼」(The Eye of the Heron, 小池美佐子訳)。
  • ともに、二つの民族(種族)の対立を描いている。「世界の合言葉は森」では、人間とアスシー人(小人で、人間に使役されている。『指輪物語』のゴラムを連想させる)との間に軋轢が生じ、それが戦争にまで発展する。
  • アオサギの眼」では、シティーに住む人々とシャンティーに住む人々の対立。ともに惑星ヴィクトリアに住んでいる人間で、地球からの移民なのだが、移住の年代が異なり、先住がシティー、その後に移り住んできたのがシャンティーに住んでいる。欧米社会の「白人vs移民」の構図が意識されているのは明白で、そうした民族対立を宇宙規模で描いている。

●リュボフとデイビットソン

 「世界の合言葉は森」には、人間とアスシー人の対立が大きなテーマとしてある。アスシー人は人間に比べて身体的に劣っており、文化的にも大きく異なる。それが原因で、人間によって使役され、奴隷としてこき使われている。このような、身体的な優劣に基づく差別が、SFというジャンルにおいて取り上げられている意味は深い。

 身体的な優劣は、極めて単純な差別の理由なのだが、それゆえに根が深い。見た目の違いを無視することは誰にもできないし、だからこそ差別のタネをまきやすいし、そこから生まれた差別は広がりやすい。そして、そんな単純な理由に基づくからこそ、そういった差別はなかなか根絶されないし、いくら時代が懸命に洗い流しても、その意識は人々の頭の片隅にこびりついて消え落ちることはない。

 この小説の中で、人間とアスシー人との対立を巡って、人間の側で目立った動きをするのは、リュボフという人類学者と、デビットソンという軍人である。

 リュボフはアスシー人に対して好意的で、彼らに対して差別意識をもっていない。アスシー人からの反感を多少は買いつつも、彼らの文化を理解しようと努め、セルバーには人間の言語を教える。リュボフは明らかに、人間とアスシー人の「協調」を目指す人間である。

 一方、デイビットソンは、男性的なマッチョさを拠りどころとする軍人であり、差別感情を隠そうとしない。アスシー人を劣等の動物と見て、彼らを奴隷として使役することに何の罪悪感ももっていない。現に彼は、女性のアスシー人をレイプし、その後に殺害している。人間社会の中で、デイビットソンはアスシー人との「戦争」を煽る人間である。

 けれども、「人間>アスシー人」という構図を破壊するために、アスシー人の指導者であるセルバーが採用したのは、リュボフの「強調」路線ではなく、デイビットソンの「戦争」主義だった。セルバーは、人間を「殺す」という概念をアスシー人の社会に持ち込んだことで、人間を武力で上回り、上下関係を転倒させた。セルバーは、「殺す」ことをアスシー人の社会にもたらしたことで、アスシー人たちから「神」と呼ばれることになる。

 人間とアスシー人との戦争の中で、リュボフが死んだにもかかわらず、デイビットソンが生きながらえているのも、上記のようなセルバーの選択が反映されている。「協調」を図ったリュボフは退場し、「戦争」を目指したデイビットソンが生き残る。セルバーがデイビットソンにかける次のような言葉にも、それは表れている。

「おまえを殺す?」とセルバーはいった。デイビットソンを見上げる目が、森の薄明の中にキラキラと鋭く光るように思われた。「わたしはおまえを殺すことができない、デイビットソン。おまえは神だ。おまえは自らの手でそれをなさねばならない」(167)

 リュボフは死したのちに、セルバーと同化するが、セルバーはリュボフに似ているというよりはむしろ、デイビットソンと似ている。彼らはともに、武力によって我が道を切り開こうとしている。その点で、彼らは同じ人間であり、同じ神である。ここでは、「リュボフ=善/デイビットソン=悪」という構図はもはや通用していない。

 人間とアスシー人の戦争によって明らかになったのは、二つの種族の対立関係を解消する力は、リュボフが目指した「協調」ではなく、デイビットソン的な「戦争」だったということである。武力によってしか、差別の上下関係は切り崩すことはできない。小説最後のセルバーのセリフは意味深である。

「リュボフはここにいる」とセルバーはいった。「そしてデイビットソンもここにいる。二人とも。きっとわたしが死んだのちは、あるいは民人は、わたしの生まれる前の、あなたたちが来る前の姿にたちもどるのかもしれない。しかし、かれらが昔どおりになるとは、私は思わない」(175)

 もちろん、「デイビットソン的なるもの」をアスシー人の社会に持ち込んだことは、大きな副作用をもたらすことになる。それは小説の最後で暗示されている。人間が森からいなくなったことで、今度は、アスシー人同士が殺し合いを始める、という未来である。

「われわれが殺しあいの仕方を知らないという振りをするのは無益なことだ」(174)

 戦争を知ったアスシー人たちは、その矛先を、人間から身内へと移すだろう。物語の終りで、ルペノンはそれを予感し、セルバーに警告を与えていた。

 アスシー人内部の戦争を食い止めるために必要なのは、リュボフが教えた「協調」しかないだろう。戦争は必要不可欠なものだったが、それは別の力によって支えられなければならない。戦争の次には平和があり、平和の先には戦争が来る。これは裏を返せば、戦争がなければ平和もないことを意味している。

 だから、「デイビットソン的なるもの」と「リュボフ的なるもの」は、対外に排除し合うのではなく、互いに補い合っている。自らの尻尾を飲み込む蛇のように、「デイビットソン的なるもの」と「リュボフ的なるもの」は合わせて一つの円を作っている。デイビットソンとリュボフは、全く異なる二つの人物でありながら、ともに不可欠な要素として社会を支えている。




●ノート

  • 彼らが何者であろうと、彼らには権威をしのばせるものがただよっている、権力のまぎれもなく人を酔わせる匂いが。(65)
  • セチア人は死にたくてうずうずする、その先になにがあるか見たいという好奇心に燃えて。(68)