つやだしのレモン

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職人としての漫画家

アックスVOL104

アックスVOL104

●漫画家は、「芸術家」なのか?

 最新の『アックス』は、今年の3月に亡くなった辰巳ヨシヒロの追悼号である。その中につげ義春へのインタビューがあり、それがたいへん印象深かったのでここに引用する。
 辰巳ヨシヒロつげ義春は、絵のタッチも、ストーリーも、似ているところが多い。私がはじめて辰巳ヨシヒロの漫画を読んだとき、「これはつげ義春じゃないか」と思ったのを覚えている。

 2人が互いに影響し合いながら作風を固めていったことは、『アックス』のインタビューでも述べられている。

 僕が描いたような題材を、辰巳さんも取り入れるようになったんじゃないかと。底辺のうらぶれた人たちを、リアリズム調に描くようになった。ですから、僕は最初辰巳さんに影響されて、後に辰巳さんも僕の作品の傾向を取り入れるようになったんです。

 しばしば、つげ義春辰巳ヨシヒロの作品は、「漫画を芸術へと高めた」として評価されることがある。このことについても、つげ義春は以下のようなコメントをしている。

 元々マンガは芸術ではなくて職人の世界ですから。職人の技術があれば、誰に頼まれてもみんなそこそこ描けますよ。共同作業で作るのは当たり前なのがマンガの世界です。芸術的な見方をする評論家がいるけど、困るんですよね。

 いくぶん自嘲的に語っているので、このつげ義春の言葉をそのまま受け取るのは正しくないのかもしれない。だが、このインタビューには、漫画家という職業の特殊性が色濃く表れているように見える。

 『芸術新潮』2014年1月号で、つげ義春の特集が組まれていたが、その中で、つげ作品は「芸術」として称賛されていた。明治学院大学教授の山下裕二は、「絵と文字が共存するハイブリッドなマンガは日本人だからこそ、ここまで高められた表現でしょう。…(中略)…つげ作品はそうした日本のマンガの中でもさらに屹立している表現ですから、100年後には20世紀後半を代表する芸術として受け止められていることは間違いない」と述べている。




●製品としてのつげ漫画

 ある作品が芸術か否かを決めるのは、その作品の製作者ではなくて、その作品の鑑賞者である。だから、いくらつげ義春本人が「自分の作品を芸術ともてはやすのはやめてくれ」と言っても、鑑賞者が「これは芸術だ!」と思うことは「間違い」ではないだろう。とはいえ、つげ義春のインタビューを読むと、作品について「これは芸術だ!」「これは芸術ではない!」と自分勝手にラベリングする鑑賞者のいい加減さというものに気づく。

 つげ義春の漫画家デビューは18歳の頃だが、漫画家という職を選んだのは、対人恐怖症でも収入が得られる仕事だったからと述べている。デビューは早かったものの、生活が楽になることはなく、貸本作家だった頃から常に生活苦の問題にとりつかれていて、ある時は睡眠薬を飲んで自殺を図ったこともあった。

 そのような環境における創作活動の目標は、自然と、「芸術性の高い作品を書く」ではなくて、「売れる作品を書く」方向に偏っていく。つげ義春は、貸本漫画時代に他の漫画家の作品を積極的に模倣したと様々な媒体で語っているが、今の時代では盗作として責められるような行為でも、当時は許容されていたのだろう。それは、漫画というジャンルそのものが、工場で大量生産される生活必需品のように、娯楽という目的に特化された製品だったからに違いない。そしてそれは、漫画だけではなく他のあらゆる表現作品についても言えることである。

 ちなみに、このつげ義春のインタビューが掲載されている最新号の『アックス』では、「アックス漫画新人賞」も発表されていて、佳作受賞の大山海「頭部」という作品のインパクトがすごい。ゲームの『青鬼』を連想するようなヘタウマな画風なのだが、単にシュールな作品としては片づけられないような独特なにおいがある。