つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

アイリッシュ『ニューヨーク・ブルース』

 

  • 名作ぞろいの短編集

 名作がそろった短編集。「アイリッシュ短編集」は全6巻で、これが最終巻の6巻目だが、一番よく出来ていると思う。
 アイリッシュは「サスペンス」の作家、と評されているのをよく見るし、実際にサスペンスの要素の強い作家だが、この作家のもう一つの魅力は人物描写の上手さだと思う。特に、人物の身振りや行動、ちょっとしたセリフでその性格を縁取っていくのが巧い。文体もウィットに富んでいて、都会的という修飾語がよく似合う。
 この短編集は、そんなアイリッシュの人物描写の才がよく発揮されている。例えば「自由の女神事件」。非番の刑事がひょんなことから事件にまきこまれていくミステリーだが、正直に言ってトリックはごくごく平凡で、そこに期待するとあまり楽しめない。でも、主人公を始めとするキャラクターのセリフ一つひとつがユーモアに溢れていて、その雰囲気にやられてしまう。
 短編はどれも、「どちらかというとあまり恵まれていない環境にある主人公が、少し勇気を出してみる」話になっている。特に「死の接吻」「特別配達」「目覚めずして死なば」はその色が濃い。当時でも存在したであろうアメリカ社会の格差を、作品内にうまく取り込んでいる。そういう社会派な側面も、日本での人気の理由の一つなのだろう。

 

  • 翻訳

 翻訳は見事の一言。文章もセリフも自然で違和感がない。村上博基氏といえばル・カレの翻訳で有名だが、上手い翻訳家は何を翻訳させても上手いのだろう。

  

各短編についてメモ

  • 三時 Three O'clock

 男が正気を失う瞬間の描写が凄い。「自分のどこか奥深くで、もうそれがなんであるのか判ずるいとまも能力もないが、なにかが、さし迫った運命をのがれて、長いほの暗い通路を逃げだして行くような気がした」。狂気に身を落とす人間のありさまを、こういう角度で描写するのかと驚く。

 

 登場人物がみな一癖あって面白い。特に、誰かが自殺するのを期待しているエレベーター係が面白い。「だれもここからはやらないんだ。やるときは橋ばっかり。ここじゃなにも起こらないんだ」なんてセリフがあると、話の本筋はどうでもよくて、この会話をずっと楽しんでいたくなる。

 

  • 命あるかぎり For the rest of her life

 サディズムをモチーフにしたサスペンス。恋人の若い男が事故死する場面の描写、「グチャッとやわらかい音がした。だれかがソフトボイルド・エッグの頭を、ナイフですぱっと切りおとしたような音だった」と妙に悠長なのが、かえって怖い。

 

  • 死の接吻 Collared

 これもサスペンスものだが、主人公がマフィアの情婦というのが面白い。しかもその情婦は去年から付き合いだしたので、男からは「去年物(ラスト・イヤー)」と呼ばれているというのも出来すぎだ。男の暴力に怯えながら、なんとかか細い逃げ道を辿ろうとする主人公の奮闘に共感する短編。

 

  • ニューヨーク・ブルース New York blues

 雰囲気を楽しむ短編。アイリッシュについて「都会の孤独」という説明をよく見るが、この作品はまさにその特徴が出ている。話はよく分からないけど、男が恋人を殺してしまってホテルの一室に逃げ込むが、しかし警察に踏み込まれて捕まってしまう、でも実は殺したのは恋人ではなくて別の女性だったことに、最後の最後に気づく。
 文章が感傷的な雰囲気をかきたてていて、「わたしはグラマー・スクール最後の三角法の試験で答案用紙を書きおえたとき以来、祈るということをしたことがなく」などはいかにもキザなんだけど、ニューヨークのホテルで一人佇む人間の様子を思い浮かべると結構心にくる。

 

  • 特別配達 Mamie ‘n’ me

 主人公は中年の貧乏な牛乳売りで、いかにもしょぼくれた感じの男なのだが、そいつが誘拐された子どもを決死の覚悟で助けにいくのがかっこいい。『ハックルベリー・フィンの冒険』でハックが逃亡奴隷のジムを助けることを決意する場面を彷彿とさせる。主人公と馬のマミーとの友情もいい。そして最後の主人公のセリフは、貧富の差、階級の差を感じるようで切ない。最後のセリフを読んでから、もう一度この小説を最初から読むと、涙が止まらなくなる。

 

  • となりの死人 The corpse next door

 これも「特別配達」同様、社会の下の方に住む人びとの悲哀を描いた小説として読むと切ない。貧しさから牛乳を盗んだ男は、隣人に殴られてもそれを警察には言わずに、黙って入院したのだと思うとやるせない。

 

  • ガムは知っていた Stuck with murder

 ホテルの掃除係のおばちゃんの悪癖が生々しい。アイリッシュはホテル住まいだったので、掃除係を観察する機会も多かったのだろう。

 

  • 借り I.O.U.―One life

 原題のI.O.U.はI owe youの略か。仁義と正義との間で揺れ動きを描いていて、他の短編と比べるとかなり正統派な内容。

 

  • 目覚めずして死なば If I should die before I wake

 珍しく子どもが主人公。子どもの目線から見た世界の描写がなかなか巧い。子どもらしい感情の起伏と、誘拐魔の不気味な雰囲気がいいコントラストになっている。「男は手にぴかぴか光るジャックナイフを持ち、指のたこを削りながらあたりを見回していた」という文章があるけど、指のたこをナイフで削り取るのは、当時のアメリカでは日常的な光景だったのだろうか。

 

  • さらばニューヨーク Goodbye, New York

 若い夫婦の逃避行。無計画な夫と、それを健気に支える妻という構図だが、二人で逃げていくうちに、冷静だったはずの妻のほうも、夫に引っ張り込まれるようにして泥沼に沈んでいって、身動きがとれなくなっていく。

 

  • ハミング・バード帰る Humming bird comes home

 ママ・アダムズの決死の勇気と、それに敬意を表したのか、ベンのふりをして家から去った男。最後の場面、ライトがベンの死体を照らして、それを見たメアリが息をのむ瞬間の描写が実に映像的でぱっと目に浮かぶ。

 

  • 送って行くよ、キャスリーン One last night

 おそらく『幻の女』の元になったであろう長編。この短編と、別の「消えた花嫁」という短編とを組み合わせる形で、『幻の女』ができたのだろうと推測する。