つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

今月読んだもの 2020年2月

・セバスチアン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』

シンデレラの罠 (創元推理文庫 142-1)

シンデレラの罠 (創元推理文庫 142-1)

 

 趣向を凝らしたサスペンス。主人公が探偵であり、犯人であり、被害者でもある。最後の一文がおしゃれ。

 旧訳で読んだので、訳文に不自然な箇所が多々あるのは残念。

 

田村由美『ミステリと言う勿れ』6

ミステリと言う勿れ (6) (フラワーコミックスアルファ)

ミステリと言う勿れ (6) (フラワーコミックスアルファ)

 

  だんだん全貌が見えてくる。今までは1話完結型の漫画かと思ってたけど、実際にはどの物語も細い糸でつながっていたみたいな。

 一方で、同じトリックの再利用がいい加減気になりはじめている。文字の暗号はもう食傷気味。焼肉店の店員が即席で暗号を作っちゃうのは、ちょっとやり過ぎ感。

 

あだち充『MIX』1-3

MIX(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

MIX(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

 

  無料だったので読んでみる。漫画として巧い。コマ割りや、読者に与えられる情報量が丁度いい。

 でも、ラッキースケベ的な場面や、音美の胸や尻にフォーカスするコマは不必要では。こういうのがあだち充の持ち味と言われたら、はいそうですかと言って離れるしかないけど。

 

・カント『純粋理性批判』1

純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)

純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:カント
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

  『純粋理性批判』でカントが行っていることは、「何かについて考える」のではなくて、「考える土台を固める」こと。

 それまでの哲学は、安定せぬ土台の上に家を建てるようなことをしていた。だから議論が成り立たなかった。そこで、まずは思想の前提となる土台固めをしよう、というのがこの本のコンセプト。

 例えば、デカルトは「私はいろんなことを疑うことができるけど、疑っている自分自身がたしかに存在していることは疑えない事実だ」と考えた。でもカントは、「『自分はいろんなことを疑っている』ことから『でも疑っている自分の存在は疑えない』が導き出せるのは、なぜ?」と問う。つまり、従来の哲学では「当たり前」とされたこととか、曖昧に濁されていた部分に、答えようとしたことが画期的だった。

 こういうカントの哲学は影響が大きかったし、後続の哲学者たちはカント哲学と対話しながら自らの思想を織り上げる必要があった。

 哲学の歴史ではカントは巨人のごとき存在である。でもカントが今そんなに人気がないのは、あまりに影響力が強いために、その思想が徹底的に吟味され批判されているから。

 カントに対する批判でよくあるのは、「カントの思想は画期的に見えて、実は従来の哲学の焼き直しにすぎない」というもの。カントは「考える土台を固める」というが、そんな土台がそもそもあるのか、と問うことができる。人間の思考の根っこには確かな土台があると思うこと自体が先入観で、実際にはそんなものなどないかもしれない。

 カントは「人間はいろいろ考えるのだから、それには何らかの土台があるはずだ」と考える。でも、カントの論法を真似れば、「『色々考える』ことから『だから土台がある』が導き出せるのは、なぜ?」と言える。思考に土台を求めることは、一つの理想、一つの真理を追い求めることで、だからプラトンでいうイデアと変わらないのではないか。『純粋理性批判』の「空間」と「時間」についての論考を読んでも、同じような感想を持つ。

 

手塚治虫火の鳥』黎明編・未来編・ヤマト編・異形編

火の鳥 1

火の鳥 1

 

  中高生のときに『火の鳥』を読んだときは、登場人物の個人としての部分しか見ていなかったけど、今読んでみると、個人の上にある、集団や派閥についてしっかり描かれていることに気づく。

 たとえば『黎明編』。邪馬台国卑弥呼の時代の話だが、卑弥呼の側だけでなく、卑弥呼によって征服される側(狗奴)の物語も描いている。

 『ヤマト編』も同様に、ヤマト政権の物語であると同時に、ヤマト政権によって倒されるクマソの物語でもある。

 歴史は勝者によって記述されることが多い。だから、手塚治虫は敗者の方にスポットをあてる。手塚治虫は社会的弱者に優しい。ときに優しすぎて物語が勧善懲悪になるのだが。

 『火の鳥』みたいな話、どこかで見たなーと思ったら、『もののけ姫』がそうだった。主人公のアシタカは蝦夷の若者で、製鉄によって生き残りを図る村の長エボシ、支配者である侍が配置される。そしてその間を、シシ神という自然の象徴のような存在が歩く。権力争いに個人が振り回されるという構図も、火の鳥のように行動の読めないシシ神も、まさに『火の鳥』ライク。

 

劉慈欣『三体』

三体

三体

 

  粗い。キャラが説明口調でいろいろ説明してくれたり、三体人のディテールがてきとうだったり。

 まあエンタメなんで、多少の粗さはむしろ愛嬌になるんだけど、ここまで粗いと読み進めるのがつらい。

 舞台設定やアイデアを楽しむ分にはいいのかも。でも、小説としてみた場合には、スケールの大きさとかアイデアの奇抜さよりも、人物造形の甘さやセリフの稚拙さのほうが目につく。

 

藤子・F・不二雄『SF短編PERFECT』1

  今の常識を相対化するような短編が多い。全体的に戯画的で、リアリティが重視されがちな現代に読むとちょっと古臭さを感じる。

 なので、この作品集でいうと「劇画・オバQ」みたいな、ギャグ成分高めの漫画のほうが印象に残りやすい。

 

井龍一・伊藤翔太『親愛なる僕へ殺意をこめて』1-2

  無料だったので読んだ。すごく面白い。サスペンスとしての引きも十分だし、絵がめっちゃうまい。

 でもこういう漫画、最初に期待のハードルを上げまくってくるので、謎が解き明かされたときにガッカリするパターンが多い。だから続刊を買うのを躊躇してしまう自分がいる。

 

大橋洋一『新文学入門』

  再読。これは本当にいい本。

 イーグルトンの『文学とは何か』に沿うかたちで、主要な「文学理論」を紹介する本なのだが、個々の理論を相対化する視点で語っていく。個々の理論の根底にはどんな問題意識があるのか、そしてその理論はどういう欠点を抱えていたがために衰退したのかというのが分かる。現代思想の入門書という側面もある。

 筒井康隆文学部唯野教授』の話題がところどころで出てくるけど、著者が『文学部唯野教授』という小説をどう捉えていたのかは気になる。『文学部唯野教授』は同性愛者に対する差別意識如実に表れている小説なのだが、ジェンダー批評にコミットしている大橋洋一氏が、『文学部唯野教授』を本書の中で特に批判することなく話題に出していることは不思議。

 

フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』 

  この小説にはディックらしい奇抜なアイデアも、予想を裏切る展開もない。あるのは、周りの人間たちの不可解な行動に困惑し、戸惑い悩む女性のモノローグ。

 晩年のディックはSFを書くのを辞めて、もともと希望していた主流文学をいくつか書いた。『ティモシー・アーチャーの転生』もその作品の1つ。ジェームズ・パイクという実在の主教の生涯をベースとした小説で、フィクションではあるが、パイクの生前のエピソードをかなり忠実になぞっている。例えば息子の自殺、ポルターガイスト現象を書いた本の出版、愛人だった秘書の自殺、イスラエルの砂漠での死など。

 こうした出来事が、主教の義理の娘の一人称視点によって記述されている。だがディックはアイデアで読ませるタイプの作家であり、人物描写は決して得意としない。ディック作品の発想の独自性やプロットの奇抜さを指摘する人はいても、登場人物について語る人はいない。ディックの作品に語るべき人物はいないのだ。

 だからこの作品も、その意味では失敗作に近い。核となる人物であるティモシー・アーチャーの人物造形が浅く、主人公に一番近い人間なのにどういう人物なのかよく分からぬまま死んでいく。死の動機も、彼が抱えていたかもしれない葛藤も読者には伝わらぬまま。

 ただ失敗作といっても、主人公のエンジェル・アーチャーの困惑には、ディックの本当の感情が込められているのだろうとは思う。視点をティモシー・アーチャーではなく、義理の娘のエンジェルに据えたのも、ティモシー・アーチャーの振る舞いを客観視する意図がありそうである。

 物語の中盤で、自殺した息子が「交信」してくるという戯言をいう主教に対して、エンジェルは内心では馬鹿馬鹿しいと思いながらも寄り添おうとする。それは、主教が超常現象を信じるのが「そうでもしないと息子の死を受け入れられない」というのを知っているから。「人は信じたいものを信じる」というのが、このまとまりのない小説をつなぎとめているかすかなテーマ。

 

乗代雄介『最高の任務』

最高の任務

最高の任務

 

  「生き方の問題」の、いとこへの性欲にとりつかれた主人公の独白がおもしろい。内容とねちっこい文体が合っている。

 「最高の任務」は芥川賞っぽいなーと思った。アメリカではアカデミー賞をとることを狙ったシリアスなテーマの批評家受けしそうな映画を「オスカーのエサ」(Oscar bait)というけれど、この短編は「芥川賞のエサ」っぽい。文学文学しすぎてる。