つやだしのレモン

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半七捕物帳

 岡本綺堂  『半七捕物帳』 (光文社時代小説文庫)


○印象・感想

 第二巻の解説で、森村誠一氏が「中にはかなり残酷な殺人事件などがあるが半七老人の語り口にかかると、紗を通して透かし見るようなうるんだ光沢と色調を帯びる」と述べていますが、たしかにその通り。綺堂の描く江戸の風俗には「臭み」がなく、年を重ねて艶をます日本家具のようなしっとりとしてた美しさがあります。

 光文社時代小説文庫の「半七」には、表紙に「時代推理小説」とありますが、『半七捕物帳』を「推理小説」としてみた場合には、物足りない作品が多いです。謎を解き明かすのに必要な手がかりが後出しされることが多い上に、犯人解明のカタルシスがない。「怪奇」もその真相が明かされると拍子抜けしてしまうような内容のものが大半。したがって、半七シリーズを「推理小説」として楽しもうとすると肩透かしを食らうでしょう。

 そうではなくて、「時代小説」としての側面に半七の良さがあります。江戸を生き抜いた人々に直に取材しているだけあって、江戸の風俗がリアリティ豊かに描かれています。この小説を読んでいると、まるで江戸の街中を闊歩し、江戸の空気を吸っているような気分になります。暖かい一日の昼下がりなどに、安楽椅子に深く身を沈めて読みたい一冊です。
 


○印象に残った話

 半七シリーズは全69話。その中で個人的に印象に残った作品を10作選んでみました。

 「津の国屋」
 「向島の寮」 
 「あま酒売」
 「海坊主」
 「旅絵師」
 「柳原堤の女」
 「十五夜御用心」
 「大阪屋家鳥」
 「唐人飴」
 「白蝶怪」

 個人的なベストは「旅絵師」です。公儀隠密という魅力的な設定、隠れキリシタンという江戸時代らしい存在、読後の深い余韻など、読み返すたびにじんわりと染みます。半七が登場しない点を除けば完璧な作品ですね。



○昔の言葉集

 物語の中で気になった言葉集。

六部……六十六部の法華経を六十六か所の霊地に納めるために白衣に手甲、脚絆姿で巡礼した僧。六部僧ともいう。(「お照の父」)

洋妾(羅紗緬、らしゃめん)……江戸時代末期・明治時代初期にかけて、外国人を相手にした遊女や妾の蔑称。(「筆屋の娘」)

天一……江戸時代中期、徳川吉宗落胤を自称して浪人たちを集めた山伏。(「女行者」)

夜鷹……辻に立ち客を待つ遊女。(「柳原堤の女」)

女衒……遊女の人身売買を仲介する職業。(「大阪屋家鳥」)

牢名主……牢内を仕切る囚人。(「大阪屋家鳥」)

巾着切り……スリ。(「大阪屋家鳥」)

陰間……茶屋などで男相手に体を売った男娼。(「かむろ蛇」)

市子……梓の弓を鳴らして、生霊や死霊の口寄せをする巫女。(「菊人形の昔」)

極月……12月の別称。(「吉良の脇指」)

ドンタク……日曜日、あるいは休みの日のこと。(「歩兵の髪切り」)

茶袋……あっという間に色づくということが転じて、若い娘が男に恋に落ちることのたとえに使う。(「歩兵の髪切り」)

廻り燈籠……https://www.youtube.com/watch?v=iSLiNySSiVQ(「廻り燈籠」)

取的……下級の力士。(「薄雲の碁盤」)

御賄組……大名の食事を担当した武士。(「白蝶怪」)

(しきみ)……種子に毒をもつ高木。仏事で使用される。(「白蝶怪」)




○印象的な一文集

 藤の花から藤娘の話をよび出して、それから大津絵の話に転じて、更に鷹匠のはなしに移る。 (「鷹のゆくえ」)

 「てめえを調べるのは御用聞きの半七という者だ。楽屋番を相手に微塵棒をしゃぶっている時とは訳が違うから、そのつもりで返事をしろ」 (「お照の父」)

 霊ある蛇はわざわいを未然に察してどこかへ立ち去ってしまったのか、あるいはお通のおびえた眼に一種のまぼろしが映ったのか、それはいつまでも疑問として残されていた。 (「向島の寮」)

 遠い昔に妻をうしなって久しく独身の生活をつづけていた彼は、江戸へくる途中からすでにお万を自分の物にしていたのであった。冷泉家の息女と云い触らしてある美しい行者を、かれは自分の色と慾との道具に使っていたのであった。 (「女行者」)

 解説>なんか妙に色っぽい。


 半七がいつもよりも少し朝寝をして、楊枝をつかいながら縁側へ出ると、となりの庭の柘榴の花があかく濡れていた。 (「海坊主」)

 世のなかには普通の尺度で測ることの出来ない不思議の多いのをかんがえると、半七はまだ容易にどちらへも勝負をつけるわけには行かなかった。彼は賽をつかんだまま神田の家へ帰った。 (「半七先生」)

 「あれ、人殺し」 もう猶予は出来ないので、二人は格子を蹴開いて跳り込むと、小左衛門は早くも行灯を吹き消した。 (「大阪屋家鳥」)

 解説>半七とその手下が女性の叫び声を聞きつけて家の中へ踏み込むと、中の男は行灯の火を吹き消して闇に紛れる。情景がすっと頭に浮かぶ名場面。


 結局かれは家を捨て、妻を捨て、さらに我が身をほろぼすをも顧みないで、かの絵馬を抱いて姿を隠したのだろう。 (「小雪の絵馬」)

 伊之助は真っ蒼になって、その眼から白い涙が糸を引いて流れ出した。 (「妖狐伝」)

 その頃の権田原は広い野原で、まだ枯れ切らない冬草が、武蔵野の名残りをとどめたように生い茂って、そのあいだには細い溝川が流れていた。月は無いが、空は高く晴れた宵で、無数の星が青白く光っていた。時々に吹きおろして来る寒い風におどろかされて、広い原一面の草や芒が波を打つようにざあざあと鳴った。 (「青山の仇討」)

 「はは、あなたの閻魔帳がもう出る頃だと思っていましたよ」 (「吉良の脇指」)

 「その晩にお磯が又、お葉の家をぬけ出して尋ねて来まして、自分は今度吉原へ勤めをすることになった。その訳は次郎さんもよく承知しているが、吉原へ行ってしまえば又逢うことは出来ないから、もう一度逢わせてくれと申します。……(中略)……わたしは心を鬼にして、知らない知らないと云い切って、邪慳に追い帰してしまいました。お磯は泣いて帰りました」その夜の悲しい情景を今更おもい起こしたのだろう、お霜はしくしくと泣き出した。 (「川越次郎兵衛」)

 「あの廻り燈籠を御覧なさい。いろいろの人間の影がぐるぐる廻っている。あとの人間が前の人間を追っかけているように見えますが、それが絶えず廻っていると、見ようによっては前の人間があとの人間を追っているようにも思われます。人間万事廻り燈籠というのは、こんな理窟かもしれませんね」 (「廻り燈籠」)