つやだしのレモン

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The Nine Tailors

 ドロシー・L・セイヤーズ 『ナイン・テイラーズ』 (創元推理文庫


○印象と感想

 イギリスの濃厚な香りが堪能できる古典ミステリ。セイヤーズの長編ミステリは「ピーター・ウィムジイ卿」という貴族探偵が主人公ですが、「貴族」が探偵役というのに違和感を感じて敬遠していました。元来イギリスの貴族の尊大さが気に入らなかったので、どうせ上品ぶった薄っぺらい野郎なんだろうなっていう完全な先入観をもっていました。

 実際に読んでみたところ、イギリス貴族の「鼻につく感じ」は結構あります。「御前」という呼称、衒学的なセリフ、執事とのオシャレなやり取りなんかを読んでいると、僻み癖のある私は「ケッ、お高くとまりやがって」と思わざるをえませんでした。

 しかし、それ以上に小説としての完成度が素晴らしく、読んでいるときに「幸福感」をじんわりと感じました。こういう独特な雰囲気を扱った小説はいいものですね。谷崎潤一郎の『細雪』のような、読んでいるだけで幸せな気分になれる小説です。





 以下、ネタバレ注意!





○死者を送る鐘の音

 「音」「匂い」という要素を小説で表現することはたいへん難しいですが、その表現が難しいということは、想像に任せる範囲が大きいということでもあります。実際にはありえないような甘美な音色、馨しい香りなども、巧みな文章で上手に描写すれば強烈なイメージを読者に与えることが可能です。

 この『ナイン・テイラーズ』「鳴鐘術」なるものを一つのテーマとしています。イギリスの教会には規則にしたがって鐘を鳴らす慣習があるそうで、この小説ではそれが小説のひとつの骨子として物語を支えています。教会自体に馴染みのない日本人からすると、「鳴鐘術」に関する専門用語を次々に出されてもサッパリ分からないです。というか、イギリスに住んでる読者もほとんど分かっていないんじゃないでしょうか。「鳴鐘術」に関する部分は完全にセイヤーズの趣味が暴走しています。

 ただ、その暴走が本作に実に独特な雰囲気を与えることに成功しています。教会の塔の上部から吊るされた8つの鐘にはそれぞれ名前が付けられ、その生い立ちも細かく設定されています。さらに、鐘を鳴らす上での細かなテクニックと技法、そして死者を送る「ナイン・テイラーズ」など、「ロマンチック」という言葉がまさにぴったりな要素で読者をグイグイ惹きつけます。とりわけ、タイトルになっている「ナイン・テイラーズ」は、その荘厳な音色が実際に鼓膜に響くかのような強烈な印象を与えます。横溝正史『獄門島』のラストで実に印象的な形で鐘の音が使われていますが、この『ナイン・テイラーズ』は「鐘の音」を最も巧みに活用した小説といっていいでしょう。小説を読んでいるだけなのに、鐘の音を聞いたかのような錯覚を覚えてしまうほどに、「鳴鐘術」という独特の世界は魅力的で奥行きがあります。

 ミステリとしてみると不満がないわけでもないですが、純粋に一つの小説として完成度が高いです。ひっそりと静まりかえった夜、教会の塔の上部に吊るされた8つの鐘が、月明かりに照らされて長い影を作っている、そういう独特なイメージを脳内で楽しめるのが小説の醍醐味でしょう。もはやミステリのジャンルを超越した名作です。

以下、教会の鐘に関する動画をYouTubeから集めてみました。こうやっていざ目にすると小説のミステリアスな雰囲気はやや薄れますね。でも、ウィムジイ卿らが鳴らした鐘はもっと大きく威厳があったのでしょう。