つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

Flow My Tears, the Policeman Said

 フィリップ・K・ディック 『流れよわが涙、と警官は言った』 (ハヤカワSF文庫)


○印象と感想

 フィリップ・K・ディックの代表作の一つ。1974年発表。速筆で鳴らすディックが、長い年月をかけて推敲を重ねて完成させたのが本書。出版の翌年にジョン・W・キャンベル記念賞を受賞しています。

 ディックのキャリア中盤の作品であり、ずいぶんと落ち着いた語りが特徴的です。それ以前の作品に多く見られる「現実崩壊」は発生せず、足音を忍ばせて夜道を歩くが如くの静かな展開が物語です。登場人物による「会話」に大きな比重が置かれていて、そこでの語りで披露される様々な価値観を拾っていくのが楽しい小説でした。

 翻訳に関して気になる点が一つ。タヴァナーやハートらは“six”という異人種に属する亜人間ですが、それを翻訳ではなぜか「スイックス」と訳しています。発音的にはそのほうが正確ですし、なにより「スイックス」のほうがカッコいいのでしょうが、なぜシンプルに「シックス」と訳さなかったのかが疑問です。「6」という数字を直接想起しうるような翻訳のほうが良いのではないでしょうか。それよりなにより、「スイックス」ではディックの造語だと誤読してしまう人が多いでしょうに。


 以下、ネタバレ注意







○ニセモノの人間

 ディックの小説に独特なのは、「登場人物が凡人である」ということ。誰一人として英雄ではなく、それは主人公であっても例外ではありません。ディックの小説に現れる人々は全て我々と同じ庶民であり、人並みに煩悩を抱き、人並みに上昇志向を持ち、人並みに他者を蔑んでいます。自分の利己心のために仲間を見捨てたり、カネのために汚い仕事に手を染めたり、性的魅力の強い異性を見るとセックスしたいと思ったりします。社会の歯車として働くことが宿命づけられた、表舞台にたつことのない平凡な俗人が、ディックの小説の主人公を担います。私たち読者にとってはもっとも身近な人物が物語を引っ張っていくのであり、別の同じ立場の誰かでもその役が務まりうるという点では、いくらでも「代替可能」な主人公であるともいえます。

 しかし、本作の主人公はそんなディックの伝統からは外れています。『流れよわが涙』の主役はジェイソン・タヴァナーという歌手。数多くのヒットソングを世に送り出した成功者であるとともに、火曜の夜に3時間に渡って放送されるTV番組のパーソナリティーを務める人物でもあります。そのTVショーの視聴者は300万人を超え、全国的に知名度のあるセレブリティです。年齢こそ40代ですが、容貌はずっと若々しく精悍で、女性からの支持が厚いことも特筆すべき点でしょう。日本で言えば、宮根誠司中居正広のようなポジションの人に当たりましょうか。

 物語は、そんな有名人のタヴァナーが「見えざる手」によって世界から存在を抹消され、薄汚いホテルに投げ出されることで幕を開けます。地位、名声、コネ、恋人、IDカードを全て失ったタヴァナーは、自らの存在を取り戻すために下界を右往左往します。その過程で、それまで彼が接触する機会のなかった人々と出会い、その価値観に触れていきます。「人生の道を踏み外したことで、普段は視界に入らなかったような人々の生活に体を浸すことになった男の話」というのが物語りの大筋です。

 小説の冒頭で、タヴァナーは恋人でありTVショーのゲストでもあった歌手ヘザー・ハートと束の間語らいますが、そこでは自らのファンに対する軽い蔑みが表明されます。それは成功者としての驕りであり余裕であり、自分の輝かしい現在に対する自負でもあるのでしょう。しかし皮肉なことに、そのあと何らかの力によってタヴァナーは自らが見下していたような人々の世界に身を置くことになり、そこでもがくことになります。それでも、最終的にはアリス・バックマンの死を通じて自らの存在を取り戻し、元の輝かしい世界へと還っていくことに成功しました。

 前述したように、タヴァナーのような登場人物はディック作品では異質です。物質的な成功を収め、恋人とのかりそめの情事に浸り、自らの老いを嘆く。「結婚していない」というのも注目すべき点です。ディック作品の男たちは、「不倫とかいろんなゴタゴタはあったけど、最終的には婚約or結婚した女性とこれからの人生を送ることに決める」という公式にはまっているのが大半であるのに対し、タヴァナーは特定の女性との永続的な関係を拒み、複数の女性との短い関係を望んでいます。

 以上のことからは、タヴァナーが普通の人間ではないことが示唆されています。物語で明かされているように、タヴァナーは「シックス」の一人です。「シックス」とは「社会の慣習を定め、維持するために貴族的な先代グループから生み出されたエリート集団」で、作品中では断片的に語られるのみですが、登場人物の会話からその全体図をぼんやりと推測することができます。とりわけ重要と思われるのは、バックマンとタヴァナーの会話です。バックマンが自分の子どもの写真を見せて、「子どもへの愛情はもっとも強い愛の形である」と語り「これはシックスには絶対にわからないことだ」と断言します。なぜシックスには絶対に分からないのか? 具体的なことは述べられていませんが、このダイアログからは、シックスは「子どもを作ることが出来ない遺伝的性質をもっている」、あるいは、「子どもを作る能力はあっても、それを単に自らの遺伝子を残す手段としてしか捉えていない」ことが伺えます。エピローグを読んでも、シックスであるタヴァナーとハートに関しては、彼らの子どもについての言及はありません。

 最も強い愛の形だとバックマンがいった「子どもへの愛」を、シックスは持ちえることができない。その意味で、彼らは「人間に見えて人間ではない、ニセモノの人間」であって、SF的にいうアンドロイドです。容姿こそ人間らしいのですが、他人への愛情や共感は出来ず、ただただ物質的な成功のみが目標とされるだけです。遺伝子改変の結果生まれたエリート集団ですから、容貌は魅力的で人々を惹きつけるし、苦境に立たされても動じない冷静さを備えた英雄的人物ではありますが、人間が誰しも持っているはずの些細な能力を持っていない。キャシイやルースやドミニクなど、彼に出会った人々が口々に「あなたは魅力的だ」と言っているのに、関係がその場限りのもので終わってしまうのは、彼が人間らしさを失った人間であるからです。人々を惹きつけるに十分なカリスマ性を備え、社会的成功をプログラムされたロボットというのが、シックスの内実なのでしょう。

 タヴァナーがディック作品の中で異質なのも当然で、それまでの小説の中で嫌悪され忌避されてきた「感情を持たない非人間」が、本作では主人公となって物語を引っ張っています。そして哀れなのは、せっかく人々の価値観に体を沈めるチャンスをもらったのに、タヴァナーはそれを全く生かすことが出来ず、また元いた場所へとすごすごと引き返していった姿です。違った見方をすれば、非人間であるタヴァナーが見えない力によって「人間として生活できる時間」をもらったのに、本人はそれに何の有難みも感じることなく、ただ機械的な生き物だったころの自分へと回帰しようと願うばかりであった、とも考えられます。

 存在喪失中にタヴァナーは4人の女性(キャシイ、ルース、アリス、ドミニク)と出会いますが、彼らは皆、タヴァナーにとっては生きていくための手段としての利用価値しかありませんでした。キャシイはID偽造を作り、ルースは住処を提供し、アリスは発信機を外し、ドミニクはスウィブルを貸しましたが、それに対してタヴァナーは何を彼らに与えたのでしょうか。アンドロイドやロボットのような非人間が主人公の物語は、紆余曲折を経て最終的には人間性を獲得して結末を迎えるという顛末になりがちなのに対し、『流れよわが涙』では、非人間は最後まで非人間のままで、人間としての心を宿らせることはありませんでした。そして、エピローグで語られるように、誰にも顧みられることなく、世界の片隅でひっそりと光を消してこの世から去っていきます。この物語の中で、タヴァナーほど哀れで同情を禁じえない人物はいないでしょう。



○人間らしさ

 タヴァナーが出会うのは、普段ならば彼の視界には入ってこないであろう人々です。ID偽造で生計を立てるティーンエイジャー、アル中で30代後半の人妻、壷を作る小太りの女性芸術家、私利私欲で動く警察署長などなど。彼らはみな「小説の主人公には決してなれないようなタイプの人々」ですが、満足のいく人生を送るために努力し苦悩している人々でもあります。社会に埋没し、その中であがいているような人々にも人生があり、様々な悲哀があり、人には見せない葛藤があるということが、タヴァナーとの会話を通じて読者に伝わってきます。彼らのおのおのが持つ独自の価値観は、彼らの人間らしさの象徴ともいえるものです。バックマンがガソリン・スタンドで最後に見せた黒人への愛情は、いささか感傷的にすぎるほどの場面ですが、あのような危うさ・脆さこそが人間らしさというものです。バックマンをはじめとする矮小な、でも人間味に溢れた人々への暖かい愛こそが、この小説にディックが与えたテーマなのだと思います。

 存在を失っている間にタヴァナーが接触した人たちにとって、タヴァナーとの短い邂逅は、たいへん濃密で印象的な出来事だったはずです。魅力的でミステリアスな男性との非日常的な語らいの間は、彼らの平凡な人生の中で眩しい輝きを放っていた瞬間かもしれません。その数時間の経験は、彼らの長い人生の中で光を放つ点として、幾度も思い出されていく記憶となるのでしょう。たとえ、それがタヴァナーにとっては非生産的で無駄な時間であったとしても。

 ドミニクが20ドルでタヴァナーに売った青い壷は、そのあとタヴァナーによってヘザー・ハートにプレゼントされます。その後、私設の陶器コレクションの一部として人々の眼に触れることになり、陶器ファンの間では末永く愛される品となります。私たちが博物館で眼にする、ガラスケースに入った展示品は、一見しただけでは単なる無機物としか映りませんが、その背後には幾重にも渦巻く歴史があり、無数の人生があるということを示しています。そして、陶磁器のような無機物であっても、人々の心に共鳴する何かをその内に持っているのであれば、多くの愛情を注がれうるのだということも示唆されています。これは、溢れ出るほどのカリスマ性を備えたタヴァナーが、結局は誰からも愛されず、非人間のままに死んでいった事実とは明確な対照をなしています。