つやだしのレモン

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The World Is Mine

 新井英樹 ザ・ワールド・イズ・マイン (エンターブレイン、2012年)


●印象と感想

・暴力と殺人。モンは意味もなく、トシは有意義に。

・第1巻は種を蒔いている段階なので、あまり面白くない。だが、第2巻からの展開に驚く。高まる緊張と焦燥。読み進めていくうちに、退屈だった第1巻には周到に伏線が張り巡らされていたことに気づく。物語はスケールを広げ、群像は理解不可能な振る舞いを繰り返す。総理大臣がいったい何をやっているのだ。最後は地球規模、宇宙規模の話に。スケールでかい、とにかく。



●人物

○モン

・「鬼神」「バケモノ」
 ただもうひたすら暴力に明け暮れる。合理的で平穏な生活とは対極に位置する人。「畏敬」とか「神」を知らずに育った。力が絶対。

・社会性あり
 野性児というわけではない。見境のない暴力という点では社会的な規範を完全に逸脱しているが、人並みに言葉を操れるし、日常生活は十分に送れている。
 モンに違和感を感じる原因はコレ。社会性と動物的本能は反比例するはずでは? 社会に染まる過程で、動物的なトゲは一つ一つ取れていく。でも、モンは電話をかけたり車の運転をこなしているにも関わらず、限りなく反社会的なモンが、なぜ最低限の社会性を身につけているのかは謎。ラストで幼少期が語られるが、それだけでは説明不足。

・殺人→殺せない→殺人
 ヒグマドンと遭遇以後、人が変わったかのように殺人をしなくなる。他人の痛みに共感し、阿倍野マリアを母親として慕う。関谷潤子宅のユニットバスでマリアと話をした後、再び殺人を始める。クマのぬいぐるみに代わって、マリアが新たな母親になった。モンの最初の母は、モンに死ねと言った。モンの二番目の母は、何も言わなかった。三番目の母は、生きていてよいのだと言った。
 マリアに「生きていてよいのだ」と言われたモンは、再び殺人に手を染める。そして、マリアに殺人を教えるために、秋田市街に繰り出してAKを乱射した。これは、「なして殺すの?」というマリアの問いに対するモンなりの答えだろう。生きることを実感するために人を殺す。人を殺しうる能力をもっているからこそ、自分は生かされているし、生きることが出来るのだという単純すぎる思考。皮肉なのは、本当の母親に「死ね」と言われて暴力へと向かったモンが、マリアの「生きてよいのだ」というセリフによってまた暴力を手にしたこと。教わった言葉は真逆なのに、どちらも殺人という結果を生んでいる。

・モンの言葉
 「命は平等に価値がない」「俺は俺を肯定する」といったセリフは、モンが山で出会った実存主義かぶれのレイパー空手家の受け売りである。モンの言葉にオリジナルはなく、幼少期によく聞かされていた言葉がただ口を突いて出てきているだけ。そこに思想的な葛藤もなければ、野性児らしい純真さもない。でも、メディアはその言葉に物語を与えて、稀代の殺人鬼として持て囃す。
 ちなみに、モンが女性を見境なくレイプするのは、この実存主義かぶれの空手家の影響。




○三隅俊也

・モンのシンパ
 モンのもつ力に心酔する気弱な青年。中学生がアイドル歌手に夢中になるのと同じように、モンを崇拝して頭を垂れる。爆弾を大量に作ったのは、モンに振り向いてもらうため。

・殺人鬼として覚醒
 青森警察署襲撃のあと、冬山に逃げるが凍死寸前となり、死の覚悟をする。「神の罰」だとつぶやくが何とか生存。
 電気店に立て籠もるが、そこで母親自殺のニュースを耳にして、突発的な殺人衝動に見舞われ、電気店の親子をナイフでメッタ刺し。トシの顔は母親似だ。母に対する思いは強かったのではないか。これ以降、トシは躊躇いなく殺人を犯すようになる。

・関谷潤子宅を襲撃
 阿倍野マリアと再会後、大館市でヒグマドンと遭遇。その後、自衛隊のヘリをハイジャックして秋田市へ。マリアの旧友である関谷潤子宅を襲う。 
 関谷潤子のワンルームで行われた殺人はこの漫画の中で最も残酷だ(殺人に等級をつけるのも変な話だが)。トシの殺しは悪意に満ちている。目の前のマリアという女の口を塞ぐために、ヒューマニズムを振りかざして自分の道を塞ぐ小生意気な女学生に絶望を味わわせるために、「大量殺人」という最初のモチーフを捨てて、私怨へとひた走る。
 モンの暴力は理由がないだけに災害として割り切れても、トシの殺人は悪意に満ちていて目を覆いたくなる。第1巻でモンがトシに「お前は俺より…残酷でズルイ」と言うが、関谷潤子宅でのトシは、モンより遥かに残忍だ。
 関谷潤子宅でのトシのセリフにはキレがある。「潤子ちゃんがマリアちゃんを身替わりに殺すゆうなら、自分ら親子の命の相談に乗ったるわ!」(4, 153)。マリアがテレビで家族死去の知らせを聞いたとき、「今…ホッとしたやろ。お前のせいで傷つくんは、潤子ちゃんだけ。同等の不幸背負ったつもりでホッとしたはずや。自分の親が死んでホッとするてどんな了見や」(4, 181-182)。限界を超えた人間の言葉には迫力がある。

・父親の投降勧告
「見てみぃ…殺人鬼の父親役としてはまあ合格点やで」(4, 290)
 警察の須賀原本部長の指示で、トシの父親が秋田市内を投降勧告しながら回る。極限状態の人間が絞り出す言葉に日本は「感動」する。それは危機的状態にあるマリアでさえ。「「感動」というウイルスは今や全人類に蔓延し、その感染者に施す治療法はほぼない」(4, 317)。大量殺人を悼みつつ、一方で殺人鬼の親に同情。このように大衆は忙しい。
 マリアがモンを懐柔している間に、トシは関谷親子をナイフで殺害。この場面はTWIMの中では白眉。ワンルームを埋め尽くすピリピリとした空気の中に自分もいるように錯覚する。このシーンのトシの姿は、冒頭で寒いギャグを連発していた人物と同じ人間だとはとても思えない。

・セリフ
「ブチ切れて人殺すんやったらアホでもできる。けど…冷めたまんま殺せるようなったら人間終わりやで」(2巻, 370)
「ひとつだけ…貴重な経験則言うたるわ。殺される者には神も仏も…平等に無慈悲や」(3巻, 199-201)
「生殺与奪のチャンピオンが神様なら、ボクら そこそこチャレンジャーや……ちゃうか?」(4巻, 397)
「弾 除けた――っ!! 格の違いや!!ど下手クソ。殺しは技術やでえ!!」(4)
「背伸びしたってモンちゃんにもマリアにもなれへん。吐き気するほどボク…人間のスタンダードや」(5)
「人殺しても何も感じへん!! 経験してみるもんやで!!殺して殺して殺しまくったら飽きてしもた!! マニュアルいらず!! ほんまちょろいで 努力もいらん!! 人間っ 簡単に死にすぎや!!」(5)




阿倍野マリア

・天罰
 モントシとの出会いは犬を通じて。犬を蹴っ飛ばしたトシモンの前に現れ、モンの顔をひっぱたき、「天罰だ」と言い放つ。トシモンにとっては自分たちを断罪する存在だ。住んでいる世界が違う。

・モンの母として
 トシモンと再会したあとに連れ回される。何度かトシを殺す機会を得るものの、「人を殺してはいけない」という気持ちに阻まれて断念。この点では、青森警察署の塩見課長と似ている。

・共感のしづらさ
 モンと並んで、理解しにくい登場人物の一人だと思う。なぜこうも他人のために奔走できるのかが分からない。自分を盗撮していた塗装工に処女を捧げたのもよく分からない。生きることを大事に、ということなんだろうが、その態度でここまでなんとか生きてきたことに疑問を感じてしまう。そのような生き方は、人間の利己心にぶつかれば簡単に砕けてしまうものだ。彼女の周りには、よっぽど温かい人々で溢れていたのだろう。
 トシのような人間は日本のどこにもいて、マリアのような人間は絶滅危惧種だ。もちろん、マリアのセリフが言うことは正しいのだろうし、漫画のテーマとしても彼女の生き方こそが尊ばれるべきなのだろうが、どうにも理解しづらい。最後、マリアが正気を失ってしまうのは、彼女のような生き方では現代を生きてはいけないということなのだろうか。




○ユリカン

・総理大臣
 由利勘平。総理大臣。本音で語る政治家。ひょうひょうとした態度で、何を考えているか分かりにくい。

・本音で語る政治家
 漫画の序盤では、言葉を弄し、パフォーマンスをすることで大衆の心を掴もうとする軽薄な政治家の象徴のように映ったが、作者の言葉を読むとそうではないらしい。たしかに、物語が進むにつれて、彼が須賀原本部長と同様に、一つの信念の元で動いている政治家であることが分かる。
 信念をもたずに根なし草で生きているのがトシだとすれば、ユリカンや須賀原は対称的な人物だ。彼らには自分の考えがあり、生きる意味があり、行動に責任をもっている。くよくよと思い悩むことなく自分の信条に正直な姿は、一面ではサラリーマン的で単純だが、この漫画ではそこがポジティブに描かれている。

・セリフ
「人類の究極の罪は想像力の欠如です。つまり、バカは罪だ!!」(2, 585)
「バカはっ死刑だ!!」(2, 591)
「腹の底を見せないから友達はいない、身内にも心を置けない。他人が死んでも私は今日を眠りメシを食い明日は笑うだろう。悪に魅かれる世も人も健全だが私には立場と理想がある。私はそのために生きる」(4, 151)




○塩見純一

・挫折と再出発
 青森県警捜査一課長。熱血漢で、部下からの信頼が厚い。青森警察署でトシモンを殺せなかったことを後悔し、都庁の薬師寺と協力して追跡を始める。雪の三中でトシモン一行を追い詰めるも、マリアを誤射&モンを取り逃がしていしまう。
 警察官としてのあり方に最後まで迷ってしまった人物。須賀原は「社会のため」に人質を見捨てるよう命じるが、塩見はそれに猛反対し、結果的にマリアを死なせてしまったことを悔やむ。一人の家庭人としての自分と警察官としての自分を切り離して考えることができなかったことがその後悔の原因だろう。トシに向かって「社会からはみ出すならば、人間…やめれよ」(1, 278-279)と言うが、社会を守るために人質を見殺すことを選びきれなかった。




○須賀原譲二

・冷静な責任者
 秋田県警本部長。冷静。首尾一貫している。「一人の人間の命を救うことよりも、社会の安全を優先する」という警察官としての信念は最後までブレなかった。
 最後、この人物はメディアの前で自殺したが、その理由はどこにあったのか? 人質を死なせた上に、犯人を一人逃がしたことに対して、責任をとったのだろうか。行動が人間を裏打ちするというセリフがあるが、これは事件に対する警察官としてのケジメの取り方なのだろうか。だとすれば不思議だ。上官の言葉を無視し、自分の信念に従って部下に命令を下し、時には情報を捏造してまでトシモン殺害に尽くしたのに、その人物が自殺という選択をするのは不思議である。もしトシモン双方の殺害に成功していれば、彼は自殺しなかったのだろうか。
 須賀原はことあるごとに「社会」という言葉を出し、それを守ることが警察官の使命だと言うが、結局のところ、その社会を守ることができずに自殺をしたわけである。警察の上司や部下たちが須賀原と同じような信念をもっていれば、あるいはマスメディアが物語作りにせっせと励むことをしなければ、トシモンの事件はより早い終結を迎えただろう。信念をもってはいたが、その信念を貫くことは社会から逸脱してしまったようだ。上司の特権を使っても塩見の暴走を止めることが出来ずに、目的を果たすことができなかった。トシモン殺害失敗という結果を受けて自殺をしたのであれば、彼の信条に意味はあったのだろうか。結果のみを求めるのであれば、信念や信条は必要なく、その場の機転さえあればよいにも関わらず。
 ただもちろん、須賀原や塩見の決断はトシモンの薄っぺらい物語とは比較にならないほどの人間性に溢れている。けれども、トシモンのような存在には漫画の中でさえもかすれてしまう。

・セリフ
「加害者は裁かれ罰を受ける。そこに物語の介在を望むのは外野たる人間の奢りである」「より大きな何かに祭り上げる者を私は断罪する」「トシモンと共に人を殺しているのは血に飢えたあなただ」(4, 146-147)
「これより士気高揚のための「正義」を構築する」(4)
「人間とはあまりに不完全な度し難い生き物であるにもかかわらず、神をも恐れず懸命に守るべき命と葬るべき命を常に選択してきたのだ。ならば、差別すること 殺すこともヒューマニズムである」(5)