凄惨な事件が起きるたびに、『ザ・ワールド・イズ・マイン』の須賀原のセリフを思い出す
誰かが誰かを殺す事件をニュースで目にするたびに、新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』の言葉を思い出す。以下は、作中で、須賀原譲二・秋田県警本部長が、記者会見でテレビに向けて語った言葉である。
会見の前に ひと言申し上げたい。
事件に関わるあなた方マスコミと 職務上関わる我々警察 そして、
事件の成り行きを見つめる市民の皆さんも含めて、
自覚せねばならないことがあります。
不幸にも被害者となる人間、その身内、その友人を除く
我々は…
所詮 痛みのない 外野の人間でしかありえない。
彼らは人間である。
彼らトシモンはただの人間であり 事件の加害者だ。
加害者は裁かれ罰を受ける。
そこに物語の介在を望むのは外野たる人間の奢りである。
不安を煽り 興味を煽り トシモンを何に仕立てあげるのか。
希代の殺人鬼、思想なきテロリスト、預言者、鬼神、怪物を操る怪物。
より大きな何かに祭り上げる者を 私は断罪する。
トシモンと共に人を殺しているのは 血に飢えたあなただ。
(『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』第4巻、144-147より)
背景を説明しておくと、「トシモン」というのは作中の連続殺人犯2人組の通称。「トシ」と「モン」という名前の2人の男で、行く先々で殺しを重ねていく。
この2人を捕まえようと、警察は躍起になる。一方で一部の人間は、トシモンの無軌道な連続殺人に共感し、快哉を叫ぶ。トシモンは「社会に公然と楯突く者」、「法の支配に挑戦する者」だとして熱狂し、カリスマとして祭り上げる。
上で引用したのは、そうした世間の風潮に向かって、捜査の指揮官である須賀原が記者会見で投げかけた言葉である。連続殺人犯を「より大きな何か」に祭り上げようとすることは、外野の人間が、殺人をエンタメとして消費することに他ならないという弾劾である。
上はフィクションからの引用だが、同じことは今の事件にも言える。(あえて「今の事件」という。特定はしない。同じような事件はこれからもあるだろうから)
人は凄惨な事件を知ったとき、そこに何らかの物語を見ようとする。トシモンの場合は「希代の殺人鬼」という物語が付与されたが、実際の事件でよくされるのは、「孤独をかこつ者による復讐」や、「親の過度な期待が育んだ狂気」といった物語化である。
なぜこうした物語を人が求めるかといえば、悲惨極まりない事件を、そうした物語の枠にはめこんでしまえたら、ひとまず納得できるからである。また、人によっては、そうした物語として脚色してもらうことで、「日常を彩る非日常」の事件として、テレビやスマホの画面を通してしばらく楽しむことができるからである。
だから、外野の人間は、加害者の家庭環境や生い立ちを知ろうとしたり、被害者のその後を探ろうとする。メディアもそうしたニーズに応えるために、加害者と被害者の周りを踏み荒らしていく。
もちろん、加害者が「なぜ殺人行為に走ったのか」を分析することが完全に無駄だとは思わない。でも、加害者の異常性をことさらに強調したり、詮索好きの外野の人間のエサになるような情報を掘り起こすことにはほとんど意味がない。
とにかく自覚したいのは、私たちの大半は「所詮痛みのない 外野の人間」であること。そして、振る舞いによっては、被害者を傷つける存在になりえること。
俳優の夏目雅子が若くして病死したとき、彼女の母親はマスコミに対して、「これであんたたちの思い通りになったんでしょう」と叫んだという(山田風太郎『人間臨終図巻1』より)。夏目雅子が病室にいたときから、マスコミの容赦のない取材攻勢に悩まされ、疲弊しきっていた母親が、その鬱憤を最後にぶつけたのだ。
凄惨な殺人に、ありもしない物語を求めることは、事件をエンタメとして消費する行為である。それは加害者に加担して被害者をいたぶることに他ならない。だから、そうした人間を、私たちは『ザ・ワールド・イズ・マイン』の須賀原のように、弾劾すべきなのだ。