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『音もなく少女は』 「愛の物語」に偽装された「ヘイトの物語」

音もなく少女は (文春文庫)

音もなく少女は (文春文庫)

 

 

 ボストン・テラン『音もなく少女は』の感想。ネタバレあり。

 

・愛の物語ではなく、ヘイトの物語

 この物語は、表面だけをなぞると「愛の物語」に見える。善良な人々が、悪意をもった男たちの攻撃にさらされて傷つきながらも、仲間からの愛に支えられ、最後には自由を勝ち取る。典型的な愛の物語に見える。

 でも、これは愛の物語ではなく、憎しみの物語であり、社会を覆う「ヘイト」の根源を内包している物語である。

 

・キャラの二極化

 この小説の構造のみを取り出してみると、イヴを中心に強い絆で結ばれたグループが、外敵の攻撃を受け、メンバーを失い傷つきながらも、たえず絆を再確認してより強く結ばれ、最終的には敵を排除し、社会的な地位を得る、という物語である。400ページを超える長編だが、書かれていることをとても単純化して言えば、「敵から攻撃されて、そのダメージを修復して反撃する」ことの繰り返しである。

 だから、登場人物も二極化している。「善良なグループ」と、それを攻撃する「敵」である。「善良なグループ」に属するのは、イヴ、クラリッサ、フラン、チャーリー、ミミ、ナポレオン、クウィーニー、ナタリーなど。そのグループを攻撃する「敵」は、ロメイン、ボビー・ロペスである。

 机の上を中央で区切って、右側に良いやつ、左側に悪いやつを並べるかのような、単純な対立構造である。良い世界と悪い世界とをはっきり区別してくれる親切設計であるとともに、悪を正義が討つ勧善懲悪の物語である。

 

・「社会による公正」ではなく「個人の正義」が優先

 小説の中で何度も強調されるのは、この社会は狂っているということ。本来なら罰を受けるべき人間が野放しになっていて、それを世間が疑問にも思わない状態が「狂っている」と主人公たちは言う。

 だから、イヴをはじめとするグループは、狂っている社会に背を向けて、自分たちの「正義」を優先する。クラリッサを殺したのはロメインで、チャーリーを殺したのはロペスだ。ただ証拠がないので、法は裁いてくれない。しかし、イヴたちは彼らが殺したことを「確信」している。彼らが殺したことは「間違いない真実」としてある。それなのに、社会は2人を裁いてくれない。そんな社会は馬鹿げているし、狂っている。

 たしかに、小説を読んでいる私たちにとっては、ロメインとロペスが殺したという事実は作中ではっきり語られているので、彼らの殺人は「真実」である。だからイヴたちの言い分も、読者である私たちにとっては正しい。

 けれども、作品の世界の中では、殺人の証拠はなく、真実は分からない。そんな状況で社会は裁きを下しようもない。真実を知っていると「思っている」のはイヴたちだけで、その真実というのも彼らの憶測に基づくものである。「あいつがやったに違いない」という憶測。

 「自分たちは真実を知っているのに、なぜ社会は裁いてくれないのか?」という怒りが、イヴたちを動かすし、その怒りがグループの結束を固める。けれどもこの怒りは、ヘイトとまったく同じものである。いま社会に蔓延するヘイト行為もまた、「世間の知らない、自分だけが知っている真実」のために、他者を断罪し攻撃する。

 だから、この小説は、イヴたちが愛によって仲間を守る物語ではなく、ヘイトによって他者を排除する物語なのだ。イヴたちは、彼らの憎しみによって敵を排除し、グループの結束を強化していく。その過程が、この作品では巧妙に隠蔽されて、絆によって結ばれた愛の物語として偽装されている。

 

・私刑の正当化

 これがもっともよく表れているのは、イヴによるロペス殺しである。社会がロペスを裁いてくれないので、イヴが個人の判断でロペスを裁く。イヴたちの「正義」が、ロペスに鉄槌を下すのだ。

 この私刑の正当化もまた、ヘイトに特徴的なふるまいである。ネット上での私刑行為は何度も繰り返されているが、その底にあるのは、社会が裁いてくれないから、その代わりに自分が裁くのだという勝手な正義感である。

 

・ヘイトは楽しい

 「ヘイトはいけない」と誰もが分かっているはずなのに、それでもヘイトが休みなく生産されているのは、ヘイトが楽しいからだ。ヘイトは快楽をともなうからこそ人をひきつける。本作のような、個人の正義を優先して私刑を正当化するような物語が、これ以外にもいくつも生み出されていくことは、その何よりの証拠である。

 ヘイトが楽しいのは、一つの「正義」を理由に敵を作り、その敵に鉄槌を下すことで、自分が有意義な行為を行っているという実感を得られるからである。正義を名目に人を攻撃できることほど気持ちいいことはない。しかもそれは、敵を自分たちの目の見えるところから排除することにつながるので、「正義」に属するグループの絆を再確認する行為にもなり、結束を強化する手段にもなる。場合によっては、社会的なステータスを手に入れることもある。例えば、この小説で、ロペス殺しで自首したフランが世間から同情され、共感を集めたように。

 ヘイトは快楽であり、だから広がっていく。麻薬のように。「愛の物語」に偽装された「ヘイトの物語」である本作が、それをよく表している。ヘイトは麻薬なのだ。