つやだしのレモン

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Barking Dogs Never Bite

●作品メモ

  • 傑作だった。観終わった後に「いい映画を観た」という実感があった。

以下、感想とネタバレ。



●あらすじ

 主人公は2人いる。一人は、大学教授になろうとあがく青年ユンジュ(イ・ソンジェ)で、妊娠中の妻と一緒に、団地の一室に住んでいる。彼の職業は明確にされてはいないが、おそらく大学の博士課程の学生か、あるいは研究室の助手というところだろう。収入はほとんどないようで、経済的には妻に頼り切っている。その引け目からか、妻との関係は上手くいっておらず、つまらないことで諍いになることが多い。

 もう一人の主人公は、ユンジュが住む団地の管理会社で働くヒョンナムペ・ドゥナ)である。彼氏はおらず、女友達と二人で仕事の愚痴を言い合う退屈な日常を送っている。



●犬殺し

 タイトルにも現れているように、この映画では「犬」が重要な役割をもっている。主人公のユンジュは、団地の他の住人が飼う犬を殺していく。彼が犬を殺す理由ははっきりしていない。日々の鬱憤を解消するため、というのがまず思いつく理由だが、それが犬を殺すことと結びつくのはなぜなのだろう。

 少し目を転じて、この映画の中で、大事な要素として存在しているはずなのに、不自然なほどに触れられていないものは何か、考えてみる。ユンジュの周辺には、そんな「物語られるべきなのに物語られていないもの」がひとつある。もうすぐ生まれるであろう、ユンジュの子どもである。子どもの誕生は、一人の若い男にとっては一大事のはずだが、この映画ではそのことにほとんど触れられていない。なぜだろう。主人公は子どもが生まれてくることに対して、もっと苦悩してもいいはずなのに。子どもはこの映画から消えている。いや、消えているのではなくて、何か別の形をとって現れているのではないか。

 そこで、ユンジュによって殺される犬は、子どもの象徴なのではないか、という推測が成り立つ。経済的に妻に頼り切っているユンジュは、自らの子どもの誕生が近づきつつあることに怯えて、それを犬殺しに仮託したのである。今の夫婦二人の生活でも十分に苦しいのに、それにさらにもう一人加われば、必然的にユンジュは働かざるを得なくなる。彼は世慣れした人間ではないから、世間を上手く渡っていけるタイプではない。だからこそ、妻のヒモとしての生活に甘んじて、同年代のライバルたちが昇進していくのを嫉妬しながら眺めているだけだった。彼は自分を「研究肌」の人間だと思っているが、実際は家でグウタラするだけの無能な亭主に過ぎない。

 主人公ユンジュは、この映画の中で3匹の犬に関わっている。1匹目は地下にある捨てられたクローゼットの中に閉じ込めて餓死させ、2匹目は団地の屋上から投げ捨てて殺した。3匹目は散歩中に逃がしてしまったが、ヒョンナムの協力によって取り戻すことができた。

 犬殺しは子どもを殺すこと、つまり流産を連想させる。最初に2匹の犬が殺されていることから考えると、ユンジュは過去に何度か、妻に子どもを堕ろさせているのかもしれない。彼の妻は、映画の終盤に「妊娠した女を会社が雇い続けてくれると思うの?」と言って夫を責めるが、そこには彼ら夫婦の語られぬ過去がしみだしているように見える。ユンジュは今までに何度か、妻に対して中絶を迫っていたのではないだろうか。

 3匹目の犬は、その散歩中に「宝くじ」を拾っていたら見失ってしまった。金銭的な問題があるせいで、犬は家庭から排除されざるを得ない。けれども、妻の退職金が入ったことで、有力者に賄賂を払い、大学教授のポストが得られそうな状況になってからは、彼は必死に「犬探し」を始める。一度は失いかけた子どもを、彼はここで再び手に入れようとする。

 ヒョンナムの手助けによって、ユンジュ夫婦は犬を取り戻した。彼の大学教授就任は決まり、経済的な安定は保証された。もう子どもが生まれても困ることはない。社会に適合できないダメ人間だった彼は、子どもをもつ立派な教授へと変身した。過去に犬(子ども)を殺したことが何なのだ、そんなこと誰だってやってる。賄賂を使った? それがどうした、そんなこと誰だってやってる。生きる上ではしょうがないじゃないか。結果がよければいいじゃないか。大学教授になれて、妻も養える。言うことなしだ。めでたし、めでたし。

 ここまで来ると、原題フランダースの犬の意味も明快である。ネロはパトラッシュとともに困窮の中で死を迎えた。貧困が彼らを死に追いやったのだ。『ほえる犬』の主人公ユンジュは、自分をネロと重ねつつ、未来の自分を想像する。子ども(パトラッシュ)が生まれてしまうと、生活がより苦しくなるのではないか。今よりもいっそう惨めな暮らしを強いられて、最終的にはネロのように虚しい死にいたるのではないか。そんな恐怖に憑りつかれた彼は、犬を殺したのである。



レズビアンと子ども

 もう一人の主人公であるヒョンナムがレズビアンであることは、映画の端々で示唆されている。彼女はデブの女友達としか付き合いがなく、化粧をしないし、男性と出会うきっかけを作る素振りもない。ユンジュとの接触は、恋愛感情の芽生えを予感させるものだったが、彼女は彼に何の好意もみせなかった。映画の最後、彼女はいつもの女友達と山登りに出かける。男性とのつながりは最後まで存在していない。

 ユンジュが犬に対してある種の怯えをみせたのに対し、ヒョンナムは犬に優しい。ユンジュの犬を見つけたのも彼女である。彼女がなぜこれほど犬を可愛がり、犬さがしに熱心だったのかと言えば、それは彼女が子どもを欲していたからである。

 レズビアンカップルが彼らだけで子どもを作ることは不可能である。ヒョンナムとその女友達にとって、子ども(犬)は夫婦の証しであり、家庭を裏づけるものだった。彼ら二人は、道路にとめてあった車のサイドミラーをドロップキックポン・ジュノ映画ではおなじみですね)して奪いとり、それを大事に抱えながら電車で眠る。子どものできない彼女たちカップルにとって、そのサイドミラーが代理だった。彼らが慈しむことができるのはその程度のものだ。



●最後にくだらない感想

 この映画は素晴らしい。純粋に観ていて楽しいし、ユーモアに満ちている。主演のペ・ドゥナの可愛さも最高だ。美しいシーンも少なくない。冒頭で、ユンジュの妻が仕事から帰ってきて、眠りこけるユンジュのそばに座り込む場面などは、驚くほどのリアリティと見事な構図だ。

 こういう名作を観たあとだと、なぜ同じ監督が『スノーピアサー』のような凡作を撮ってしまったのかが不思議だ。『母なる追憶』も良作だったが、『殺人の追憶』のようなユーモアには欠けていた。次回作には期待できるのだろうか。