つやだしのレモン

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今敏『OPUS』 メタフィクションと現実

OPUS 《完全版》

OPUS 《完全版》

 

 『東京ゴッドファーザーズ』『千年女優』『パプリカ』などのアニメ監督として有名な今敏が、『パーフェクトブルー』の制作を始めたときに、同時に連載していた漫画。

 『レゾナンス』という漫画を書いている永井力という漫画家が、ふとしたきっかけで漫画の中に入り込んでしまうというメタフィクション

 

・「打ち切り」がひねりを生む

 この漫画を一言で言うなら「よくあるメタフィクション」。キャラはありきたりだし、「作中のキャラが自分の存在について自問自答する」という物語も今では手垢がついている。メタフィクションという手法自体が一時の流行のようなものだったので、そのぶん陳腐化するのも早い。

 ただ、この漫画で面白いのは、『OPUS』という作品そのものが「打ち切り」となり、未完となっていること。

 この漫画はもともと学習研究社の「コミック・ガイズ」という漫画誌に連載されていたが、「オミック・ガイズ」が休刊となってしまい、『OPUS』も途中で打ち切りとなる。「『レゾナンス』という漫画を書く永井力」という漫画が、雑誌の休刊によって未完となるのである。

 その休刊&打ち切りの顛末が、末尾の未発表原稿に描かれている。この未発表原稿がとても面白い。

 そこまでは「よくあるメタフィクション」だったものに、最後にひねりが生まれている。「『レゾナンス』を書く永井力」の上に「『OPUS』を書く今敏」という層ができて、神様扱いされていた永井力もまた別の誰かの創造物であることになり、さらにその別の誰かである今敏もまた、雑誌の休刊という外部からの影響によって作品の打ち切りを余儀なくされる。

 

メタフィクションと現実

 メタフィクションというのは、もともとは「作品を鑑賞する」という行為そのものに焦点をあてるような手法だったはず。「虚構の物語」を鑑賞することから、「虚構の物語を、現実世界で鑑賞する自分」に視点をうつすことで、作品に触れること自体を物語化しようとする。だから本来は、作品と現実社会とのつながりを明確化するような手法だったと思う。

 でも、この手法は何度も使われこすられていくうちに、そうした「現実とのつながり」という特徴が希薄化していく。その代わりに、物語に少し味付けをするための単なる「技法」としての側面が強くなる。最初は真新しかったのでそれ自体がテーマとなりえたものが、何度も使われるうちに輝きが失われ、単に作品を整えるための道具の1つとしてしか使われなくなっていく。

 『OPUS』を「よくあるメタフィクション」だと感じてしまうのも、メタフィクションの手法そのものに慣れてしまい、物語のギミックの1つくらいにしか感じられなくなったせいである。メタフィクションが単なる道具となって今では、それ自体に真新しさや独自性はないので、細部の工夫で遊ぶくらいしかできない。

 でも、『OPUS』が面白いのは、最後の最後で、「雑誌休刊からの打ち切り」という現実社会の生々しい出来事が突然、物語に絡んでくること。そこまで淡々と進んでいた物語の中に、急に「打ち切り」というあまりにもリアルな現実が入ってきて、作中のキャラクターにも作者にも読者にも冷や水をぶっかける。

 そこまでが「よくあるメタフィクション」だっただけに、その急な生々しさにヒヤリとするのだ。そして、これこそがメタフィクションの醍醐味なんだと気づく。現実とのふいの接触。漫画を読んでいる自分を後ろから刺されるような感覚。

 むしろ、この突然の打ち切りは今敏の思惑どおりだったのではとすら思えてくる。よくあるメタフィクションを描きながら、その途中で急に作品を終わらせて読者に冷や水をかけるという、そういう狙いすましたメタフィクションなのではと思えてくる。

 本作は未完だったので作者の生前は単行本が出なかったこと、作者の没後に未発表原稿を末尾につけて単行本化されたことも、こう考えると皮肉である。こうした作品の発表経緯も、作者の今敏監督にとっては想定通りのシナリオで、そこも含めて『OPUS』という作品なのかもしれない。なんと素晴らしいメタフィクションだろう。