つやだしのレモン

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『アドルフに告ぐ』 本当に「傑作」か?

アドルフに告ぐ 1
 

 

 5年ぶりくらいに再読。なんか勝手に「傑作」みたいな刷り込みがされていたけど、よく読んでみるとそうでもないのではと思った。むしろ、けっこう雑な作品に思える。

 読むのが3回目なので、作品の粗(あら)に目がいってしまっているだけなのかもしれない。以下、気になった点を列挙。

 

・峠草平の造形が浅い

 主人公は3人のアドルフと、峠草平。峠草平は狂言回しのような役割を担っている。いわば3人のアドルフをつなぐ役柄であり、だから登場シーンが一番多い。

 ただ、その峠草平のキャラが弱い。「善良なスポーツマン」程度にしか描けていない。『火の鳥』の「未来編」や「鳳凰編」の主人公たちに比べると、明らかにキャラクターとしての魅力に乏しい。

 ひょっとすると、3人のアドルフの人間性を際立たせるために、あえて峠草平は中立的で無味無臭な人物にしているのかもしれない。ただ、それにしては、アドルフのほうも描き込みが浅い。特にパン屋のアドルフ・カミルは登場シーンも少ないうえに、峠草平のように「善良なユダヤ人」のような造形しかできていない。

 たぶん、人種問題をテーマとしたせいで、キャラクターを勧善懲悪な構図に押し込めすぎているのが原因。『火の鳥』はもっとキャラが伸び伸びと動いているので、テーマにこだわったことで人物が疎かになったように見える。

 

・申し訳程度のエンタメ要素が邪魔

 『週刊文春』に連載された漫画ということで、大人の読者を意識して書かれたのだろうが、そのわりにはエンタメ要素がけっこう入っている。テーマが重めなので、漫画として楽しく読ませるために銃撃戦や格闘シーンを入れたんだと思うけど、逆効果に見える。

 ヒトラー出生の秘密の鍵となる「手紙」をめぐる攻防は、物語に必要なんだろうとは思うのだが、エンタメの定型をなぞっているようで退屈に感じる。

 

・恋愛を描くのが苦手

 手塚漫画を大量に読んで気づくのは、手塚先生は恋愛を描くのが苦手なのでは?ということ。『アドルフに告ぐ』でもそれを思う。

 手塚先生の描く男女関係のほとんどは、「一目惚れ」か「レイプ」。一目惚れしてそのまま付き合うor振られるか、男が性欲にまかせて女をレイプするかの2通り。極端なのだ。

 「最初は別に気にしてなかったけど、ふとした出来事がきっかけで相手に惹かれる」とか、「最初はわずかな好意しか持っていなかったが、相手を知る中でそれが深まっていく」というような、恋愛ドラマにありがちだけど、でもけっこう大事な要素がすっぽり抜け落ちている。恋愛を記号としてしか表現できていない。

 ここから推測できるのは、「手塚先生は恋愛経験が乏しかった」みたいなバカバカしい勘ぐりではなく(というか恋愛経験がなくても恋愛は描けるはず)、「手塚先生は恋愛を描くことにあまり興味が湧かなかったのだろう」ということ。何よりも優先したのは、差別とか生きる意味をめぐって葛藤する人間を描くこと。恋愛はその本筋を支える支流の一つでしかなく、あくまでそういう要素が「必要」だから書いただけで、あんまり重きを置いていなかったと思われる。だから描き方も感情がこもらずに記号的なんだろう。