つやだしのレモン

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遠藤周作『死について考える』 痛みへの共感が、痛みを和らげる

死について考える (光文社文庫)

死について考える (光文社文庫)

 

  遠藤周作の晩年の随筆。キリスト教徒の死生観を知りたくて読んだ。

 遠藤周作は病気がちの人らしく、若い時に肺結核を何度か患っている。30代後半に再び肺結核になったときは、3度にわたって手術を行い、一時は助からないと判断されるところまでいったという。

 そんな人なので、死についてはいろんなエピソードを持っている。晩年は病院改革のキャンペーンにも参加していたらしい。

 本書の中で印象に残ったのは、以下の「痛み」についての一節。

 三十年前に、目黒の伝研病院に入院した時、前にも申しましたように、夜中に、凄い叫び声が聞こえたんです。初めのうちは、東大系の附属病院だから、実験動物の声かなと思ってたんです。翌日、看護婦さんに、あの声は何です、と聞いたら、聞こえましたか、と言うんです。

 その叫び声は肺癌にかかったお医者さんなんだそうで、あまりの激痛にモルヒネを打ったそうです。モルヒネはあんまり打つと死期を早めるものだから、一時間とか二時間とか間隔をあけてから打つのです。もう三十年も前で、当時はペイン・クリニックという痛みの治療法がまだ発達してなかったから専らモルヒネに頼っていたのですね。モルヒネが切れると激痛が起こり、凄い叫び声を上げるんです。その叫び声が風におくられて聞こえて来るのです。

 そんな時、どうするんですか、と看護婦さんに聞いたら、しようがありませんから、私たちは手を握ってあげるんです、と言っていました。手を握ってあげると、一瞬黙るんだそうです。その時はそんな手を握ってやるぐらいで激痛がおさまるものかと馬鹿にしていました。しかしそれから私は別の病院に移って手術を受けたんですが、三回手術を受けたけれど、一回目はそうでもなかったのに、三回目の時は痛くて鋏を突っ込まれたような感じで、モルヒネを打ってもすぐに切れてしまうんです。擦ってくれっ、とか、水をくれっ、と思わず叫んでいました。(略)

 その時看護婦は手を握ってくれたんですよ。私が痛くて思わず手をぐっと握ると、相手もぐっと握るんです。すると変なもんで、この人はおれの痛みをわかってくれるんだと思うとね、痛みがおさまるんです。心理的に鎮まるんです。痛い、痛いよう、と思っていたのが、だんだんおさまっていく感じなんです。
 その後良くなってから私は考えて、どんな痛みでも苦しみでも、そこに孤独感が含まれているんだとわかりました。これがわかっただけでも、あの時の体験は大収穫でした。

 肉体的な苦痛も、この苦しみは誰にもわからん、おれ一人で苦しんでいるんだというふうに思うから、苦痛のうめきも出てしまうんだけど、このおれの苦しみをわかっていてくれる人がいるんだと思うと、苦しみの半分をその人に引き受けてもらっているような感じがして、痛みも鎮まってくるんではないでしょうか。(略)
 だから、医者でも看護婦でも、患者の孤独と苦しみを理解してやることが大事じゃないかと思います。注射一本する時でも、

 「痛いでしょうけど、ちょっと我慢して」

 と言って、痛いだろうけれどもと理解の言葉を一言いうだけで、随分患者の気持ちは違って来ると思います。(Kindle版677ページ)

 痛みを「自分ひとりが引き受けている」と思うとただただ辛くなるが、「誰かにこの痛みを理解してもらえている」と思えるだけで、痛みそのものが和らぐ、という話。

 誰かが痛みで苦しんでいるとき、そばで見守っている人間はただ見守ることしかできないから、つい無力感を覚えがちである。でも、「手を握る」ことなら誰にでもできる。それで少しでも痛みが和らぐのであれば患者にとってはありがたいだろうし、何より見守っている側の気持ちがぐっと楽になる。

 「自分たちもあなたの痛みをわかっている」ことを伝えるだけで、患者の痛みが少しは和らぐということを知っているだけでも、見守る側の人間は救われる。