つやだしのレモン

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藤緒あい『先生、あたし誰にも言いません』 理性と性欲のせめぎあい

  藤緒あい『先生、あたし誰にも言いません』全3巻。

 Kindleでたまにやってる「第1巻だけ無料キャンペーン」のときに読み、続きが気になったので2・3巻も読んだ。

 以下ネタバレあり。

 

 

 引きはエロ。男性教師と女子高校生のセックスというフックで読者を引っかけている。タイトルもまさにそう。

 でも読んでみると、ただのエロ漫画ではない。というか、エロ要素は第1巻の最初にチョロっとあるだけで、それ以降は「親からの性的虐待」というシリアスな話題がテーマの漫画になる。

 シリアスな話題を扱うのであれば、こういうセンセーショナルなタイトルにしないほうがいいようにも思うけど、こういうシリアスな漫画だからこそ、エロをフックにしないと読者がつかないとも思う。

 内容はとても良い漫画です。特に、「教員が女子生徒に向ける目線」を生々しく描いているのが面白い。理性と性欲のあいだでせめぎあって、ふとしたきっかけで一線を超えてしまい、カップルみたいな状態になるけど、最終的には「恋愛感情はただのとりつくろいで、実際には性欲にまかせて体の関係をもった」という事実を受け入れて、それを生徒の親に告白するところまでいく。こういう漫画ははじめて読んだ。

 

 虐待については、考えるべき点が2つあると思う。

 1つ目は、「当事者にとっては虐待が『愛情表現』のように見えることがある」こと。外側から見ると明らかな虐待なのに、当事者にとっては虐待ではなくて、愛情を示す表現の一つだと思われていることがある。虐待関係にあっても、互いに相手に愛情を感じているような場合には、「これは虐待ではなくて、愛情なのだ」と勘違いしやすい。虐待のニュースを見ると、被害者が「でも親のことは好きだった」と言っていることがあり、「なんで?」と思うんだけど、愛情が虐待を隠してしまうんだろう。だから虐待の発見は遅れるし、虐待の加害者も「これは愛情」と思うから続けてしまう。

 このことはこの漫画の中でも少し触れられている。第3巻末尾の大学の授業で、教員が「愛」について次のように説明する。

「あるいは愛が その加害すらも肯定する理由になり得ると思うからではないだろうか」

 

 虐待で重要な2つ目は、「虐待は連鎖していく」ということ。虐待というと、個人が個人に対して私的にふるう暴力、というイメージがあるので、どうしても点で考えがちになる。でも、虐待の事例を読むと、「今虐待している人」は、「かつて虐待されていた人」というケースが多い。親から虐待されていた人が、自分が親になったときに虐待をしている、という場合が割とあるのだ。また、虐待ではなくても、過度の愛情や、過度のプレッシャーにさらされた子どもが、親になったときに子どもに同じことをする、という事例も目にする。

 だから、虐待については、点で見るよりも、点と点の間をつなぐ部分に注目する必要がある。虐待は個人の問題である一方で、広く家族の問題、社会の問題でもあるから。もちろん罪に問われるべきは加害者だけど、ではそれで虐待そのものが社会からなくなるかというとどうだろう。

この漫画の「虐待の加害者」も、個人だけで見るとモンスターである。でも加害者の親にまで視野を広げると、「かつては被害者だった加害者」という姿が見えてくる。

 『プレシャス』という虐待をテーマにした映画がある。その映画の主人公は虐待の被害者である。視聴者は彼女の苦しみに共感し、彼女を虐待する親に対して怒りを覚える。でも映画の最後で、加害者の一人である母親が、ソーシャルワーカーに対して自分の気持ちを打ち明ける。母親として子を育てないといけないという責任と、自分の夫に対する愛情との間に押しつぶされてわけが分からなくなり、ずっと苦しい感情を抱えてここまできたことを、彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしながら訴えるのだ。その姿を見て、それまで悪魔のように見えていた彼女もまた、私たちと同じただの人間であることに視聴者は気づく。この映画は被害者の人生だけでなく、加害者の人生も見せている。虐待がどこからやってくるのか、という難題をつきつけてくるのだ。