つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

福田ますみ『でっちあげ』『モンスターマザー』

 

 ともに「モンスターペアレント」を題材にしたノンフィクション。モンスターペアレントが「いじめ」を口実に学校を執拗に攻撃し、その虚言に生徒の家族やメディアや世間が振り回されるさまを描いている。

 嘘で塗り固めた言葉で他人を糾弾するモンスターペアレントの様子は、もはや「虚言癖」という言葉では片付けられないものがある。彼らは自分の子どもが「いじめによってPTSDになっている」ことを示すために、精神科に行ってありもしない症状を語って診断書を作ってもらったりしている。子どもの病気を偽造するのはミュンヒハウゼン症候群を連想させる。

 

●モンスターを信じるのは誰か?

 「モンスターペアレント」という言葉のとおりに、この2つの事件に登場する生徒の親はまさに「モンスター」のごとくである。他人に誹謗中傷を浴びせ、メディアにも平気で嘘をつくだから、読んでいるとどうしてもそのモンスターっぷりに目がいってしまう。

 でも著者が繰り返し強調しているのは、そうしたモンスターの周りには、 モンスターの嘘を信じ込んで拡散してしまう存在がいること。それは「いじめ」を報道する新聞や週刊誌などのメディアであり、モンスターを弁護する弁護士であり、モンスターの言いなりで診断書を出す精神科医であり、ニュースを見ている私たち世間である。つまり、モンスターを信じてしまうのは私たちである。モンスターの嘘を信じてしまうことで、私たちはモンスターに加担している。

 痛感するのは、人は「事実」よりも「感情」を優先しがちであるということ。人は事実を見ているつもりでも、その事実は感情によって大きく歪められたりする。事実を見ているつもりが、「事実であってほしいと自分が思っているもの」を信じていることがある。

 例えば高校生が自殺をして、その親が「学校でいじめがあったが対応してくれなかった。子どものノートにもいじめを示唆するメモがある」と言ったとする。その話を聞いて、「本当だろうか?」と疑える人はどれくらいいるだろうか。親の言葉が嘘で、事実は別のところにあると冷静に判断できる人はどれくらいいるだろうか。

 生徒がいじめの被害者で、学校はいじめを隠蔽する悪、という構図は「組織に潰される個人」なので、人の共感を得やすい。個人が組織の勝手な都合の被害者になり、かつその被害が隠蔽されるというのはどこの世界にもありそうで、かつ自分の身にも降りかかりうるから、多くの人が信じやすいフォーマットである。モンスターはそのフォーマットを利用して、たくみに嘘を事実のように見せる。だから人はその嘘を信じやすい。

 

●事実を追求すべきプロでさえ、容易に感情に流される

 モンスターの嘘はプロでさえ容易に騙す。この2作のノンフィクションには、本来は事実を追求するプロであるはずの人々が、簡単に感情に流されてモンスターの嘘を信じ込んでしまうさまが描かれている。

 筆頭はメディア。メディアが事件を取材する場合はまず「当事者」の言葉を拾い、かつ明確な結論が出ていない場合には「両論を併記」すべきである。だが、この2事件では一部のメディアが「いじめ被害があったが、教師・学校が隠蔽している」という言葉を鵜呑みにして、当事者への取材をせずに記事を書いたために、それが「事実」となって拡散し、「加害者」とされた側が誹謗中傷で苦しむこととなった。例えば最初の事件では、「いじめを他の子供たちが見ていない」と証言する保護者が結構いた。『でっちあげ』には以下の一節がある。

 しかし、第一報を“スクープ”しながら、自身への取材には消極的な市川を始め、西岡や野中、栗田らが、はたしてどれだけの聞き込みをしたのかは疑問である。もし、一通りのことをやっていれば、浅川親子の良くない評判が保護者の間に広まっていた以上、いやでも耳に入ったはずで、少なくとも、あのような一方的な報道にはならなかったのではないかと思わざるをえないのだ。(『でっちあげ』Kindle版3058)

 次に弁護士。「いじめ被害者」側の証言は嘘が大量に含まれているので、その内容を事前に精査していれば矛盾があることに気づけたはず。だが実際には、福岡の事件では550名もの弁護士が原告側に名を連ね、長野の事件では弁護士が法的根拠がないにもかかわらず校長を殺人罪で告訴している(のちにその弁護士は懲戒処分された)。

 医者もまた事件に加担している。福岡の事件ではPTSD、長野の事件ではうつ病の診断書が提出されたが、それは子どもの言葉ではなくその親の言い分によって作られたものである可能性がきわめて高い。本を読んで思うのは、診断書はわりと簡単に手に入るのだということ。子どもにそのような症状がないのに、親の言葉だけでPTSDうつ病の診断書がもらえるのには驚く。

 

●結局、「事実」を見ようとする態度しかない

 「事実」を見ようとしなかったプロたちを、著者は以下のように糾弾する。

 子供は善、教師は悪という単純な二元論的思考に凝り固まった人権派弁護士、保護者の無理難題を拒否できない学校現場や教育委員会、軽い体罰でもすぐに騒いで教師を悪者にするマスコミ、弁護士の話を鵜呑みにして、かわいそうな被害者を救うヒロイズムに酔った精神科医。そして、クレーマーと化した保護者。

 結局、彼らが寄ってたかって川上を”史上最悪の殺人教師”にでっちあげたというのが真相であろう。(『でっちあげ』Kindle版3158)

 マスコミの一人である著者が、上のように強い言葉で関係者を糾弾する気持ちも分かる。

 ただ一方で、本来なら事実を見るべき専門家が、そろいもそろって感情に流されて事実を軽視してしまうということは、それだけ人が感情に流されやすいのだということを痛感させる。

 ひょっとすると自分は将来、この事件で「体罰教師」と決めつけられた教師のように「嘘の被害者」となることがあるかもしれない。でもそれ以上に、自分が「嘘の加害者」になる可能性のほうがよっぽど高い。当時の自分がこの事件を新聞やメディアで知ったとすれば、「いじめがあった」「隠蔽があった」と単純に信じてしまっていたであろうことは間違いない。事実を見るべき専門家ですら簡単に騙されるのだからなおさらである。著者も以下のように書いている。

 私が、この事件の真相に少しでも肉迫することができたとすれば、川上に長時間話を聞けたことが大きい。さらに、それに先立つ聞き込みによって、既存の報道から受けた先入観を払拭し、ニュートラルな気持ちで取材に臨めたことも幸いした。この幸運がなければ、私もまた、川上を体罰教師と決めつけた記事を書いていたかもしれない。その差はほんの紙一重だ。(『でっちあげ』Kindle版3449)

 

 ということで、心がけないといけないのは、常に「事実」を見ようとする態度を崩さないこと。すごく平凡で当たり前すぎる結論だが、でもそれがとてつもなく難しいことであるということは、この事件の関係者たちが示している。

今月読んだ本 2020年8月

 

・望月優大『ふたつの日本』  

  データをもとに日本の「移民」の現状を説明する本。

 日本に住む外国人の現状については、具体的なエピソードをベースに語る本は読んだことがあるけど、この本みたいに実際の数を出して歴史的な流れや政策の意図を説明してくれる本は貴重。

 特に「特定技能」の立ち位置についての説明は興味深かった。

 

野坂昭如火垂るの墓』 

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)

 

  まだ『エロ事師たち』とこれしか読んでないけど、野坂昭如はほんとうに凄い。唯一無二の作家。

 これは短編集で、どれも同じような時代設定と同じような人物が出てくる。戦争によって変わってしまった日常に翻弄される人たちの話。というと単なる戦争苦労体験になってしまうが、細部の丁寧な描写、充満するユーモアを独特な文体でくるんでお届けされるので、どれも胃もたれするくらいに強烈である。「海宝麺」「撞球場」「青桐」「大久保彦左衛門」みたいな知らない単語がたくさん出てくるのも時代設定のリアリティを高める。

 

・岡田索雲『鬼死ね』1-4 

鬼死ね(1) (ビッグコミックス)

鬼死ね(1) (ビッグコミックス)

 

  これは素晴らしい。漫画に限らずフィクションをたくさん読んでいると、面白いはずのものに対して素直に「面白い!」と感動しにくくなってくるけど、この漫画は「面白い!」という感動にずっとひたりながら読めた。得体のしれないものを読んでいるときのワクワクする気持ちがある。

 『ゴールデンゴールド』と同じで、「こういう漫画」と説明するのが難しいタイプの内容。ただ基本的にはギャグ漫画だと思う。後半はなぜか『HUNTER × HUNTER』みたいになる。そういえば主人公の2人はゴンとキルアの関係性にそっくり。

 未完で終わってるけど、4巻まででも十分に楽しめる。

 

・岡田索雲『メイコの遊び場』1 

メイコの遊び場 : 1 (アクションコミックス)
 

  『鬼死ね』の流れでこっちも読む。著者の最新作。

 日本の伝統的な遊びをする子どもたちのパートと、メイコの怪奇を見せるパートの2つで構成されている漫画。

 1970年代の設定らしく、「昭和の日本」を描いているはずなんだけど、でもそんなに昭和な感じがしない。子どもたちの遊びと夜のメイコのお仕事が話の中心で、生活の場面があまり描かれていないからか。

 

・うめざわしゅん『一匹と九十九匹と』2 

一匹と九十九匹と2

一匹と九十九匹と2

 

  Amazon Prime Readingで読む。きれいに全うに正しく生きている人間に対して、悪意をぶつけて反応を見たくなる気持ち、分からなくはない。

 

草水敏・恵三朗『フラジャイル』1-3 

 Kindleで無料だったので3巻まで読む。医者のきれいなところと汚いところをしっかり描いていて面白い。大げさに描いている部分もあるのかもだけど、「医者の診断ミス」や「製薬会社のあくどい治験」にはへーと思う。神聖な場所というイメージのある病院の衣を剥ぎとって、人間らしい方向にぐっと近づけるような内容の漫画。

Skyrim Special Edition レビュー

 いまさらSkyrimで100時間くらい遊んだのでレビュー。Modは入れずバニラで一通りプレイ。

 

Good!

・風景が美しい

・ダンジョン探索が楽しい

 

Bad!

・お使いばかりのクエス

・大雑把なゲームバランス

 

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どこを切り取っても絵になる

 

  風景が美しいのがとにかく素晴らしい。どこを切り取っても絵になるくらいに世界が作り込まれている。「ファンタジー世界で冒険したい」という期待への最高の回答。

 一方で、クエストの出来には全体的に不満。また、敵の強さのバランスがおかしい。自分のレベルに合わせて敵も強くなるのだが、そのせいで後半のバンディッドたちはスカイリムを征服できるんじゃないかと思うくらいに強くなる。

 

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2匹のドラゴンに同時に襲われることもある

 

 以下、クエストに対しての文句。

 無数に存在するクエストの質は全体的に低い。質より量といわんばかりの大量のクエスト群。前作のOblivionは「お使いクエストばかり」と批判されたが、Skyrimでもそれは変わらず。「あいつを倒して」「あの人を説得して」「遺跡に行って〇〇を取ってきて」みたいなクエストが大量にあるだけ。肝心のメインクエストも掘り下げが足りず中途半端で達成感に欠ける。

 もちろん「クエストなんて無視して自分の好きなように冒険すればいい」という意見には賛同する。自由度の高さを売りにしているゲームだから自分で楽しみ方を考えればよく、クエストに縛られる必要はそもそもない。でもElder ScrollsシリーズやFalloutシリーズをプレイして必ず思うのは「クエストが面白ければもっと楽しかったのに」ということ。

 

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ドラゴン vs マンモス

今月読んだ本 2020年7月

 

・加藤智大『解』

 

紀田順一郎『東京の下層社会』 

 

森博嗣すべてがFになる

  読んだあと、冷静に考えると「動機は?」とか「なんでそんな面倒なことを?」みたいな疑問が湧いてくる。でも読んでるときはあんまり気にならない。雰囲気作りがうまいからか。

 「理系」の小説、と評価されてるけど、キャラの造形や物語の展開は特に理系っぽくはない。小説の醍醐味は論理や秩序をすっ飛ばして勢いや感覚の力を味わうことだと思うが、この小説はまさにそういう勢いや感覚の要素が強くて、小説らしい小説だと思う。冷静に考えると「?」な要素はいっぱいある小説だけど、読書中はその「?」を感じさせないようなパワーがある。

 

中島らも『今夜、すべてのバーで』  

今夜、すべてのバーで (講談社文庫)

今夜、すべてのバーで (講談社文庫)

 

  アルコール依存症になった人が主人公。中島らもの実体験に基づく。依存のありさまを淡々と描いていて興味深い。

 小説としての完成度はいまひとつに思った。主人公の親友とその妹、医者などの登場人物がハイテンションでまくしたてたり啖呵を切ったりするのは、演劇ならいいかもだけど小説だとリアリティを損ねる。特に、アルコール依存症を扱うシリアスな小説だと。

 

荒木飛呂彦荒木飛呂彦の漫画術』   

  ジョジョの作者が説く、王道の少年漫画の書き方。

 若手時代に原稿を編集者にボツにされまくり、「いかに読んでもらうか」を研究したという話が面白い。読者に興味を持ってもらうために、1ページ目の作り込みをしたという。他の漫画や、映画の技法も研究したとか。

 

・山本章一『堕天作戦』1-5 

堕天作戦(1) (裏少年サンデーコミックス)
 

 ジョージ・R・R・マーティン氷と炎の歌」シリーズみたいな陰鬱な雰囲気の物語だけど、その暗さを和らげるような気が抜けるようなユーモアが散りばめられていて面白い。緊迫したシーンなのに、間抜けなキャラやセリフで笑っちゃう。

  魔術のある世界でのバトルものだけど、かっこいいヒーローは出てこなくて、みんなどこか間抜けである。めっちゃ強い能力持ってるのに見た目がモブっぽかったり、言動がダサかったり。「完全無欠の英雄は絶対に出さない」という作者の強い意思を感じる。

ゲーミングノートPCを購入

 Asusの「TUF Gaming A15 FA506IU」を購入。用途はゲーム。SteamでSkyrimやWitcher3を遊びたい。

 5月末に発売されてから話題をさらっているゲーミングノートPC。AMDRyzen 7を搭載しているノートPCはまだ少ないため大人気。

 

Good

・スペックが高い

・コストパフォーマンスがよい

 「Ryzen 7 4800H」「GeForce GTX 1660Ti」の組み合わせで13万円は安い。まだ使って1週間弱だが動作は安定していて、不具合は特にない。

 

Bad

Asusの対応がまずい

 パソコンを買った経験は少ないが、Asus Japanの対応はその中でもダントツでワースト1位。連絡が遅い・少ない・見づらい。サポートの体制そのものに根本的な問題がありそう。

・CPUの温度が100度を超えて心配

  Skyrimを最高設定でプレイしてるとCPUの温度が100度を超える。最高で104度までいった。これは大丈夫なのか?

 

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 天板は高級感ある。

 

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 キーボード周りの材質はやや安っぽい。でも慣れれば気にならない。

紀田順一郎『東京の下層社会』 急速な近代化の犠牲者

東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)

東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)

 

  主に明治時代の日本の「下層社会」の実態を明かす本。国が進める急速な近代化の犠牲となり、使い捨ての労働者として泡のように散っていった人々の話である。

 当時は福祉の概念もまだ確立されていなかったので、人間の命の扱われ方がとにかく雑。いくらでも代えのきく便利な道具くらいの認識で人間が消費された。

 以下、本書でも特に印象に残った部分をピックアップ。カッコ内のページ数はKindle版の数字。

 

・近親相姦

 明治時代の中頃、東京には各所にスラム(貧民街)があった。日雇い労働者や物乞いが、狭い家屋にひしめくようにして暮らしていた。こうしたスラムの様子は、当時も松原岩五郎『最暗黒之東京』(1893)や横山源之助『日本の下層社会』(1899)にも描かれている。

 スラムの家屋の多くは長屋で、無灯火であったため、近親相姦や強姦が多発した。親子間、きょうだい間での近親相姦や、一人暮らしの女性の強姦の事例が紹介されている。

 中でも、「井上おはつ」という女性は、内縁の夫がありながらも、弟や実子と近親相姦し、さらに隣室の男とも通じていたため、夫に殺害されたという(p. 236)。

 

・物々交換の飴屋

 大阪の「名護町」という場所の貧民街の話。

 流し売りの「飴屋」という仕事がある。飴を入れた箱を引いて街を歩き、物々交換で飴をあげる代わりに物をもらい、それを売って生活する。

 飴の代わりにもらうのは「蝶番、欠けた水晶玉、針金、雪駄の打ち金、鍋のつる、柄の抜けた柄杓、蝙蝠傘の柄」(p. 486)など。

 

・ゴミ山の甘味

 ゴミの埋立地で焼却されようとしているゴミをあさり、金目のものを集める仕事。

 ゴミには生ゴミも混じっているので虫がたかっている。「スーッと腕を一撫でしただけでも、掌いっぱいの蝿をつかむことができる」(p. 652)ほど。

 こうしたゴミあさりに慣れた人間だけが味わえる「甘味」がある。ゴミ山をあさっていると、果物が発酵してドロドロになったものがたまに出てくる。ゴミあさりはそれにむしゃぶりついて味わうという。とても甘いらしい。

 

・ゴミ箱に住む浮浪者

 宿に困った浮浪者の中は、ゴミ箱に住む者がいたという。

 特に雨の日や冬などには、野宿の場所に困る。ゴミ箱に入ると、ゴミが体を覆って温めてくれるので、野宿よりも快適らしい。

 しかも、ゴミ箱の中には生ゴミもあり、それを食べれば食にも困らない。ある浮浪者は、夜になるとゴミ箱の中に入って、投げ入れられる生ゴミを食べるのを習慣にしていた。

 

・もらい子殺し

 当時は中絶の手段が乏しく、「しかたなく生んだ子」が多かった。そうした子は「養子」として出され、いくばくかの養育費とともに別の人にもらわれることがあった。

 これを悪用して、何人もの子どもを養子としてもらって養育費を受け取ったあと、子どもは片っ端から殺してしまうという、いわゆる「もらい子殺し」を行った人間がいた。明治以降、大量のもらい子殺し事件は少なくとも4件発生したという(p. 1467)。


・浅草の有名な娼婦「お金」

 「お金」という名の娼婦は浅草では有名な人物で、「彼女の洗礼を受けぬ者は労働者でない」(p. 2267)と言われたほど。

 もともとは江戸幕府直参の武士の長女だったが、倒幕後の生活苦ゆえに16歳のときに娼婦として売られたという。当初は色街で人気の娼婦として活躍したが、加齢とともに街娼として街に立つようになり、50歳ころまでそれを続けた。

 晩年はアルコール依存症となり、寺の床下を寝床にして物乞いをして暮らした。物乞いは浅草ではなく日暮里や南千住で行っていたが、「なぜ浅草公園で物乞いをしないのか」と人に問われると次のように答えた。

「旦那、こうまで落ちぶれた姿をあの盛り場のエンコ(公園)でさらしたくはありません。これでも昔は知られたお金ですよ……ボロをさげケンタ(門づけ)になったと笑われるのも嫌ですからエンコには行きません」(p. 2274)

 

・酷使される女工

 明治時代の女工の酷使は有名。女工の惨状をつづった『女工哀史』はたしか日本史の教科書にも載っていたはず。

 女工が働く工場は織物工場が多かった。織物を生産するという関係上、工場内は換気されることが少なく不潔だったため、気管支系の病気や眼の病気が多発した。中でも「トラホーム」という伝染性の目の病気がひどく、失明する女工も多数生じた。

 

・なぜ福祉政策が遅れたか

 明治時代の日本の福祉政策が極めて低水準だった背景は、「働かざる者食うべからず」という思想があった。著者は以下のように語る。

そもそも日本人の多くがこのように“働かざる者食うべからず”のスローガンをかかげ、火の玉のように精進してきたのが近代の歴史といえるからだ。しかし、貧困を倫理面だけでとらえることによりその構造的理解が阻まれ、あまつさえ低福祉政策を維持しようとしてきた明治以来の制作に口実を与えていることに気づかなかった。昭和戦前までの社会福祉が欧米先進国に比して著しく遅れた一因として、国民総生産の比がアメリカの100に対して日本が3(1940年度)にすぎないという国力の差も考えなければなるまいが、根本的には日本人の意識の奥深いところにある貧者に対する倫理的な蔑視ということにも大きな原因があったと思われる。(p. 1295)

加藤智大『解』 激烈な処罰感情

解 (Psycho Critique)

解 (Psycho Critique)

  • 作者:加藤 智大
  • 発売日: 2012/07/01
  • メディア: 単行本
 

 

 秋葉原通り魔事件の犯人が本を出していたと知ったので、読んでみる。

 

・事件を起こした理由

 2008年に起きた秋葉原通り魔事件の犯人が、「なぜ自分が事件を起こしたか」を説明する本。

 著者(加藤)はそれを以下のようにまとめている。

 事件の原因は3つあると自己分析していた、と最初に書きました。私が掲示板に依存していたこと、掲示板でのトラブル、そしてトラブル時のものの考え方、としてましたが、今、より正確に書き直せば、社会との接点の少なさを全て掲示板でカバーしていた私の生活、掲示板でのトラブルをトラブルにしてしまった私の性格、そして、痛みを与えて相手の間違いを改めさせようとする私のものの考え方の3つ、ということになります。(159)

  著者は事件を起こした理由を3つにまとめているが、一番の直接的な理由は「掲示板で自分に成りすました人間に罰を与えたかった」こと。

 事件前、加藤智大はとある掲示板に熱心に書き込みをしていたが、そこに自分に成りすます人間が現れた。その成りすまし行為に強い憤りを感じ、何か罰を与えたいと思ったが、匿名ゆえに有効な対策がない。そこで、掲示板で「事件を起こす」と宣言し、実際に大きな事件を起こせば、成りすまし犯が「自分のせいでこんな事件が起こってしまった」という罪悪感を持つと考え、実行した(p. 60)。

 これが事件の動機。そんな理由で人を殺せるのか。

 

・「人とつながりたい」

 事件を起こしたのは、掲示板に現れた成りすましに罰を与えたかったから。著者がそれほどまでに掲示板に執着していたのは、「人とつながりたい」という欲求があったためと説明している。掲示板は人とのつながりを感じられる唯一の場所で、そこを荒らされたことが許せなかった。

 著者は社会との接点を失って孤立することに強い恐怖を感じるという。だから、なんとかして社会との接点を作ろうと動いている。

 社会とつながる一番てっとりばやい方法は、「金」を使うこと。自動車の販売員の言葉に乗って高価な車を買ったり(p. 19, 36)、メイドカフェで大金を使ったり(p. 25)。金を使えば人とつながれるので、著者は稼いだ金をわりと躊躇なく使っている。

 職場の人とのつながりもあった。著者は人付き合いがよく、会社の飲み会によく顔を出したり、同僚との話のタネを作るために秋葉原で買い物をしたりしている。だが、事件を起こす3日前に会社を辞めており、職場の人々とのつながりを失った状態だった。

 

・激烈な処罰感情

 孤独が怖くて社会とのつながりが欲しい。でも現実社会でのつながりを失ったので、掲示板への依存度を深める。

 だから掲示板を荒らされたことが許せずに、通り魔事件を起こすわけだが、それだけの大事件を起こす背後には、著者の強い処罰感情があった。

 著者は、自分を誤解したり、攻撃してきた人間に対して、「罰を与えたい」という欲求を強く持っている。本ではこれを「相手の間違った考え方を改めさせるために痛みを与える」(70)と説明している。事件を起こしたのも、掲示板の成りすましに罰を与えたかったから。

 そして、著者は「痛みを与えて改心させる」という考え方ことそのものは、世の中にありふれていると考えている(71)。例として以下の列挙をする。

 いくつか書いてみますと、例えば、メールの返信が遅い彼氏の弁当にタバスコをふりかける彼女、夜間にハイビームのまま向かってくる対向車に自分もハイビームで応じるドライバー、宿題を忘れた生徒に往復ビンタをする教師、ミスをした選手を殴るコーチ、賃上げ要求が通らずにストを打つ労働者、無罪を主張する容疑者を威圧して自白をせまる取調官、のろのろと道をふさぐ一般車をあおるトラック運転手、門限を破った子供の食事を抜く親、国民の苦しみを無視する政府に向けてデモを行う市民団体、反対票を投じることをチラつかせる与党議員、解散をチラつかせる総理大臣等、全て自分が正しくて相手が間違っていると考える者が相手を攻撃し、様々な形の痛みでもって、間違った考え方を改めさせようとしているものです。戦争は、その究極です。(p. 71-72)

  著者の行動に欠けているのは、「痛みを与えて改心させる」行動に出るまえに、対話での解決を探ろうとすること。他人から「攻撃」されたと感じたときに、著者はその攻撃に報いる攻撃をすぐに考えて行動に移そうとする。

 例えば、愛知の工場での仕事を辞めるときには、上司が困るような状況をあえて作ってから辞めている(20)。派遣会社を辞めるときにも、「フォークリフトの免許をとらせてくれない」という不満から、派遣先に無断で欠席して、派遣会社にクレームがいくように仕向けている(24)。自動車事故での自殺を計画したときも、自分と一緒にいてくれなかった友人たちに「自殺」をほのめかすメールを送り、彼らに罪悪感を与えようとしている(27)。青森の運送会社を辞めるときには、「真面目に働いている自分ではなく、他の人がひいきされている」ことに不満を感じていたので、トラックをすべて破壊する計画を考えている(37)。

 自分をないがしろにした人間に罰を与えたい、後悔させたいという気持ちが強い。著者は「自分が正しい」と思っているので、それを相手に分からせることも正当な行為だと考えている。対話ではなく、罰を与えることを選ぶのも、自分が正しいから対話の余地はなく、相手に自分の正しさを分からせる必要があったからだと考える。

 こうした処罰感情は、被害者意識の強さの裏返しである。本当は敵意のない他者のふるまいを、「自分への攻撃」と誤解する。事件前に職場を辞めたのも、「自分の作業服をいたずらで隠された」と考えたせいだが、それは後に誤解だと分かっている。

 自分が被害者となることに敏感で、だから他人の行動を「自分への攻撃」と見誤りがちで、その攻撃にいかにして反撃するかに夢中になってしまう。この、処罰感情と被害者意識のコンボが、最悪の事件を生んだ。「人を殺したくない」という欲求よりも、「処罰感情を満足させたい」という欲求のほうが強かった。それくらい、著者の処罰感情は激烈で、まるでその感情に取り憑かれてしまったかのように極端な行動に走る。

 そして、著者がこの本を出版したのも、この処罰感情と被害者意識が理由。著者は「事件を起こした動機が誤解されている」ことに強い憤りを感じていて、この本を書いたのは自分の動機を正しく知ってもらいたかったから。メディアが作りあげた自分のイメージを「攻撃」だと感じ、本当の動機を表明することでメディアに反撃し、罰を与える行動をとっている。

 

・社会との接点を複数確保しておくこと

 本の最後に、「どうすれば通り魔事件を防げたか」を、著者が分析している。

 社会との接点が「掲示板」しかなくなってしまった状況が、事件を起こす理由になったと著者は分析している(個人的にはそこよりも処罰感情の強さに原因があるように思うが)。 

 掲示板はあくまで社会との接点のひとつでしかなく、それで全てをフォローしようとしたのが間違いでした。…(中略)…宮城の会社や青森の運送会社で危うく事件を起こしそうになっても、それらを自分から切り落としてしまうことで思いとどまってきたように、今回も掲示板を切り落としてしまえば事件は起こらなかったというのはひとつの可能性です。それができなかったのは、私が自分の中で掲示板に大きな役割を持たせてしまったことが原因だったと考えています。(49)

 私は、社会との接点を確保しておくことで思いとどまる理由も確保しておき、そこに逃げられるようにしておくことが、似たような事件を防ぐ対策になる、という結論に達しました。もっと簡単な言葉にすれば、「まあいいや、それより〇〇しよう」と思える「〇〇」をたくさん集めておく、ということです。(152)

 ですから、もう一度同じことを書きますが、そうした逃げ場が無くならないよう、社会との接点を確保しておくことが対策になるといえます。私のように「自分」が無い人も、様々な社会との接点を確保し、事件が思い浮かんでもそこに逃げることで思いとどまってくれたら、と思います。(153) 

 社会との接点を複数確保しておけば、そのうちの一つを失っても「まあいいや」と思える。社会との接点の数が、心の余裕になるということ。