つやだしのレモン

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マーティン・クルーズ・スミス『ゴーリキー・パーク』 ソ連が舞台のミステリー

ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)


 冷戦下のソ連が舞台。作者はアメリカの推理作家だが、精緻でリアリティ溢れるモスクワの描写。ただもちろん、「冷戦のさなかにアメリカ人が見たソ連」ということは考慮して読み進める必要あり。

 体制下のソ連は治安が良く統制のとれた社会。というのは当然表面上で、社会の忌むべき部分を法律によって覆い隠してるのが本当の姿。しかも、隠しているのはほんの上っ面だけで、本来は存在しないはずのホームレスや売春婦が公然と街を闊歩している姿に、ソ連社会の矛盾が露呈している。

 土台が嘘でできているような世界では、人々は小さな嘘を積み重ねていかなければ生活できない。より高い地位を得るために党への忠誠を誓うポーズをとったり、自らの労働に対して十分な賃金が得られないから不正に資金を横領したり、犯罪の数を調整するために警官は眼前の犯罪に見てみぬふりをしたり。こういった不正は勿論どこの社会でもあるものではあるのだが、ソ連ではそれが恒常化している。そこでは不正を追及することが不正になる。

 こういう小さな不正の積み重ねが人々の性格を汚し、無味乾燥で非干渉的な社会を作っていく。この本で描かれる犯罪は、そういう社会の雰囲気が作り出したものである。主人公であるレンコ捜査官は出世欲が少ない個人主義者だが、それゆえに誰よりも優秀で誰よりも世渡り下手である。妻は職場の同僚と不倫して家を出て行き、信頼していた部下は謀殺され、長年の親友には裏切られて命を売られる。けれども、主人公が惨めなのがこの小説の肝ではなく、そういう風に主人公を追い込んでいく周りの人間に対して惨めさを感じさせるようになっているのが、この小説の良いところ。

 脇役もいい味を出している。解剖医レヴィン、人類学研究所教授アンドレエフ、アメリカの刑事カーウィル、情報屋ツイピン。冷戦時代のソ連が舞台ということで、いささか時代遅れの感もあるけど、細部にまでこだわりのある、読み応えのある小説。