つやだしのレモン

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Cien Años de Soledad

G・ガルシア=マルケス 鼓直訳 百年の孤独』 (新潮社)


●印象と感想

 ラテン・アメリカ文学といえばこの一冊。何度かこれの書評を読んだので、読む前からぼんやりと結末を知っていた。実際に読むと、やはり抜群に素晴らしい。読書に慣れると新たな発見や喜びは少なくなっていくが、この本は久しぶりに「新しさ」を実感させてくれた。

 こういう「一つの家族の歴史」を扱った作品というと、まずは『楡家の人びと』が思い浮かぶ。『楡家』自体は、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』からインスパイアされたものらしいが、そちらは未読。『楡家』は地方の大きな病院を経営する一家族の歴史を扱った半自伝的小説で、一族の栄枯盛衰を淡々と描いている点では『百年の孤独』とたいへん似ている。



●一つの場所で渦を巻く物語

 百年の孤独はマコンドという村が舞台。マコンドがどこにあるかはよく分からない。自分のイメージでは、山に囲まれた盆地に立つ小さな村だが、立地に関してはそれほど詳しい記述はない。交通の便はそれほど悪くはないようで、時々ジプシーが流れ着いたり、バナナ農園が作られたり、鉄道の路線が敷かれたりと、繁栄に向かうだけの素質を備えた場所ではある。

 一つの場所を巡る物語はロマンチックである。ある特定の場所で巻き起こる物語を幾世代にもわたって積み上げていくことは、その場所の歴史を作り上げることに等しい。ブエンディア家の物語を読むという経験は、マコンドという小さな村の歴史に触れることである。ブエンディア家の人々の生活の場であり、生まれる者もいれば死んでいく者もいる。ある者は村へと移り住み、ある者は村を去っていく。マコンドは架空の場所であるはずなのに、『百年の孤独』を読み進めていくと、そこには物語の歴史が息づいているように感じられる。

 アメリカの推理小説ウィリアム・アイリッシュ『聖アンセルム923号室』という作品がある。小さなホテルの一室を訪れる人々の姿を描く連作短編である。この小説では、冒頭に登場した若い女性が、最後に老女となって再びホテルへとやって来る。その場面はこの小説のハイライトで、ふつうの読書では体験できないような、しみじみとした感動に満ちている。ホテルの一室で、若い頃の自分を思い出しながら時を過ごす女性の姿に、私たちは時間の流れを見いだす。時を経ても変わらぬ場所と、時を経て変わった人間との対比に、言いようのない感動を覚えるのである。

 『百年の孤独』はまさにそのような小説で、マコンドという場所でブエンディア家が織り成す物語には歴史性がある。小説世界における「場所」と「時間」には不思議な相性の良さがあり、物質的なものと物質的ではないものが、奇妙な共犯関係を結んでいる。ブエンディア家の人間のエピソードはどれも奇抜で面白いが、この小説の魅力はなんといっても、行間ににじみ出す歴史性であり、一つの場所での物語が生み出す時間性である。



●ラテン・アメリカの底知れなさ

 「異国情緒」という要素は、ラテン・アメリカ文学が流行った理由の一つにあるはず。ラテン・アメリカと言って思い浮かぶのは、「開放的」「陽気」「熱気」「乾燥」「太陽」「呪術信仰」「革命」「ひげ」などなど。このような印象自体が相当なバイアスに基づいてるのだろうが、それは私たちとラテン・アメリカとの接点が極端に少ないからである。アメリカやヨーロッパとはメディアを通じて強い繋がりがあり、テレビやネットを通じて文化的に交流し、旅行や留学で現地の生活に触れることも少なくない。とりわけ、インターネットの台頭以後は欧米との距離はぐっと縮まり、その国の良いところや悪いところを大体は知っている。だから、かつてはあっただろう欧米への「憧れ」や「幻想」はもはやほとんど消えてしまい、日本と同じように平凡さと退屈さが混在している国であることが分かってしまっている。

 一方で、ラテン・アメリカはまだまだ未知の土地のままだ。ブラジルやアルゼンチンぐらいならサッカー関連で話にも出るが、『百年の孤独』の舞台であるコロンビアに関して知っていることはせいぜい「バナナ」くらいだ。チリやエクアドルも同様、ほとんどその情報に接することがない。したがって、私たちの中には「謎に満ちた場所」というイメージとしてラテン・アメリカが肥大化し、日本や欧米にはない非日常性を提供してくれると信じている。かつてジパングがヨーロッパ人の興味関心を惹いたように、ラテン・アメリカは謎的性格をもつ土地として現代人を魅了した。

 ラテン・アメリカ文学はしばしば「マジック・リアリズム」という言葉とともに語られるが、『百年の孤独』にたびたび現れる非現実的要素にかすかなリアリティを感じてしまうのも、私たちがラテン・アメリカという土地に過度な期待を寄せているからだろう。私たちが求めている非現実的要素という期待に、ラテン・アメリカ文学はしっかりと応えている。その意味では、マジック・リアリズムという手法はたいへん欧米人の好みに合った味付けである。その手法自体は純粋に文学的な起源をもつのかもしれないが、そこには欧米のマーケットを視野に入れた作家の「したたかさ」を感じる。