つやだしのレモン

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The End of the Affair

情事の終り (新潮文庫)

情事の終り (新潮文庫)

●作品メモ

  • ただの恋愛小説。
  • ゲイの恋愛小説。

●戦争と性愛
 サラの宗教への傾斜は、一つのカモフラージュとして読むことができる。彼女がカトリックへ沈んでいったのには一つの決定的な理由があったのではないかという見方である。

 話は単純で、彼女の不倫相手であるベンドリックスは、戦争によって性的不能者となったのである。サラがベンドリックスの元を離れたのは、二人が逢瀬に使った建物が爆撃され、ベンドリックスが怪我をしたことがきっかけだった。その時、彼女はベンドリックスの命を救うよう神に祈ったそうだが、そんなことが原因で宗教にのめり込んでいくのだろうか? 宗教への傾斜は、むしろ一つの立場を表明しているように見える。

ただ、彼を生かし、機会をお与えください。私は手をぎゅっと握り、爪を押しつけ、皮膚が切れるのを感じた。そして言った。人は互いに会わなくても愛し合えるものですよね、人はあなたのことを見なくても生涯あなたを愛しているのですから。そのとき彼が戸口に現われ、生きていて、私は悟った。彼なしで生きていく苦悩が始まるのだ。私は彼がドアの下で元通り死んでいてくれればと思った。 (181)

 「そのとき彼が戸口に現われ、生きていて、私は悟った」。ここでサラは何を悟ったのだろう。そして、なぜサラは「元通り死んでいてくれれば」とまで思うのか。神への感謝が、ベンドリックスとの別れに結びついていくのは不思議だったが、「そのとき彼が戸口に現われ、生きていて、私は悟った」という箇所で、サラが何を目にしたのかを考えれば納得がいく。サラはそのとき、ベンドリックスが男性機能を喪失したことを目の当たりにしたに違いない。そうなると、彼女は彼の元を離れていくしかない。性愛で結ばれた二人から性愛を奪えば何も残らない。



異性愛<同性愛
 サラの死後、ベンドリックスはサラの妻であるヘンリーと同居する。ヘンリーとサラは長い間セックスレスで、それにサラは不満を抱いてベンドリックスと不倫をした。ここから浮かび上がってくるのは、ヘンリーが女性に興味をもたない仕事人間であることであり、そしてサラとの結婚は役人としての体裁を整えるためのものであったことである(結婚していない人間は社会不適合者であるという固定観念)。サラ亡きあとにヘンリーはベンドリックスと一緒に暮らすことになるのだが、そこにはもちろん同性愛的な関係が暗示されている。ヘンリーはベンドリックスを得たことで長らく抑圧されていた性欲を満たし、一方のベンドリックスは性的不能によって女性からは得られなくなった愛情を男性から受け取るのだ。

 ここまでいけば、サラが宗教へ傾斜した理由も明確となる。すなわち、ホモフォビア、同性愛への嫌悪である。ヘンリーから拒絶され、ベンドリックスの性的不能に直面した彼女は、キリスト教の信仰を表明することで、自分の周囲の男性の同性愛的な結びつきに異議を唱えた。キリスト教の中でも、カトリックはよりもいっそう同性愛に手厳しい。

 ベンドリックスとヘンドリックスはサラの死のあと間もなく同居を始めるが、このような同性愛的関係を大っぴらにすることが可能なのも、戦争のおかげである。戦時中は性差が強調され、男性は兵士たるべく、女性は主婦たるべくという倫理が存在したため、男性は男性的、女性は女性的であることを義務づけられた。しかし、戦争が終わったことでその締めつけは溶けた。

 以上のような文脈でいえば、公園で演説をするスマイスという男の役割もすんなり理解できる。彼はベンドリックスと同様に性的不能者であり、公園で無神論を声高に唱えていたのも、その欲求不満からだった。思うに、公園での集会は、ある同性愛的な意味合いを帯びたものだったのかもしれない。

 物語の結末で、スマイスは頬の痣が消えたことを主人公に伝える。それは「奇跡」だ。これはスマイスのインポテンツがある日突然解消されたことを意味する。こうして彼は異性愛へと戻っていき、主人公はそんな姿に羨望を隠すことができない。

 私は自己の偶然への信仰心をすべて呼び覚まそうとしたが、私の心に浮かぶのは彼が醜い頬で彼女の髪に頬ずりしている夜の場面だけだった。形見を持っていないだけに、私はこのイメージに羨望を感じずにはいられなかった。 (368)

●子ども
 同性愛者は子どもを得られない。正確には、自分と血の繋がった子どもをもつことができない。『情事の終り』の中で、子どもをもつ登場人物のはただ一人、探偵のパーキスである。パーキスは不器用な男で、妻はもうおらず、自分の一人息子を探偵に育て上げようとしている。彼の言動は読者の憐みを誘わずにはおかないのだが、そんな彼にベンドリックスが妬みを覚える場面がある。

「ランスという名前なの?」
ランスロット卿から取ったんです。円卓の騎士の」
「驚いたな。かなり不愉快なエピソードじゃないかと思うけど」
ランスロットは聖杯を見つけましたよ」とパーキスは言った。
「それはガラハッドだよ。ランスロットは王妃グイネヴィアとベッドに入ったところを見つかったんだ」。われわれはどうしてこういう無垢な人をからかいたくなってしまうのだろう? 妬みだろうか? パーキスは息子を見つめ、まるで息子を裏切ってしまったかのように、悲しげに言った。「そうとは知りませんでした」 (145)

 ベンドリックスは未婚で、子どもができる見込みはなかった。ベンドリックスやヘンリーのような人間にとって、子どもは家庭の象徴ではあるが、得ることのできない存在でもあった。この見事な場面の裏には、ベンドリックスがパーキスに抱くほのかな嫉妬がある。