つやだしのレモン

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「らしい」建築批判

「らしい」建築批判

「らしい」建築批判

●作品メモ

  • 「新国立競技場」の、ザハ・ハディド案の問題点について。どこが問題なのかを詳細に語っている。
  • 「らしい」建築は資本主義に迎合する建築であり、社会性を失っているとして筆者は批判する。
  • では、「らしくない」建築、つまり社会性を十分に備えた建築とは何なのだろう? それが見えてこなかった。

●新国立競技場のザハ・ハディド

 「新国立競技場」の設計デザインに、ザハ・ハディド案が採用されたことに関する疑義から、本書はスタートする。ザハ・ハディドイラク出身の女性の建築家で、曲線的でダイナミックな作風をもつ。

 「新国立競技場」の設計に際しては、公開コンペが実施され、いくつかの案が提出された。その中から、ザハ・ハディド案が選出されたわけだが、その公開コンペ自体にまず問題があった。「公開」コンペだと銘打っているのに、応募資格は一部の著名な建築家にしか与えられておらず、著名度優先の選考だったのである。新鋭の建築家を発掘する意図はなく、実力のある有名な建築家から案を集めたのだ。

 さらに、そのコンペで最優秀賞を受賞したザハ・ハディドの作品にもいくつかの問題があった。その最たるものが、予算の問題である。その案は予算を大幅に超過しているのである。ハディド案を忠実に再現しようとなると、予算の倍以上の金額が必要となり、それは全て国民の税金によって賄われる。しかも、費用がかさむのは設計に際してだけではなく、建物が出来上がった後も、高額の維持費が必要となることが想定される。

 本書の筆者は次のように推測する。結局のところ、コンペの主催者がやりたかったのは、ハディドのような有名な建築家に競技場のデザインを任せることで、世界へアピールをしたかったのだ。次期のオリンピックのために、こんな有名な建築家に頼んで競技場を新たしくしますよ、だから開催国に採用してほしい、そのようなアピールのために、ハディド案は選ばれたのではないか。

 たしかに、ハディド案は派手で目立ち、次期オリンピックの「目玉」となりうる。予算を超えるような作品になっても、オリンピック開催国に選ばれれば、充分に元が取れるはず。そのような目論見で、コンペの主催者はハディドに設計を任せたのだと。そう筆者は考える。




●「らしい」建築とは、革命精神に欠け、社会性を失った、資本主義的な建築である

 そこから徐々に、話題は現代の建築の姿へと移っていく。ハディドに代表されるような、強烈な個性をもつ建築家の作品は、その建築家「らしさ」を備えている。現に、競技場新案として提出されたハディド案が、誰が見ても彼女の作品であることが分かるような、彼女のスタイルが出たものだった。

 現代の建築家たちが、彼ら「らしい」建築を生産し続けていくことに対して、筆者は批判を加える。「らしい」建築というのは、建築家の個性を前面に打ち出すような建物作りである。そこには、周囲の自然環境との調和や、その建物の使用者への配慮が致命的に欠けていると言うのである。建築家たちは、自分たちの色を出す建物を作ろうとし、伝統から著しく乖離したような建築を志向する。

 そのような建築家たちは、建物を「アート」だと考えている。建築とは、住むべき場所である以前に、鑑賞に堪えるような作品であるべきだと彼らは言う。したがって、インパクトを備えた、人々の目を見開かせるような作品が好まれる。住みやすさや利用しやすさ以前に、建物それ自体が面白く、テーマパーク的な魅力をもたなければいけない。

 「らしい」建築は、資本主義に根差している。資本家は自身の富と権力の伸張を目指してスター建築家を起用し、建築家はそれに対して自らの個性を見せることで応える。その需要と供給の過程からは、建物の使用者は排除されている。尊重されるのは、建築がもつマスコット性であり、使用者や景観は二次的なものに過ぎない。




●では、どのような建築が目指されるべきなのか?

 ここまで読んでいくと、私たち読者が期待するのは、「では、『らしくない』建築というのは、一体いかなるものなのか?」ということである。「らしい」建築についてこれだけ批判したのだから、その反対の、「らしくない」建築、つまり、筆者が理想とするような建築についての説明がなされなければいけないはずである。

 筆者は本書の中で、何度も「社会性」という言葉を用いている。「らしい」建築は「社会性」を欠いているというが、ではその「社会性」とはいったい何なのだろうか。

 私は、社会性を真剣に考える建築が、何よりも本当に強い建築だと思っている。作家性ではなく、建築の自立性や表現の強度ではなく、建築が自ずと自然に馴染むことの強さこそが建築に求められていると思っている。あるいは、たとえ場所には馴染まなくても、ル・コルビュジエのように、社会変革のための建築という強さこそが、建築には求められていると思っている。(p.124)

 それは全て、人が単純に生きるためにつくられたものばかりである。風土に逆らわず、むしろそれに順応し、少しでも人が暮らしやすいように、また自然災害から自分たちを守る目的で、それらは実に頑強につくられている。つまりこれは真の意味での、強い建築である。しかも、そのような建築は計画的にではなく、偶然の力も借りながら、少しずつ、自然環境に見合うように、素人がつくり、長い年月をかけて加算していった。土地の素材を使い、土地の技術を使い、それ故に無理がなく、自然にも馴染むので、とても美しい。(p.221)

 以上の引用から考えるに、「らしくない」建築とは、「周囲の自然環境に馴染んで」いて、「人が暮らしやすい」ような建築である。あるいは、自然環境には馴染まなくとも、ル・コルビュジエの建築のように、「広く一般大衆に利するような目的を備えた」建築も、「らしくない」建築だとされている、と考えていいだろう。

 けれども、筆者は、このような「らしくない」建築について、非常に口が重い。「らしい」建築についてはとても雄弁に語っているのに対して、一体どのような建築が理想なのか、そしてその理由はなぜなのかについては、呟くようにしてしか書いていないのである。

 「らしい」建築を批判するのであれば、筆者の思う「らしくない」建築の例を一つ挙げて、そのどこが素晴らしいのか、どの点が「使用者に配慮」しているのか、具体的に述べるべきである。筆者は、ル・コルビュジエの建築を挙げることで満足しているのかもしれないが、それは「らしくない」建築の一部を説明したに過ぎず、「周囲の自然環境に馴染んで」「人が暮らしやすい」建築とはどのようなものなのか、読者は具体的に知ることはできないのである。

 問題はそれだけではない。なぜ「らしい」建築はダメで、「らしくない」建築が理想なのかを、筆者は理論的に説明しきれてはいないことである。

 例えば、上の引用には、「土地の素材を使い、土地の技術を使い、それ故に無理がなく、自然にも馴染むので、とても美しい」とあるが、なぜ「とても美しい」のだろうか。それは誰の判断なのだろうか。「自然に馴染む」建築を、「とても美しい」と言いうる根拠は、いったいどこにあるのだろうか。ひょっとして、「説明しなくても分かるだろう」とでも考えているのだろうか。

 「らしい」建築を批判するからには、筆者の理想とするような建築の具体像と、それがなぜ理想的なのかを、理解可能な形で説明する義務があるだろう。筆者は、社会性の欠如を理由にして「らしい」建築を批判しているのだが、それでは、「社会性」という絶対的なものの正当性は、いったいどこから湧き出しているのだろうか。私たちが受け取るのは、「人が暮らしやすい」「自然に調和した」という、あまりにも軽薄な決まり文句ばかりであり、そこから浮かんでくるのは、鬱蒼と木々が茂る山の中にポツンと立つ木製のコテージとか、古都の由緒のある日本家屋とか、あるいはヨーロッパの日干しレンガの家とか、そういう時代と隔絶したイメージのある家ばかりである。「らしい」建築を批判するのであれば、そうではない方向性の建築性について、もっと雄弁に、説得力ある言葉とともに語るべきだろう。




●引用を多用する語りの嘘くささ

 読後の感想は、「引用が多過ぎる」である。自分の主張の骨組みを作る上で、既存の著作から引用するというのは理に適った手段であるが、デメリットも少なくない。引用文とは全体の一部を切り抜いたものなのだから、それをもって何かを語るというのは相当のリスクを覚悟しなければならない行為でもあるだろう。本書には、著作からの引用が数多くなされているが、「この引用に意味はあるのか?」と思ってしまうものもいくつかあった。それは特に、理論的な主張をしている箇所に顕著であった。

 例えば、「革命の終焉」についての主張の裏付けで、筆者は様々な思想家の著作から引用を行っているが(p.182〜)、それはむしろ主張の根拠を見えづらくしているだけだ。筆者がなぜそう考えるのかを知りたいのに、筆者が提示するのは引用文のパッチワークと、それへの不完全な注釈めいたものだけで、革命の終焉がありうることを説明しきれてはいない。

 引用を切り貼りしたところで、主張の説得力が増すわけではない。むしろそれは、自分の主張に正当性がないことを、引用によって覆い隠しているように見える。主張の裏付けは、論理的な説明さえあれば事足りるはずであり、スノッブな引用は議論を分かりづらくするだけである。

 本書は「新国立競技場」のザハ・ハディド案についての論点を整理するうえで、非常に有益な本である。「らしい」建築についての筆者の主張に頷く箇所は多い。だが、その筆致は時に独断的で感情的であり、過剰なほどに攻撃的である。揚げ足を取るような文章もいくつかあった。「なぜもっと冷静に書けないのか?」というのが、素直な感想である。