つやだしのレモン

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松本人志の「不良品」発言から考える、「排除」のルール

 『ワイドナショー』での松本人志の発言、雑なようで核心をつく発言だったので、以下に思うことを書いてみる。

 

松本人志は何を言ったのか?

 川崎殺傷事件の犯人について、松本人志はテレビで以下のような発言をした。

人間が生まれてくる中で不良品が何万個に一個あるのはしょうがないと思うんすね。それをみんなの努力で、何十万個、何百万個に一個に減らすことはできるのかなと思う。
正直、僕はまあ、こういう人たちは絶対数いますから。もう、その人たち同士でやりあってほしいですけどね。

 この発言を「優生思想」ととっている人がいるが、松本の「生まれてくる」というのは成長の過程も含んでいるので、別に「生まれながらにして不良品」と言っているわけではない。そうでないと、次の「それをみんなの努力で、何十万個、何百万個に一個に減らす」という文と整合性がとれない。不良品が生まれながらのものならば「努力で減らす」ことはできないので。

 そして、次の「不良品同士でやりあってほしい」という発言も、軽率なようでいてけっこう踏み込んでいる。これは、不良品は最小限の犠牲で排除すべき、という趣旨の発言である。もしここで当たり障りのないコメントをするなら、「不良品でも輝ける場所を見つけてあげたい」みたいなことを言うのだろうが、松本人志の発言は逆である。不良品は社会の害だから、「排除しなければならない」と言っているのだ。

 

・社会の2つのルール

 ここでいったん、社会のルールについて考えてみる。

 社会で生きるとは、次のルールを受け入れることである。

 A:社会に害を与える人間は、排除しなければならない。

 「害を与える」とは、社会の存続を危うくさせるような行為であり、もっとも分かりやすいのは殺人である。

 人が共同生活を続けていくためには、その共同生活を壊すような存在は排除しなければならない。法律があり、刑務所があるのも、排除すべき者を選別し、隔離し教育するためである。社会で生きていくためには、人は必ずAのルールのもとにいる。

 と同時に、社会で生きることは、もう1つのルールも人々に要求する。

 B:社会に害を与える人間が出てこないように、努力しなければならない。

 共同生活を壊すような人間が出てこないように、人々は互いに支え合い、孤立しないようなシステムを作ることを求められる。だから、何か重大な事件が起きて、社会を脅かす者が現れたときには、どうしてそうした人間が生まれたのかを考え、同じことが繰り返されぬように修正を重ねていく。

 

 このAとBは、対立するものではない。どちらが正しいとか、どちらが間違っているという話ではない。ともに、社会を支えるルールである。

 Aのルールは残酷である。「排除すべき人間」と「そうでない人間」を区別するきまりだからだ。その区別の曖昧さや恣意性は常に問題になる。一方でBは、そうした区別を限りなく少なくすること、つまり「排除すべき人間」を極力少なくし、「そうでない人間」を極力多くすることを目指す。Bのルールは人間の可能性を信じている。

 この2つのルールは、互いに足りないところを補い合う関係にある。片方がもう片方を支えている。

 

・あらためて、松本人志は何を言ったのか?

 そして、改めて松本人志の発言を見ると、このA・Bの内容をともに言っている。「不良品」が出てくるのはしょうがないから、排除しなければならない(A)が、一方で、不良品の数を減らすように努力しなければいけない(B)。こうした事件では、えてしてBのルールのみの言及でお茶を濁しがちだが、わざわざAのルールにまで言及したことに意味がある。

 でもこの発言が反感を買ってしまうのは、Aのルールの「残酷さ」ゆえである。人は、社会で生きていくうえでAが必要であることを理解はしているが、それを感情的に受け入れたくないとも思っている。それがないと社会が立ち行かないことは分かっているのだが、でもその残酷さゆえに、Aのルールに嫌悪感をもってしまう。その嫌悪感が、Bのルールへの傾斜を生む。

 たしかに、究極の理想を語るのなら、Bのルールを完璧に実行すれば、あらゆる人間が疎外されず、社会を害する者が誰もいない世界となり、Aのルールは出番がなくなるだろう。でもそれは理想であり、理想でしかない。現実はそうではない。

 Aのルールは「残酷」である。その残酷さに対する嫌悪感から、松本人志の発言を叩くことは容易い。「嫌悪」という自分の感情にまかせてキーボードを叩けばよいのだから。人権や個性という決まり文句で弱者に寄り添ったポーズをとっている限り、人は「正しさ」の海の中で泳いでいられる。でもそれは、理想を武器に現実を殴っていることに他ならない。「排除」があるから現に人は生きられているのに、それを視野の隅へと追いやって見ようとしないのは卑怯な態度である。

 

・人権を差別せよ、人命を差別せよ

 最後に、新井英樹ザ・ワールド・イズ・マイン』という漫画から、登場人物のセリフを引用しておく。これは、「排除」のルールから目をそらそうとする人々への「挑戦状」である。

 最後に、この国のすべての人間に挑戦したい。

 人権を差別せよ。

 自ら社会を逸脱する者にその生における平等はない。

 人命を差別せよ。

 社会と個人の命を秤にかけた時、民主主義は迷わず社会を選択せねばならない。

 「ヒューマニズム」を差別せよ。

 その言葉の響きに酔いしれ 思考を停止した者のみが 殺すことをすべて悪とする。

 人間とはあまりに不完全で度し難い生き物であるにもかかわらず、

 神をも恐れず懸命に 守るべき命と葬るべき命を常に選択してきたのだ。

 ならば 差別すること 殺すことも ヒューマニズムである。

 反論を唱える者は 自らの覚悟と信念を試していただきたい。

新井英樹『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』第5巻、198-200ページ)