つやだしのレモン

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キャラの濃い/薄い論

 本や漫画や映画における、キャラクターの濃い/薄いということについて考える。キャラが立っている/いない、あるいは登場人物が生き生きしている/していないと言い換えてもよい。

 本を読んだりアニメや映画を観ているときに、濃いキャラだと感じるのはどういうキャラなのか。思いつくままに、濃いキャラを列挙してみる。

 『ドラえもん』ののび太ジャイアン
 『サザエさん』のカツオ、波平。
 『アンパンマン』のばいきんまん

 どの作品にも、キャラの濃い人物と薄い人物がいる。例えば、『ドラえもん』だと、のび太ジャイアンが強烈な個性を主張しているが、しずかちゃんにはあまりキャラの強さを感じない。『アンパンマン』だと、ばいきんまんが非常に魅力的なキャラクターだが、主人公のアンパンマンや、サブキャラの食パンとカレー野郎にはあまり魅力を感じない。

 キャラが濃いと感じる人物の共通点を探すと、彼らの性格には明確な「長所」と「短所」があることに目がいく。それぞれのキャラが、人間的に「好ましい」部分と「嫌らしい」部分をちゃんともっているように見える。

 具体的に言えば、『サザエさん』のカツオはずる賢い(短所)が、性格的には素直で家族思いである(長所)。『ドラえもん』で言うと、ジャイアンは自己中心的で暴力的だが(短所)、いざというときは仲間を守る一面をもつ(長所)。

 逆に、キャラが薄いと感じる人物には、長所しかないか、あるいは短所しかない。例えば、『アンパンマン』の主人公は、徹底的に「正義の味方」で、短所らしい短所はない。顔が濡れると力が出なくなるのは、性格上の短所ではなくて身体的な欠点である。『ドラえもん』のしずかちゃんは、容姿端麗で性格も真面目で素直であり、これといった短所がない。

 性格上の「好ましい」部分と「嫌らしい」部分とがきちんと与えられているキャラクターは、「キャラが濃い」と感じている傾向が高い。そういう風に、長所と短所を併せ持っている方が、ずっと人間らしく感じられる。

 一人の人間の中に、「好ましい」部分と「嫌らしい」部分が同居していることが分かると、その人物の幅が分かる、というか、その人物に奥行を感じることができる。それまで平面だったキャラクターが、しっかりと性格づけをされることで、立体感をもつようになる。架空の登場人物なのだが、奥行きのある性格づけをされることで、現実に存在してもおかしくないようなリアリティーが付与される。

 一方で、キャラが薄い人物は、「好ましい」部分しか描かれていないことが多い。「好ましい」部分しかないキャラクターは、いかにも薄っぺらで、架空の人物の域を出ることができない。現実味がなく、「良い人」とししてしか語られない。このようなキャラクターが、生き生きと動き回って物語に風を吹かすことはできない。

 キャラが薄い、と言えば、ギリシャ神話に登場する神々を考えるといい。ギリシャの神は、それぞれが何らかの「象徴」である。例えば、ゼウスは「天空」の神、ミューズは「芸術」の神、アフロディーテは「美」の神という風に。それぞれが強烈な個性をもっていておかしくないのに、「芸術」の神や「美」の神らにそれほどの魅力を感じないのは、その一面だけしか見えてこないからだろう。「天空」の神ゼウス、と言われても、それはまるで私たちの現実からかけ離れているから、そこに想像をさしはさむ余地はない。だが、ゼウスが全知全能の神であるにもかかわらず、浮気癖があり、妻のヘラとは喧嘩ばかりしている、という話を聞くと、ぐっとゼウスのキャラが立つ。ぐっとリアリティ―がますのだ。神なのに。

 キャラが立っていない人物というのは、一つのアングルからしか描かれていないので、その人物の全体像がまるで見えてこない。まるで、一つの固定した機能を従順にこなすマシンのように見えてくる。10円硬貨が10円の価値しかもたないように、キャラの立っていない登場人物は予定調和の行動しかしてくれない。

 だが、そんな人物でも、ふとした拍子に、予想外の行動に出ることがある。そうなると、それまでペラペラだったその人物に、奥行きが出てくる。予定調和を突き崩したのはいったい何なのか、知りたくなる。「腕利きの外科医なのに、医師免許がなく法外な報酬をふっかける」「警察官なのに、ギャンブル大好きで銭ゲバ」「昼間は真面目なOLなのに、夜は娼婦」など、魅力あるキャラクターには必ず「嫌らしい」ところがある。そのギャップこそが人間らしさ。