つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

谷崎潤一郎 「生活の表面」をそのままなぞれる強さ

細雪(上) (新潮文庫)

細雪(上) (新潮文庫)

  • 作者:谷崎 潤一郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1955/11/01
  • メディア: 文庫
 

 

 谷崎潤一郎の特徴は、人間の生活の表面を、そのままなぞれる強さにある。

 どんな小説もだいたい、人間の「内面」を掘り下げようとする。ことあるごとに思索に沈む主人公の内面を描くことで、個人が「いかに生きているか」を読者に示そうとする。

 でも谷崎潤一郎の小説では、個人はあまり前に出てこない。そのかわりに描かれるのは「人付き合い」である。

 

 だから一見すると、谷崎潤一郎の小説はとてつもなく軽薄で楽天的に見える。徹底して「人付き合い」を主題とし、そこから個人の掘り下げには進んでいくことがないから。代表作『細雪』を読んでも、出てくる話は日常の些細なことばかり。本当に、良い意味でも悪い意味でも「くだらない」エピソードの連続なのだ。

 例えば「見合いのときにどんな服を着ていけばいいか」とか、「生理前になると妹の目の周りにシミができて気になる」とか、「家族そろって花見をしたらいろんな人に写真を撮られた」とか、「ロシア人の家庭に招かれて出された料理の量が多くて食べきれなかった」とか。そんな日常の描写が淡々と続いていく。

 これが「普通」の小説だと、「見合いのときにどんな服を着ていけばいいか」という場面なら、例えば「内心は服なんてどうでもいいと思っているけど、周りに合わせて積極的に服を選ぶポーズをとる自分」を見せて、そんな自分の体裁の取り繕い方に情けなさを覚えたり、「そういう自分を変えないと」と思ったりする。

 でも、谷崎潤一郎はそういうふうに内面を掘り下げていくほうには進まない。個人の中に降りていくことは避けて、徹底して人付き合いのレベルに留まろうとする。
 谷崎潤一郎の小説を読んでいると、そのことがまさに、谷崎潤一郎のスタイルなのだと気づいてくる。多くの小説が「個人」をせっせと描こうとするのに対して、谷崎潤一郎は飄々と「人付き合い」こそが人間なのだと示してみせる。「個人」を軸にする小説が、ときにコミュニケーションへの不信感を表明し、コミュニケーションから距離を置いて思索の中に沈み込もうとするのに対して、谷崎潤一郎は、いやコミュニケーションこそが個人をつくるのであり、人間そのものなのだと言っている。

 

 最初に谷崎潤一郎の小説を読んだときは、徹底して人付き合いの話ばかりで、なんて軽薄で楽観的な人だろうと思う。だから自分が学生のときは、すごく薄っぺらい作家として敬遠していた。でも、年をとり、人並みにいろんな経験をし、ふと久しぶりに谷崎潤一郎の小説を手にとり読んでみると、いや、軽薄なのは、固定観念に囚われていた自分自身で、谷崎は「人付き合いこそが人間」ということをただひたすら伝えているのではないか?というふうに考えが変わってくる。

 人間の内面を描こうとする小説が、個人という「点」を中心に物語を作り上げるのに対して、谷崎潤一郎の小説では、個人と個人をつないでいる「線」が物語の軸を担う。そして最初は、点を結ぶことで線ができているように見えるのだけれども、実際のところは、線が先にあって点はあとから打たれたのではないか、と思えてくるのだ。