つやだしのレモン

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ポン・ジュノ『殺人の追憶』 笑いと哀しみの絶妙なバランス

 

・懐かしさのある映画

 この映画にはジブリ映画のような懐かしさがある。何度見ても味があるというか、たくさん噛んでも味がするというか。

 その理由は2つあって、1つは風景が美しいこと。韓国の田舎の風景が見事に切り取られている。『母なる証明』でも風景の捉え方が抜群だった(最近のポン・ジュノ映画がやや魅力に欠けるのは、この田舎の風景がなくなっているからだと思う)。その風景の美しさの中で、凄惨な事件が繰り返されるというギャップもまた美しい。

 懐かしさを感じる2つ目の理由は、人間の描き方がうまいこと。欲に正直な人間たちを、糾弾するのではなく、でも一方的に肯定するのでもなく、ブラックな笑いで温かく包み込んでいる。その人間への視点が抜群に心地よいので、何度見ても飽きない。

 

・欲

 この映画は食事シーンが多い。食べ方も独特で、「味わう」というよりも、単に食欲を満たすために「むさぼる」というのに近い。その食べ方に意地汚さを感じてしまうのは、食欲を満たす姿をとりつくろうとしないことを原始的に感じるからだろう。

 主人公の刑事パク・トゥマンをはじめ、この映画の登場人物は欲に対して赤裸々で、それを隠そうともしないし、その欲を満たすためには手段を選ばない。パク刑事は事件を解決するためには拷問も厭わないし、連続殺人の犯人は性欲を満たすために通り魔的に強姦する。

 そうした赤裸々に生きる人々の赤裸々さを際立たせるために、彼らとは対照的な人物として、ソウルから派遣されたソ・テユン刑事が配置されている。テユンはパク刑事とは違って拷問に頼らず、「書類」に書かれたデータをもとに犯人に迫ろうとする。

 けれども、そんなテユンも、いざ真犯人を追い詰めようとするときは、暴力に頼ってしまう。どんなにデータを積み重ねて犯人に迫っていても、事件の凄惨さを前にしては我を失い、暴力によって片をつけようとする。そのとき、パクとテユンの立ち位置は逆転して、拷問が体に染みついているパクが、テユンの暴力を止める。誰しもが暴力への引き金を心の奥に持っていて、ふだんはそんなものがないように振る舞っていても、感情が揺さぶられることで簡単に表面に出てくる。テユンは事件に追い詰められたことで、犯人と同じところにたどり着いてしまったのだ。

 と、こう書くと、なんだかとても古典的な結末のように思える。でも、この映画がうまいのは、こうした人間の欲の発露を、単に原始的だと糾弾するのではなくて、それも人間の一部であり、それこそが人間であると、温かく描いているところである。パク刑事なんて、拷問はするわトンチンカンな推理はするわで散々だが、けれどもどこか憎めないところがある。おじさんだけれど、愛らしさがある。そうした人間の描き方がとにかく上手くて、だから何度も見たくなるような魅力が、この映画にはある。

 

・笑いと哀しみの絶妙なバランス

 ポン・ジュノ映画の特徴は、ブラックな笑いと人間の哀しみにある。ただブラックなだけでなく、ただ哀しいだけでなく、その両者がうまい具合に混ぜ合わされているのが、ポン・ジュノの凄みだと思う。片方だけだと見ていてしんどいけれど、それが混ぜ合わされているので味に深みが出るのだ。

 ポン・ジュノ映画の中でも、『殺人の追憶』は群を抜いて笑いと哀しみのバランスがとれている。ポン・ジュノは他の映画も面白いけど、でも『殺人の追憶』ほどバランスのとれた映画はないように思う。『母なる証明』と『グエムル』は哀しみが強すぎて見ていてしんどいし、『スノーピアサー』と『オクジャ』は設定が凝りすぎていて入りにくい。