つやだしのレモン

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Ubik

 フィリップ・K・ディック 『ユービック』 (ハヤカワSF文庫)


○ディックの最高傑作

 1969年発表。それ以前の数年間に幾多の小説を濫造したことで疲弊し、新たな境地の開拓を目指してディックが書き上げた長編が『ユービック』です。ディック作品に頻出する設定やガジェットが本作にはふんだんに盛り込まれた本作は、氏の代表作として挙げられることが多いです。

 この作品、ディックの最高傑作のひとつではないかと思っています。一番好きなディック作品は?と聞かれたら、この作品か『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』、『スキャナー・ダークリーのどれかを選ぶでしょう。今回、結末を知りつつ再読しましたが、初読時と同様に、息もつかせぬスリリングな展開と、地に足がつかぬような不思議な浮遊感を味わえました。



○荒削りなのに、不思議と洗練されている

 不思議な読後感。後を引く余韻が残ります。ディック作品につきものの「荒削り」な部分はあるものの、この作品はどこかしら「洗練されている」感じがします。なぜでしょう。

 「予知能力者」とか「不活性者」といった設定は生かしきれていないし、主人公以外の登場人物の肉付けが不十分です。主人公が思いを寄せていたウェンディ・ライトはどういう人物か全然分からないままに死んでしまいますし、パット・コンリーの特殊な能力は全く発揮する機会のないまま結末を迎えるし、不活性者11人中で十分な活躍したといえるのはせいぜい3、4人です。さしたる準備もせずに、ディックが腕力にモノをいわせて書き切っただろうことはだいたい予想がつきます。

 しかし、時間退行現象の中で崩壊へと向かっていく主人公たちの描写がたいへん素晴らしいことと、物語で不透明だった部分の種明かしがたいへん美しくなされていることで、上記の「荒削り」感は全く気にならなくなります。むしろ、「荒削り」であることにこそリアリティを感じさえします。物語上の設定が生かされていないとか、登場人物の肉付けが甘いとか、そんなことは読者の勝手な言い草でしょう。物語に登場した物事全てが有機的に連関する様が見たいのならディズニー映画を見れば済む話。読者の予想の遥か斜め上を華麗に飛び回ってくれるのがディックです。

 この『ユービック』、構図としては「 エラ vs ジョリー 」というシンプルなものです。ジョリーはさむけと疲労、そして死をもたらす存在として登場し、一方のエラはそのジョリーの侵略になんとか抗おうとする人々の代表者です。ここには、人々を死に追いやろうとする様々な要因を「悪」として決めつけて退けるディックの力強さが感じ取れます。ジョリーはさしたる動機ももたずに主人公を追い詰め、生命を飲み込まんとする、パーマー・エルドリッチ的な「絶対悪」。エラ・ランシターはそれを退け、なんとか生命にすがりつこうとする強い意志を持った存在です。

 人間にまとわりつく倦怠感や厭世観に対する強い嫌悪感が、ディック作品からは感じられます。そこからは、実生活上で味わったであろう辛酸、苦労、絶望をディックがなんとか乗り越えて、優れた作品を生み出しただろうことが伝わってきます。本作でいえばグレン・ランシターに見られるような、一部の人間の持つ偉大な生命力に対する賞賛こそ、ディック作品に通底するテーマであると思います。