つやだしのレモン

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白痴

ドストエフスキー 『白痴』新潮文庫


●印象と感想

 訳者あとがきを見ると、ドストエフスキー「無条件に美しい人」を描くことがこの小説の主題だと述べている。その言葉通り、全くの善人で博愛主義者のムイシュキン公爵がこの物語の主人公である。公爵は幼児の頃から白痴(おそらくは知的障碍者)であったが、スイスの病院での療養を経て社会生活を営めるまでには快復している。しかしそれでもなお、公爵には違和感のある言動が数多く、ときおり癲癇の発作にも襲われるため、周囲からしばしば「白痴」だと蔑まれている。

 物語の大筋は、スイスでの療養を終えた公爵がロシアの上流社会の中に投げ出され、そこで繰り広げられる乱痴気騒ぎと阿鼻叫喚の中でたっぷりと苦悩したあと、再び白痴へと戻ってスイスの療養所へと還っていく。簡単に言うと、心の美しい人が俗人に交じって生活したら、そのあまりのゲスさに耐えられなくなってしまい、頭がおかしくなってしまった、という話。



●「無条件に美しい人」というテーマへの疑問

 ムイシュキン公爵という人物の造形が、イエス・キリストの影響を受けているのは明らか。公爵はスイスの療養所からロシアの俗社会へと身を移すが、それはキリストが神の子として人間の元へと降り立ったが如くである。『白痴』は、現代へと降臨したキリストの物語として読んでもよい。キリストがそのカリスマ性でもって多くの信者を集めたのと同様、公爵もまた多くの上流階級の人々を魅了する。けれども、キリストが旧勢力から迫害されて死に至ったのと同じように、公爵は俗世間の争いごとに疲れ切ってしまい、結局は元の療養所へ引き返すことになる。

 公爵はあまりに幼く無垢で一途である。美しい容姿を持つ女性たちを一目見るやたちまち心を奪われ、その虜となり、唐突に結婚の申し込みをしてしまうような人だ。場の空気を読もうとせず、自分のありのままの感情を吐露せずにはおけない、そんな純情で壊れやすい心をもっている。

 作者の言う「無条件に美しい人」がムイシュキン公爵のことであるのならば、『白痴』はたいへん退屈な小説である。「聖なる人間は現代には生きえない」というようなテーマは、今の視点からすれば下らない厭世主義としか映らない。「聖人が現代に降臨したらどうなるか」という主題はカラマーゾフの兄弟にも登場しているので、ドストエフスキーにとってはたいへん大きな問題提起であったのだろう。しかし、「際立って美しい人」を描くことによって、現代人の通俗性を浮き彫りにすることが作者の意図なのであれば、それは中身を伴わない理想主義のように見える。白痴の清らかさを讃えることは、今日という日をやり過ごすために無我夢中で生きている人を断罪することである。神聖視され、理想化されたキリストを現代に登場させるのは、聖徳太子の伝説と現代の政治を比較するようなものだ。

 私には「無条件に美しい人」を描くというドストエフスキーのコンセプトに疑問があるし、この『白痴』でそれが上手に実現できているとも思えない。ムイシュキン公爵は決して「無条件で美しい人」ではなく、単なるお人よしの世間知らずである。優れた容姿を持つ女性を見ると見境なく恋に落ち、その性格を知る前に求婚してしまうような幼稚さも併せ持っている。公爵の言動はまるで純情な幼児のようであり、単純で面白みに欠ける。この小説はむしろ、ナスターシャやロゴージンといった人間味豊かな脇役にこそスポットライトが当てられるべきであり、彼らが織りなす恋愛模様『白痴』の最大の魅力を生み出している。



●ナスターシャの破滅的な性格

 恋愛小説としての『白痴』はなかなか読み応えがある。恋愛に絡む登場人物は四人で、ムイシュキン公爵、ロゴージンという男性二人と、ナスターシャ、アグラーヤという女性二人。ロゴージンはナスターシャに一目惚れし、なんとか彼女を自分のものにしようとあがく。公爵は出会う人全てを愛するが、とりわけ外見が美しい女性に惹かれやすく、ナスターシャとアグラーヤという美女二人をともに愛している。その美女二人もまた公爵を愛しているが、二人とも一筋縄ではいかないクセのある性格をしている。

 ナスターシャという女性の人格は極めて把握しにくい。言動に一貫性がなく、その意図が読みにくいためである。ただ、彼女について少なくとも一つ言えるのは、彼女は「自分が処女ではない」ということを気に病み、それに囚われているということである。ナスターシャは十代の頃にトーツキイという庇護者に半ば強制的な形で処女を奪われ、しばらくはその愛人として過ごした過去をもつ。トーツキイにとってのナスターシャはただの愛人だったが、ナスターシャにとってはそうではない。トーツキイが別の女性と結婚しようとしたとき、ナスターシャはトーツキイのもとに突然現れ、自らの権利を主張する。上流階級の人々には処女信仰が強い。ナスターシャはトーツキイに棄てられることによって、人間としての自律性に目覚め、自らの貞操を汚されたことを悟るのである。ナスターシャは自分が「汚れた人間」であるという意識に絶えず囚われているために、しばしば自己破壊的な行動へと走ってしまう。

 ナスターシャが精神不安定なのは、この幼時の性的な体験が大きな要因であるのは間違いない。彼女が、目の前にあるささやかな幸福にいったんは満足しても、それを掴みとる間際で全てをぶち壊してしまうのは、極端に自己評価が低いからである。自分が「汚れた人間」であると自覚しているからこそ、その身に余りある幸福を手にすることへの不安が大きく、いざそれを掴みとる段になると背中を向けて逃げだしてしまう。

 彼女はムイシュキン公爵の美しさにいち早く気付いたが、その美しさに自分が釣り合わないこともまた同時に悟っている。だからこそ、公爵からの求婚を拒み、ロゴージンがばら撒いたカネのもとへと飛びつくことで自らを貶めたのである。彼女はロゴージンとともに公爵のもとを去るとき、「さようなら、公爵、生まれてはじめてほんとの人間を見ました!」(上巻、p. 400)という謎めいた言葉を残している。

 ナスターシャは幸福であることを素直に受け入れることができない女性だ。その原因は、自己への評価が低いことが第一にあるが、その根底にあるのは他者への信頼と愛である。彼女は階級を問わず誰とでも付き合う。博愛主義者の公爵の陰に隠れてはいるが、ナスターシャも多くの人の心を捉える魅力を持った人物である。傷つきやすく繊細な人物で、愛する相手を落胆されることをひどく嫌う。彼女の本心は公爵との結婚を望んでいたようにみえる。しかし、ナスターシャにとっては結婚は決して安息をもたらすものではない。郊外に小さな家を買い、そこで公爵とともに暮らし、静かな幸福に包まれて残りの人生を満喫するというような、そんな平凡な生活に満足できるような女性ではない。ナスターシャがロゴージンのような破滅的な人間のもとへと擦り寄っていくのは、荒れ狂う嵐の中でしか生きていけない彼女の性格をよく表している。処女を汚されたことへの絶望と憎悪がナスターシャの人格の根本を支配している。自分は汚れた存在であるという意識が、彼女を破滅的な言動へと駆り立て、公爵と結婚するその間際で、すべてを台無しにさせるよう強いるのである。

 その意味では、彼女がロゴージンによって刺殺されたことは、決して不幸なことではなかった。むしろ、疾風怒濤の中に生きざるをえない彼女の性格を考えれば、それは避けられない結末だったといえる。公爵が下手人のロゴージンとともに彼女の死を見守っている場面は象徴的である。公爵は、近い将来にロゴージンがナスターシャを殺すであろうことを知っていた。平穏な幸福に満足できない彼女のような人間は、どうあがいても死ななければならないということを、公爵はナスターシャの写真を見るだけで見抜いていたのである。

 ドストエフスキーの小説を読むといつも軽い眩暈がするが、それは登場人物の言動があまりに突飛であり、理解の範疇を超えているからである。だが、そこにこそドストエフスキーの独自性があって、人間の感情的な部分を巧みに切りとっているからこそ、その小説群は今でも読み継がれる価値をもつ。理論や合理性によっては掬いきれないような、心の中のどろどろとしたものが、登場人物の言動として発露し、物語の内で小さな爆発を生んでいく。けれでも、その「どろどろとしたもの」は言葉では表現しえない。作者ができるのは、登場人物の言動を通じて伝えることのみである。だからこそ、読者はその物語のめまぐるしさにうんざりしてしまい、しかしうんざりしつつも、そこに不思議な魅力を感じるのである。『白痴』のナスターシャは、言動の不可解さ・突飛さという意味では作品中随一の活躍を見せており、ドストエフスキー的な性格を最も色濃く持った登場人物と言ってよい。



●処女性への執着

 ドストエフスキーの小説には、売春婦がよく登場する。罪と罰のソフィア、カラマーゾフのアグラフェーナ、そして『白痴』のナスターシャがそうである。彼女たちは自立した女性として主人公の前に表れ、彼らに人生の転機を与える。

 処女を喪失した女性、あるいは性的魅力を売り物にするような女性を小説に繰り返し登場されるのは、ドストエフスキーに私的な理由があったのかもしれない。処女信仰に代表されるような性的な慣習への批判、あるいはそのような慣習を打ち破る自律した女性像の創造、というような意図があるのだろうか。いずれにせよ、ドストエフスキーと処女性というのは興味深いテーマである。

 『白痴』という小説には、二人の美しい女性が登場するが、処女性という点において二人は対照的である。ナスターシャは幼いころにトーツキイによって純潔を奪われている。一方、アグラーヤは母と二人の姉によって大切に育てられた箱入り娘であり、処女性の権化のような女性である。美という点では二人は甲乙つけがたいが、アグラーヤとその家族がナスターシャをやや軽蔑しているのは、ナスターシャがトーツキイの愛人であったということを知っているからである。しかしながら、公爵が最も愛していたのはナスターシャであり、それは性的トラウマを持つ彼女への憐みに基づくものだった。

 この小説を性の物語として読むのは一つの楽しみである。主人公のムイシュキン公爵「白痴」、つまり性的能力を失った男性である。それに対し、ロゴージンは性に厳格な家庭を飛び出して、自由奔放な生活を送っていたマッチョな人間である。処女でないナスターシャは、公爵の人間的な魅力に惹かれるも、彼がインポテンツであることで苦悩し、精力に満ちたロゴージンとの間で揺れ動く。ムイシュキンのような性的不能者は、男性でも女性でもない、「新たな性」をもった人間であり、それがドストエフスキー言うところの「無条件で美しい人」なのかもしれない。