つやだしのレモン

読んだもの、見たものの感想を書く場所。

悪夢としてのP・K・ディック

悪夢としてのP・K・ディック―人間、アンドロイド、機械

悪夢としてのP・K・ディック―人間、アンドロイド、機械

●作品メモ

  • 冒頭に「逃避シンドローム(友枝康子訳)を置く。これは『模造記憶』新潮文庫、絶版)に収録されている短篇。これ以降は全てディックについての評論。

●ディックの私小説

 水鏡子氏のディック長編についての評価。

事実、ディックの長編は、複雑きわまる設定が、御都合主義で場あたりな動きで無茶苦茶になったりするのが少なくないのだけれど、それすら読む側からすれば魅力のように見えてくる。小説の破綻がマイナス要因として意識されず、むしろあえてバランスを崩してまでこだわりつづける作者の問題意識の強烈さとして、時には破綻そのものが他の作家には真似のできない現実感を産み出す技法のようにさえ思わせてしまうところがディックの凄さなのだろう。

 この文章自体が細かな破綻をきたしていることはさておいて、「破綻こそが技法」という評言はまさに核心を突いている。

 けれども、次の言葉はどうだろうか。

『ユービック』『死の迷宮』『あなたを合成します』『流れよ我が涙』『暗闇のスキャナー』と一直線に並んだ作品は、オブセッションを抱えこんで、SFの“モノ”的世界から私小説的自慰行為へと突っ走る一本道であったと思う。

 この分析は大きな誤解を含んでいる。『ユービック』『死の迷宮』はどちらかと言えば「SF性」の高い小説であり、ディック作品の中ではエンターテイメントの色合いが強い。『あなたを合成します』『暗闇のスキャナー』はたしかに私小説的な内容を多分に孕んでいるが、それは後期のディック作品の特徴とはいえない。なぜなら、ディックはそもそも私小説的な作家であり、自らが現実で直面する問題を小説内で描き出すことで昇華させる芸術家だったからだ。

 より具体的に述べれば「夫婦関係」が彼の小説に通底するテーマである。ディックは生涯で5度の結婚をし、その全てが離婚という形で終わっている。この結婚歴を見る限り、ディック自身の性格にかなりの難があっただろうことは推察されるし、彼が配偶者と良好な関係を維持できなかったことが分かる。「夫婦関係」という問題はディック作品の中では頻出し、それは「倦怠期に陥った夫婦が、ある出来事をきっかけに再構築へ踏み出す」という枠に全て収まっている。『火星のタイムスリップ』『去年を待ちながら』『最後から二番目の真実』など。

 彼は『火星のタイムスリップ』の商業的な失敗の前後から、長編小説の粗製濫造に手を染め始める。1964〜1967年の4年間に、彼は11冊の長編を執筆する。その間に18の短編をも書き上げていたことを考慮すると、驚異的な小説生産能力と言わざるを得ない。だがこの時期は、ディック自身が言っているように、「金のために筆を走らせた」のであり、作品のクオリティが総じて高いとは言い難い。

 このような小説濫造期において、ディックが緻密にプロットを練ったとは考えづらく、ゆえに彼は、自分の生活に題材を求めざるを得なかった。そこで取り上げたのが「夫婦関係」という卑近なテーマであり、彼はそれをSFという舞台設定に乗せて何度もこねくり回すのである。

 この私小説的なスタイルは、ディックが作家として安定しはじめた時期にも継続されていく。とはいえ、そのスタイルは以前ほどは自己主張をしなくなる。『ユービック』『パーマー・エルドリッチ』の技法を継承し発展させた作品で、エンターテイメントとしての完成度は極めて高い。『死の迷宮』『ユービック』で確立した世界観の反復で、だが『ユービック』ほどのインパクトはない。

 『流れよ我が涙』以降はディックの私小説的スタイルが復活をみせるが、今度はそれは「夫婦関係」とは別のテーマを掲げる。それは「ドラッグ」と「神秘体験」である。前者はすでにディック作品で何度も使われてきたが、それはあくまでストーリーを組み立てるための道具の一つであった。だがスキャナー・ダークリーでは「ドラッグ」というテーマが前景化され、主人公の内面に強い影響力をもつアイテムへと姿を変えている。

 それ以前の小説におけるドラッグは、単に外界を別様に見せる幻覚剤でしかなかったが、『スキャナー』のドラッグは人間の自己をもコントロールしうる悪魔になっている。『スキャナー』の主人公はドラッグによって自己にヒビを入れられ、少しずつ人間性を削り取られていく。ここにはディック自身の経験が反映されていて、薬物中毒だった彼がリハビリを通じて社会復帰するまでの苦しみが『スキャナー』には生生しく描き出されているわけだ。したがって、この作品は極めて私小説性をもった作品で、以前の小説とは違って「主体による語り」が増え、それと反比例するように「SF性」は影をひそめる。『スキャナー』をSFに繋ぎ止めているのは「スクランブル・スーツ」なる奇妙なガジェットのみであり、それを消してしまえば現代小説と何ら変わりはない。

 小説濫造期のディックは、SFという文壇世界で成功するために、私小説的な題材をSF的な道具で飾り立てていた。純文学では売れなかったので、そこで使ったテーマをSFの外皮で覆って、商業的な成功をもくろんだのである。ディックが常に望んでいたのは「純文学作家」としての成功であって、SFは経済的な苦境を凌ぐための手段であった。ゆえに、後期ディックが「私小説的自慰行為」に走っているとする分析は一面では真実であっても、作家としてのディックの一環したスタイルを見逃している。ディックは最初から私小説作家であった。彼は「短編はアイディアさえあれば書けるが、長編は作家としてのスタイルが必要だ」と述べているが、彼にとっての長編の「スタイル」は私小説とSFの混ぜ合わせである。



●人間らしくない

続いて、 畑中佳樹氏によるディック作品の人物評。

だからディックの登場人物たちは、あまり人間らしくない人間、どこか影のうすい、「存在感」のない人間である。パルプ的なおざなりの人間描写でその存在を始められてしまった彼らは、生身の人間というよりは、あくまでも作中人物に似ている。ぼくらがディック・ワールドの住人を見分けるのは、まずその存在感の希薄さによってである。たとえばディケンズの小説におけるように、ぼくらがその体型で記憶しているような人物がディック・ワールドに一人でもいただろうか。リック・デッカードの、レイグル・ガムの、ジョー・チップの体つきを、いったい誰が記憶しているだろうか。そうしてこれは、まったく当然のことである。彼らは、彼女はとても美人だった、と書きつけられたその一瞬にその全存在を始められてしまった意識にすぎないのであり、実際、半生命の状態にある意識として覚醒を強いられ続ける『ユービック』のジョー・チップにとって、いったい肉体というものがどんな風に問題になりうるというのか!

 これは「なるほど!」と思った。読書において、意識と身体という構図はしばしば抜け落ちてしまう。というのも、「登場人物のパーソナリティは、その精神によって決まる」という固定観念があって、身体という要素が過小評価されるからである。

 その人がどういう風貌なのか? 身長は? 肉付きは? 身のこなしはどうだ? こういった身体的な特徴が人間の個性を作っているわけだが、しばしばそれは忘れられる。精神的な要素の方がずっと重要だと考えるからである。だが、人間の精神にははっきりと明確な違いがあるわけではないし、現実に私たちは内面よりも外見に重心をおいて他人を測っている。それは小説でも同じで、まずは外見を描写することでその人物の個性が決まり、それを内的な要素で補っていく。
ディック作品の登場人物たちが無個性なのは、肉体的な特徴を明示されていないというのが大きいのだろう。もちろん、ディックが意図的に普通の人間、どこにでもいそうな人間を描こうとしているということもあるのだろうが。



●ペテン師に囲まれた幻視者

 最後にレム。

ここで強調しておかねばならないのだが、ある文学作品がどのようなジャンルに属しているのか決めることは、文学の理論家だけに重要な抽象的問題ではなくて、作品を読むために不可欠の前提である。理論家と普通の読者の違うところといえば結局、普通の読者の場合、すでに自分のものとしている過去の経験の影響下に、無意識的に読んだ本を一定のジャンルに分類するという点に尽きるだろう。それはちょうど、われわれが文法や統辞法を研究したことがなくても、無意識的に母国語を使っているようなものである。

 流石に鋭い。ただ、「一定のジャンルに分類する」というよりも、「自己の経験と照らし合わせる」と言った方がより正確である気がする。自分の体験を超越するような本を読むと、それがフィクションだと分かっていても、「意味不明」とか「辻褄が合わない」と読者は文句をつける。フィクションに意味があるかどうかも分からないのに、あるいは辻褄なんて最初から存在していないのに。

 ディックが優れているのは、超現実的な事象を描いていながらも、そこに現実の生活とのリンクが感じられる点である。たとえば『ユービック』で半生命状態にあるジョー・チップたちが経験する世界は、たしかにナンセンスで因果関係が吹っ飛んだ空間なのだが、不思議と現実らしさがあり、既視感があるのだ。全く真新しいシュールな異世界ではなくて、日常を一歩踏み外せば陥りそうな現実をディックは見せてくれるから、私はディックに魅了され、彼の作品を耽読してしまう。まるで麻薬だ。

なぜならば、狂気におかされたディックの世界では時が痙攣するように流れ、因果関係の網の目が――まるでしゃっくりでもするかのように――のたくるのだが、このように物理が狂ってしまった世界とは、疑いもなくディックが発明したものだからである。

 これは単純に文章が美しかった。