つやだしのレモン

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氷壁 印象と感想

 井上靖氷壁新潮文庫、1956年)


○概要

 井上靖の小説はかなり読んでいる。一番好きなのはしろばんば。これは氏の作品中でも髄一の名作で、中学受験のときに国語の問題で何度も目にした経験があります。それ以外には『夏草冬濤』『北の海』『あすなろ物語』『敦煌』『天平の甍』『蒼き狼』『おろしや国酔夢譚』『射程』『遺跡の旅・シルクロード』なども読んでます。こうやって書き並べると、私はずいぶん氏のファンらしい。ただ、本棚に並んでいるのは『しろばんば』と『氷壁』だけ。

 井上靖の長所はなんといっても「とっつきやすさ」で、どの作品もたいへん読みやすい。松本清張と同じく新聞記者出身であり、読者を意識した文章を書くのに長けています。読みやすく澱みのない文章を書く、というのは一つの高等技術であることを痛感します。

 『氷壁』も実に読みやすい。「なぜザイルは切れたのか、そもそも、果たしてザイルは切れたのだろうか」というテーマを巡ってあーでもないこーでもないを議論する、というのが大まかな構図です。しかし、それだけで600ページが埋まるわけでは当然なく、その中には複雑に絡み合う人間模様が潜んでいます。ザイル事件という一つのスキャンダルの内実や全体像を、神の視点から眺めることができるという独特な感覚が、腹の底にゾクゾクするような興奮を与えてくれるのも、この小説の魅力のひとつでしょう。



○古臭い人物設定だが、リアリティ豊かなテーマ

 この小説に登場するのはクセのあるキャラクターばかりですが、その誰もが「男は男らしく、女は女らしく」振る舞います。主人公の魚津や小坂は「山に生きる男」で、死ぬならば山で死にたいとのたまうほどのダンディズムに溢れる男です。一方、ヒロインとして登場する八代美那子や小坂かおるは男に尽くすタイプの女性たちで、魚津のような男気溢れる男子に惹かれていきます。

 この作品は恋愛小説としての側面が強いですが、その側面のみでこの小説を切り取った場合、人物設定は実に陳腐なほどシンプルです。質実剛健で逞しい主人公と、それに惹かれる2人の女性。その一方は落ち着きのある人妻で、もう一方は20台前半のうら若き乙女。主人公は当初は人妻の妖艶な魅力の虜となるが、それを振り切って若い血潮と一緒になろうと決意して、夫婦の契りを結んで愛を誓う、でも最後はロマンティックに死んじゃった。まさに安っぽいメロドラマそのものであり、その点では前近代的な古臭さが色濃い作品です。読んでいて恥ずかしくなるほどのベタベタな展開。

 それでもなお、この小説が「安っぽさ」の領域にぎりぎりで踏み込まずに済んでいるのは、「果たしてザイルは切れたのか」という特殊具体的な問いが執拗に反復されているからです。ザイル事件という地に足のついた問題が主人公をすっぽりと覆いつくし、「果たしてザイルは切れたのか」という文言が読者の頭の中で念仏のごとく繰り返し唱えられることで、大きなリアリティが作品に生まれています。知らぬ間に自分を取り巻く周囲の反応が変わってしまい、いつの間にか同情と猜疑の眼に晒されている。主人公が経験する理不尽には感情移入を強制させるほどの生々しさがあり、まるで自分の問題であるかのような錯覚さえ覚えてしまいました。



○「たしかにザイルは切れたのだ」

 小説全体を通してみると、ザイル事件は確かな解決を見ないままに風化していきます。八代教之助主導の公開実験はナイロンザイルの優秀性を示すだけに終わりました。その後、魚津がザイルを切ったという疑いこそ晴れたものの、「なぜザイルは切れたのか」という点は全く未消化のままで終息します。読者としては溜飲の下がらない展開ですが、現実の問題としてはありふれた終結の仕方です。スキャンダルが綺麗サッパリ解消されるなどということはほとんどありません。冤罪事件で無実の罪が晴らされても、疑いの目を向ける人がいなくなるわけではないのと同様です。

 この小説で書かれていたのは、それを自分の中でいかに納得できる形で消化するかが大事だということでしょう。世間では「なぜザイルが切れたのか」と議論していても、事件の当事者自身としては「たしかにザイルは切れたのだ」と納得するしか着地点はない。その着地点へと主人公が辿りつくまでを記した小説として読みました。もちろん、魚津としたら、「小坂の死を無駄にしたくない」という気持ちは常にあるのでしょうが。