つやだしのレモン

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フランケンシュタイン

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

●作品メモ

  • 翻訳はとても読みやすい。あまりに読みやす過ぎて、19世紀前半のイギリスの雰囲気とマッチしていないとさえ感じる。もう少し硬い文体の方がこの小説には合っているようにみえる。
  • 前半は退屈。怪物の独白が始まってからが面白い。
  • 価値観が古い。衒い。誇りという名の目隠しをされたイギリス人。


●言葉の軽さ

 テンポよく読める。言葉が軽い。詩的な表現を書き連ねてはいるが、それすらもとても軽いのだ。これはもちろん悪い意味で言っている。

 この小説を貫いているのは、か弱く儚く美しいものへの賛美と、貪欲で武骨な醜いものへの嫌悪である。それはまさしくロマン主義全体を彩る特徴といえるが、『フランケンシュタイン』はそれが極端だ。とてもシンプルな二項対立でしか世界を見ることができず、そのせいで描写は力を失って、機械がはじき出す数字のように味気ないものになっている。「花は美しい」というような言葉は、「四角は四角い」ぐらいに意味のない描写であって、この物語の前半の退屈な部分は全てこんなセリフ回しの反復です。「何と高貴な心の持ち主だ!」(36)なんてセリフに、何か意味があるのだろうか?




●読者を代弁する怪物

 主人公のヴィクター・フランケンシュタインは自分の孤独を雄弁に語り、いかに自分が世間からずれているのか、いかに自分が優れた才能をもっているのか、いかに自分が他人に無関心な孤高の存在なのかを読者に分かりやすく解説してくれる。この気取った主人公の性格と語りは今から見るとかえって通俗的で、コールリッジやワーズワースのような隠棲を好んだ同時代の詩人の影響がありありとうかがえる。作者のシェリーはコールリッジのファンだったと見え、作中では何度か引用されている。

 だが、そんな前半の退屈なムードは182頁までである。定型句ばかりの平凡な語りはそこで唐突に終わり、みずみずしく生命力に溢れた言葉がそれに取って代わる。ヴィクターと怪物が初めて出会うのだ。以下はその決定的な場面。

「悪魔よ、このおれに近づこうとするのか? 復讐の思いで燃えたぎるこの腕が、おまえの哀れな顔に鉄槌を下すのが怖くはないのか? 失せろ、汚れた虫けらめ! いや、そこにいるのなら、踏みつぶして塵にしてやる! ああ! おまえという哀れなやつを消し去り、悪魔のようなおまえの手で殺された犠牲者を生き返らせてやるのだ!」

「そうくるだろうと思っていた」悪魔は言いました。 (182-183)

 ヴィクターの言葉は何と空虚なことか。「お前が憎い」という気持ちを抱いたとき、このように装飾語をどっさり乗せて回りくどく説明する輩がどこにいるというのか。彼のセリフに読者の予想を裏切るものはなく、すでに使い古された文句を再生産しているに過ぎない。彼は読者が期待する以上のことは決して喋れないのだ。

 それに対して、ヴィクターが生み出した醜い怪物が発する言葉は遥かに重々しい。「そうくるだろうと思っていた」(I expected this reception)、この短い言葉によってヴィクターの存在は卑小化され、物語の隅に追いやられる。定型句ばかりのヴィクターに対して、怪物の語りは苦しみ喘ぐ人間の実感に富んでいる。簡素にして的確、本質を射抜いている。

 そしてさらに言えば、この「そうくるだろうと思っていた」というセリフは、読者がヴィクターに対して抱く気持ちに他ならない。型に嵌った語りの中から出てこようとしないヴィクターに対して読者が抱いていたストレスを、この怪物が短い言葉で表現してくれるのである。この意味では、怪物は読者の代弁者であり、退屈な物語を破壊する存在として華々しく登場してくる。

 つまり、『フランケンシュタイン』という物語において、創造主としてのヴィクターと、被創造者としての怪物という二項対立のうちには、小説の作者/読者の二項対立が潜んでいるのである。延々と退屈な物語に対して、読者の声を代弁する怪物が介入し、それを読者にとって理想的な物語へと作り変えてくれるのだ。
 読者がいなければ作者は成り立たない。怪物が存在しなければヴィクターは主人公になりえないのであって、それを怪物は最大限に生かすことで、小説内の主導権を握り、主役の座に腰掛け、結末に向けて指揮を振るうのである。




●されど作者の壁

 この作者vs読者の物語は、結末でヴィクターが死を迎えることによって、作者の死、読者の勝利という形で終わりそうに見える。けれども、勝利したはずの怪物は、作者の後を追うようにして自らの死を告げて去っていく。

「おれは死ぬのだ。そして今感じているものは永久に消えていく。この焼けるような苦しみもやがて消えてなくなる。おれは勝ち誇って葬送の山に登り、劫火の苦しみに勝利の声をあげるのだ。その大きな炎は消えていき、おれの灰は風に運ばれて海へ飲み込まれていく。わが魂は静かに眠る。たとえものを思うとも、もう今のようには思うまい。さらばだ」
 怪物は船室の窓から身を躍らせると、船のそばに浮かぶ氷の塊に乗りました。まもなく波がその身体をさらい、遥かな闇のなかへと消えていったのです。
 (399-400)

 創造主の死を看取ったあと、被造物は自らも死を選ぶ。作者が消えてしまえば読者はいなくなってしまう。作品に彩りを添える存在として登場した怪物は、当初は作者を上回るほどの活躍を見せたにも関わらず、結局は創造者なしでは存在できずに、海の藻屑と消えるのだ。

 こうして、怪物はヴィクターを倒したが、物語そのものの語り手であるメアリー・シェリーによって殺されてしまった。一度は読者が作者に打ち勝つが、その読者の命運を握るのはやはり作者だった。作者がなければ読者は成り立たない。シェリーがいなければ怪物は主人公になりえず、やはり読者は作者の前で頭を垂れるのだ。『フランケンシュタイン』はそんなメタ・フィクションの物語である。